2026年度の大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が主人公。激動の戦国時代を生き抜き、兄弟で天下統一という偉業を成し遂げるサクセスストーリーが描かれるという。
庶民階級の出身でありながら、天下人にのぼりつめた秀吉。そんな秀吉は、いかにして出世していったのか。現在よく知られている若い頃のエピソードは、じつは史実ではないものも多いという。
歴史学者・河合敦編著の『1週間でわかる戦国時代』(扶桑社刊)より抜粋して紹介する。
豊臣秀吉が足軽から城持ち大名になれた理由
信長に仕えるまでの秀吉の行動は、当時の史料ではまったく追うことができない。太閤記類や軍記物語によれば、幼いころに寺に入ったが、真面目に修行しなかったので追い出され、三年後に実家に戻ってきた。
しかし、継父の竹阿弥と折り合わずに出奔。このおり母の仲が永楽銭一貫文を与えて励ましたと伝えられる。
その後、針の行商や鍛冶屋の弟子など多くの仕事を転々とするもうまくいかなかった。そのため、矢作橋で出会った盗賊の頭である蜂須賀小六(正勝)の仲間になったという。
やがて、駿河の今川義元の家臣・松下加兵衛之綱に仕え、納戸役(出納係)まで出世したが、松下家の家臣たちの嫉妬を受けて解雇されてしまう。
仕方なく故郷の尾張に戻り、つてをたよって地元の信長に仕えることになった。そんな秀吉は寒い冬の日、主君のことを思い信長の草履を温めていた。それに感心した信長は、秀吉に目をかけるようになったという。
ただ、この逸話は江戸後期の『絵本太閤記』が初出なので、史実とは考えられない。
一夜にして城をつくりあげた?
秀吉が栄達するきっかけは、墨俣城に城をつくったことだとされる。
信長は斎藤氏の支配する美濃を攻略しようとするが、なかなか斎藤氏の居城・稲葉山城を落とすことができない。そこで長良川沿いの墨俣に出城を築こうとするが、敵の妨害にあって失敗してしまう。
すると秀吉が「私にやらせてほしい」と信長に直訴。信長がこれを許すと、筏をつくって木曽川の上流から次々流し、墨俣で分解して木材とし、一夜にして城をつくりあげた。
これが有名な墨俣一夜城の逸話である。ただ、これも史実かどうか怪しいのだ。
秀吉の足跡が当時史料で判明するのは永禄十一年(1568)以後のこと。この年、信長は将軍の弟である足利義昭を奉じて上洛し、彼を将軍にすえて室町幕府を復興した。
このおり秀吉は奉行の一人として京都の統治を担っている。
主君を逃すため最後尾を守る
元亀元年(1570)四月、信長は上洛命令に従わない越前の朝倉義景を倒すべく、三万の大軍で京都から出立した。
そして次々と城を落としていったが、木ノ芽峠を越えてところで、同盟を結んでいた近江の浅井長政が裏切り、浅井軍が織田軍の退路を断ち、朝倉軍と挟撃してきたのだ。
信長は即座に戦線から離脱して事なきを得たが、主君を逃がすため殿(しんがり)を務めたのが秀吉だった。
二カ月後、体勢を立て直した信長は、徳川家康とともに姉川で浅井・朝倉軍を激戦のすえ打ち破るが、決定的なダメージを与えることができず、以後、三年近く浅井・朝倉と抗争に明け暮れることになった。
信長はその後、浅井方の支城である横山城を落とし、秀吉に城将として守らせた。秀吉はこの城を拠点にして、浅井長政の居城である小谷城下や周辺地域にたびたび出兵し、領内を荒らし回った。
さらに、浅井方の重臣や国衆たちに調略の手を伸ばし、巧みに誘降していった。浅井の重臣である宮部継潤を寝返らせるさいには、自分の甥・万丸(智の長男。のちの秀次)を人質(養子)に差し出している。
一族を外交の駒として利用したのだ。以後、秀吉は豊臣一門を外交手段の切り札としてたびたび用いるようになる。
浅井長政との戦いでの功績を認められる
織田信長はやがて比叡山延暦寺を焼き打ちし、さらに将軍義昭を京都から追放した。
上洛途中の武田信玄が病死すると、天正元年(1573)八月、秀吉が浅井の重臣・阿閉貞往を寝返らせたのを機に、三万の大軍で浅井長政の小谷城へ向かった。
これを知った朝倉義景は、長政の要請に従い、二万の兵で援軍にやってきた。すると信長は矛先を変え、奇襲をかけて朝倉軍を打ち破り、逃げる朝倉軍を追って一乗谷へ乱入して家々を焼き払い、義景を自刃させたのである。
さらに返す刀で北近江へ引き返し、小谷城に総攻撃をかけた。結果、小谷城は落ち、長政は自刃し浅井氏は滅亡したのである。
戦後の論功行賞で、秀吉は信長から浅井長政の旧領・近江国伊香郡・浅井郡・坂田郡十二万石の支配を任された。翌天正二年、秀吉は琵琶湖沿い新たに長浜城をつくり始めた。
城は琵琶湖のほとりにあり、城内に港を持ち、城の近くを重要な街道がいくつも通っていた。こうしてついに秀吉は、足軽から城持ち大名になったのである。
通常ではこの栄達はあり得ない。やはり主君の信長が、能力さえあれば門地に関係なく抜擢してくれる人物だったからだ。
もしあのまま松下加兵衛に仕えていれば、彼は徳川家康に臣従することになるから、秀吉も徳川の陪臣として世を終えたことだろう。
ねねをなぐさめた!? 信長の意外な一面
長浜城主となった秀吉だが、その後も伊勢・長島の一向一揆や甲斐の武田勝頼との戦い、越前一向一揆の平定などに駆り出され、戦地にいることのほうが多く、ゆっくり領国経営をすることができなかった。
なので、留守は秀吉の重臣や一族などが守っていた。
とくに正室のねねが、秀吉を同伴せずに安土城の信長のもとに土産物を持って訪問していることが判明している。信長に会っているのだから、当然、その妻女にも進物を渡したと思われ、女同士の外交もおこなわれたことだろう。
ちなみに、信長のもとを訪れたさい、ねねは秀吉の女癖の悪さを信長に愚痴っている。城主になったことで秀吉は慢心し始めたのかもしれない。
これに対して信長は、「あなたは以前会ったときより美しくなった。そんなあなたに秀吉が不足を申しているは言語道断だ。
あなたのような女性はどこを探してもあの禿げ鼠(秀吉)はつかまえることはできやしない。だからあなたも妻として堂々とかまえ、やきもちなどは焼かないように」と諭している。
部下の妻をなぐさめる信長というのは、何だかイメージにそぐわない。
〈TEXT/河合 敦〉
【河合敦】
歴史研究家・歴史作家・多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。1965年生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業、早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も。近著に『早わかり日本史』(日本実業出版社)、『逆転した日本史』、『逆転した江戸史』、『殿様は「明治」をどう生きたのか』(扶桑社)、『知ってる?偉人たちのこんな名言』シリーズ(ミネルヴァ書房)など多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017年に上梓
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