昭和100年の暮れに振り返る、昭和の英雄・長嶋茂雄の「凄み」【元大洋ホエールズ捕手・土井淳(きよし)氏インタビュー】

守備でもファンを熱狂させた長嶋茂雄(写真:時事)

昭和100年の暮れに振り返る、昭和の英雄・長嶋茂雄の「凄み」【元大洋ホエールズ捕手・土井淳(きよし)氏インタビュー】

12月30日(火) 17:30

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守備でもファンを熱狂させた長嶋茂雄(写真:時事)

守備でもファンを熱狂させた長嶋茂雄(写真:時事)





「長嶋茂雄が病に倒れたのが2004年だったかな?大変な思いをしながらよく頑張ったよね。体調がよければ東京六大学のレジェンド始球式に出るという話も聞いていたけど、本当に残念だ......」

1950年代後半から1960年代にかけて、大洋ホエールズで長く正捕手をつとめた土井淳は明治大学出身で、立教大学の長嶋よりも学年ではふたつ上。日本代表としてフィリピンでアジア選手権を戦った仲間でもある。

「長嶋が亡くなってから、改めて、彼を超える選手はもう出てこないだろうと思ったね。野球選手としての能力はもちろん高かったし、人間が素晴らしかった。いつも自然体、本音でぶつかってきた」

長嶋は常勝巨人の四番打者。ライバルチームの捕手としては手強い存在だった。

「バッターボックスに立つ長嶋に『調子はどう?』と聞くと、不調の時は『今、ダメなんですよ』と答える。絶好調の時は『えへへっ』と笑う。本当にウソがない。そういう時はいつも以上に警戒したもんだよ」

しかし、いくら厳しく攻めても、どうしても長嶋には打たれてしまう。

「3ボールにして、長嶋を油断させる作戦に出たこともあった。それでも打たれることのほうが多かったね。リードしている時の長嶋の打席には本当に気を使った。もし長嶋に打たれたら一気に流れが変わってしまうから。1点が1点で終わらない。もし同点ホームランを打たれたら負けを覚悟したもんだよ」

通算868本塁打を放った王貞治が長嶋の前の三番を打つことも多かったし、長嶋が三番に入ることもあった。

「王のストライクゾーンはものすごく狭かった。ホームランにできるボールを辛抱強く待っていた。長嶋の場合は反対で、ストライクゾーンが広いんだよね。普通、そういうバッターの打率は高くないんだけど、彼だけは違った。どんなボール球でも打って、ヒットにする。不思議なことに、当たり損ねでも外野手の前にポトリと落ちる。そういう運も持っていた」

長嶋は184センチの長身サウスポー・金田正一(通算400勝)もアンダースローの秋山登(193勝)も苦にしなかった。

「プロデビュー戦こそ、金田さんに4連続三振を奪われたけど、すぐにやり返した。プロでは、苦手意識を持つとずっと抑えられるものだけど、長嶋は切り替える力がすごかったね。それは彼のメンタルが優れていた証拠だと思う。

今、自分が何をすべきということを知っていた。とにかくチャンスに強かったね。それは精神的な強さからくるものだろう。長嶋は人のできないことをやるし、チームや観客が求めることをするバッターだった。宇宙人みたいなもの。人間離れしていたね。特別な存在だった」



通算打率.305、444本塁打、1522打点など打撃成績が目立つが、守備もまた一流だった。



「守備範囲の広さ、スローイングの正確さ、そして派手さがあったよね。すごいなと思ったのは独特の感性を持っていたこと。俺が三塁コーチャーをしていた時には三塁を守る長嶋とよく話をしていたんだよね」

巨人の作戦参謀であった牧野茂ヘッドコーチがベンチから守備位置の変更を指示する場面があった。

「牧野さんが『もっと三塁線を守れ』と大きなジェスチュアをしても、長嶋は気づかないふりをする。『牧野さんがなんか言ってるぞ』と言っても、長嶋は守備位置を変えることはない。もう、知らんぷりなんだよ(笑)」

土井は、長嶋なりの理由があったと推測する。

「ベンチからの指示よりも自分の感性を大事にしたんだと思う。ピッチャーの調子やバッターとの相性などを見て、『ここで大丈夫』だと。

ピンチの場面で『このバッターに気をつけろ、危ないぞ』とつぶやくこともある。そういう時には決まってヒットが出る。『だから言ったのに......』と聞こえることがあったんだよ。ある種の動物的な勘が働いたんだろうな」

昭和11(1936)年2月生まれの長嶋と昭和8(1933)年6月生まれの土井。彼らが新しいプロ野球をつくりあげた。

「読売ジャイアンツの四番だった川上哲治さんは"打撃の神様"と呼ばれていたけど、我々がプロ野球に入った頃にはベテランの先輩たちは引退を考えられるような年齢になっていた。そこに入ってきたのが長嶋で、プロ野球のイメージを大きく変えたよね」

従軍経験や当時の食糧事情もあり、プロ野球における選手寿命は今ほど長くなかった。

「その後、選手の体格もどんどん大きくなっていった。長嶋は180センチ近くあったでしょう(179センチ)。それなのにスピードがあったよね」

長嶋がプロデビューした昭和33(1958)年、日本はまだ豊かだとは言えなかった。

「週休2日の会社なんかどこにもなかったよね。みんなが一生懸命に働いていて、彼らに長嶋のプレーが勇気や活力を与えたことは間違いない。

1960年代になっても、経済も食糧事情もまだまだで、国民も明るくはなかった。戦争で身内を亡くした人も多かったし、財産を奪われた人もいた。マイナスの面が多かったからこそ、長嶋茂雄という存在が、彼のプレーが求められたんだろうね。野球の楽しさを体で表現できる男だった」

●土井淳(どい・きよし)

1933年、岡山県生まれ。岡山東高校から明治大学に進学ののち、1956年に大洋ホエールズに入団。岡山東、明治の同級生で同じく大洋に入団した名投手・秋山登と18年間バッテリーを組んだ。引退後は大洋、阪神にてバッテリーコーチ、ヘッドコーチ、監督を歴任。スカウト、解説者を経たのち、JPアセット証券野球部の技術顧問なども歴任した

取材・文/元永知宏

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