『シャーロック・ホームズとハイゲイトの恐怖 上 (ハヤカワ文庫FT)』ジェイムズ・ラヴグローヴ早川書房
3月3日(火) 11:00
ワトスンが書いたシャーロック・ホームズの探偵録は真実ではなく、実際にあったホームズとクトゥルー神話の怪物たちとの闘いを隠蔽するため、巧妙に捏造された創作だった----というのが、ラヴグローヴ《クトゥルー・ケースブック》シリーズのあらましだ。すでに三部作として完結しているが、本書はそれを補完する「もう一冊」である。枝篇や番外篇ではなく、訳者の日暮雅通氏の言葉を借りるなら「シリーズ全体の時期にまたがる長い物語」だ。三部作のなかの要素が本作品にも出てくるが、予備知識がなくてもわかるように語られているので、いちばんはじめに本書を読み、気に入ったら三部作に手を伸ばすという順番でも、まったく支障はない。正典であるアーサー・コナン・ドイルの《ホームズ》や、ラヴクラフトとその後継者たちが創りあげた《クトゥルー神話》についても、知っていればより面白いが(「あれをそう使うか!」的なくすぐり)、そこまで突っこまなくても独立したエンターテインメントとして完結しているので心配ご無用。読んでいて「これは元ネタがありそうだな」と思ったら、検索すればたいていヒットするので、そこから芋づる式に興味を広げてみるのもいい(評者はそうやって読み、たいへん楽しい時間をすごした)。
この『シャーロック・ホームズとハイゲイトの恐怖』品は、ホームズのパートナーであるジョン・H・ワトスンが手書きで記した全八部のエピソート群が本体をなし、それをジェイムズ・ラヴグローヴの「序」と「あとがき」がサンドイッチするかたちだ。現代に生きるラヴグローヴが、およそ一世紀前に書かれたワトスンの草稿を発見し、それを世界に紹介する。ホームズが生きた時代、そして経験した困難が、私たちが生きるこの世界を照射する。それが本作品の狙いだ。
ワトスン執筆の全八部は、各部ごとに事件が起きる。箇条書きしてみよう。
●第一部(1888年秋) ハイゲイト墓地の死体消失
●第二部(同年冬) モンスターによる政府要人の脅迫
●第三部(1895年夏) 元捕鯨船船長が銛によって刺殺
●第四部(1898年秋) 殺人者が収容されていた精神病院から脱走
●第五部(1902年秋) 若い女性が連続して失踪
●第六部(1903年春) 秘密結社《ザ・カルチャード》の暗躍
●第七部(同年夏) ホームズ引退に至る経緯
●第八部(1918年秋) 隠棲のホームズに降りかかる脅威
第一部から第六部までの事件は、(表面上は)別個に発生し、それぞれ解決にむけてホームズとワトスンが奔走する。捜査の過程で得た情報、事件の裏でちらつく影などがしだいに結びついて、この作品全体を貫く大きな物語が立ちあがっていくのだ。重要な鍵となるのは、未知の菌類である。複数の種類があり、それぞれの事件でさまざまな役回りを果たす。それにクトゥルー神話の地球外生命体ミ=ゴがかかわっていることを、ホームズは早い段階に察知するのだ。彼は事件の捜査とは別に菌類の研究に取り組み、その知見が物語の先で効力を発揮する。ホームズの研究姿勢がちょっとマッドサイエンティストっぽいのが面白い。あまりのことにワトスンがたじろぐくだりもある。懐かしいサイエンス・ロマンスの雰囲気だ。
第七部は、ホームズとミ=ゴとの知恵比べであり、互いに持ち札を出しあってディールをおこなう。そこで第一部から第六部までの伏線が生きてくるのだ。SFミステリとしての、理知的なクライマックスへと至る。
そこから年代が一挙に飛んで15年後、第八部では老年になったホームズが最大のピンチに直面する。第七部で落着したと思われていた事態が急変するのだ。チェスの問題を解くような第七部とは打って変わって、クリーチャー対クリーチャーの血で血を洗うスペクタクルが繰りひろげられ、物語はカタルシスへとなだれこむ。
全篇を通しての読みどころは、なんといっても絶妙のキャラクター配置。第二部からは、コナン・ドイル《ホームズ》シリーズ最高のヒロインと目されるアイリーン・アドラーが登場し、ホームズとワトスンを翻弄する。また、アイリーンほど目立たないが、ホームズ・ファンにはお馴染みのベーカー街221Bの下宿屋主人ハドスン夫人も、重要な役回りを果たす。
もちろん、ホームズとワトスンのコントラストも、ドイル原作を引きついでいる。たとえば、本作品のSFとしてのテーマにかかわる部分、つまりミ=ゴが地球へ来た理由について、善良なワトスンは平和的・救済的なものだと解釈し、疑り深いホームズは攻撃的・占領的に捉える。第一部から第六部、それぞれの事件の顛末については、どちらの説明も成りたちそうなのだ。果たして真相は......。
(牧眞司)
