「美人の10倍は努力しよう」ガリ勉生徒会長だった少女が、“異色の人気アナウンサー”になるまで

広島屈指の人気アナウンサー、田村友里さん

「美人の10倍は努力しよう」ガリ勉生徒会長だった少女が、“異色の人気アナウンサー”になるまで

12月29日(月) 15:46

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TBS系朝の情報番組『THE TIME,』広島中継を担当するRCCアナウンサー・田村友里さんは明るくて飾らない元気なキャラクターから「ガッツ」という愛称で呼ばれる中国地方屈指の人気者です。

じつは物心がつく頃からアナウンサーになることを夢見ていた田村さんですが、アナウンサーになるまでの道のりには数々の試練が待ち受けていました。紆余曲折の末にアナウンサーとなった「ガッツ」なストーリーに迫ります。

中高一貫の進学校では「ガリ勉」の生徒会長



――学生時代の田村さんはどのような方だったんですか?

田村友里さん(以下、田村): 学生時代はいわゆるガリ勉タイプでした。中高一貫で広島の進学校に行って、東大を受けたんですけど落ちて、明治大学に進みました。

――クラスではどんな生徒でしたか?

田村: 高校では生徒会長をやっていました。元々、人前でしゃべるのは好きだったんですよ。中高は校則がめちゃくちゃ厳しい女子校で、携帯電話は持つことすら禁止、カラオケや飲食店に行くのも禁止でした。でも、厳しい学校で先生たちに怒られながら、わりとみんなで楽しくやっていました。みんなでスプリンクラーで水浴びして怒られたり(笑)。

――学生時代は勉強の成績はトップクラスだったとお聞きしましたが。

田村: そうですね。成績だけはよかったです。

――田村さんはもとから人と話したりするのが得意だったんですか?

田村: うちの家族がみんな明るい人間なので、おしゃべりな環境で育ったのは大きいかもしれません。

――生まれ育った環境が今の仕事に生きているんでしょうか?

田村: そうですね。とにかく周りを楽しませたいという気持ちはありますね。あと父親がプロゴルファーなんですけど、よく言われたのが「何をやるにしても一番か、ドベか、どちらかにしろ」と言われてきたので、自分が一番になれるものを探してずっと勉強を頑張ってきて、日本で一番の大学だから東大を目指していました。

小学生の頃からは「将来の夢はアナウンサー」一択



――結果的に田村さんは高校卒業後、明治大学政治経済学部に入られます。その中でいくつかの政策コンペで優勝もしたそうですが、もともと政治経済には興味があったのですか?

田村: 私は高校を出たら東大に行くことしか考えてなくて、明治大学も受験には行っていないんです。いわゆる「センター利用」(センター試験を合否判定に利用する私立大学の入試方式)で明治大学に受かりました。学部のこともよく知らないままに、「政治経済を学んでおけば、アナウンサーになったときに役立つかな」くらいの気持ちで選択しました。実際、アナウンサーになるとニュースを扱うことが多いので政治経済を専攻してよかったなと感じています。

――田村さんはいつ頃からアナウンサーになりたいと思い始めたのですか?

田村: 小学生のときから『めざましテレビ』でMCを務めていた高島彩さんに憧れてアナウンサーになりたいと思うようになりましたね。高島さんはオールマイティで、爽やかで、知的で「世の中にこんな素敵なお姉さんがいるんだな」と大好きだったんです。

――今の田村さんのキャラクターを考えるとかけ離れたような気がしますが……。

田村: そうなんですよ! でも、そもそもアナウンサーを目指すきっかけは高島さんですから。だから小学生のときから「将来の夢はアナウンサー」一択でした。

――実際に大学生になり、その後、迎えた就活はいかがでしたか?

田村: 私の就活は涙なしでは語れません(笑)。かなり苦労しましたが、仲間には恵まれて、元テレビ東京で今はフリーになって活躍している森香澄さんとは今でもよく会っていますよ。就活時代の仲間とは絆が深まりますよね。

アナウンサーになるために54局にエントリーシートを送る



――よろしければ就活時代の話、詳しくお聞かせいただいてもよろしいですか。

田村: 私はどこのテレビ局とか関係なく、とにかくアナウンサーになりたかったんです。実際に、北海道から沖縄まで全国54の放送局にエントリーシートを出しましたから。RCCに内定をもらったのでほかの放送局は辞退しましたが、内定が出るまでエントリーシートは出し続けていました。

――アナウンサー試験ならではの苦労などはありましたか?

田村: アナウンサー試験のエントリーシートは特殊で、特にキー局は、志望動機など文章を記入する欄がとても小さく、メインは4枚の写真(全身写真2枚、顔写真2枚)なんです。やっぱり前提として、容姿が重要なのだと思いました。

はじめは、エントリーシートすら通らず、「このままではまずい!」と、まずは写真で自分をよりよく見せる努力から始まりました。光の角度や顔の向き、髪型、服装まで研究して、数千枚ほど撮影した中から「奇跡の1枚」を発見。そこからエントリーシートでは落ちなくなりました。

――凄まじい努力ですね!

田村: それでも東京だと2次試験のカメラテストで落ちていました。でも、次の大阪や名古屋の局から情勢がだんだんと変わってきて、いいところまで進めるようになったんです。名古屋の放送局は最終面接まで残ったのですが、結局ダメで、号泣しながら名古屋の街を歩いた記憶があります。

――広島のRCCの内定をもらった瞬間はどのような心境でしたか?

田村: もうめっちゃ嬉しかったですよ。実家で内定の報告をもらったときは父親と泣きながら抱き合いましたよ! フリーでアナウンサーをやるという選択肢はもともと私にはなくて、局アナに憧れがあり、会社を背負ってアナウンサーという仕事をやるのがかっこいいなと感じていたんです。だから放送局全部落ちていたら、私どうしていたんだろうなと思いますよ。

恩師の言葉「奇跡を待つより捨て身の努力」



――まさしくガッツですね! アナウンサーになるまでの過程をお聞きしても田村さんの反骨心を強く感じます。

田村: 反骨心はありましたよ。アナウンサーってモデルやアイドルをされていた人たちも受験している世界なので、「決着がついている戦い」に私は挑んでしまったのかもしれないと思ったりもしました。だから次々と落ちると途中で諦めそうにもなるんですけど、アナウンススクールの先生に「諦めるな。奇跡を待つより捨て身の努力だ」と激励されたんです。

そこから美人の10倍は努力しようという反骨精神が芽生えました。アナウンススクールも毎週土日は朝10時から終電まで入り浸り、発声や原稿読みなどアナウンスの練習をやり続けました。

――努力をし続けるのは大変ですし、持続しにくいので、その姿勢は素晴らしいです。

田村: 生まれ持って華のある人たちに対抗するには、面接の受け答えなどが重要になるので、めちゃくちゃ面接練習はやりましたよ。「なぜアナウンサーになりたいのですか?」「やってみたい仕事は?」など面接で聞かれそうな定番な質問を単語帳に書いて、完璧な回答になるまで何度も練り直しました。それを丸暗記して、でも事前に考えてきたと思われないように「今、考えて答えている」という演技の練習までやりましたね。

――面接では予想外の質問などあったりするんですか?

田村: ありますね、たとえば「朝ごはん、なにを食べてきた」とか……。そういった質問も、どうすれば面接官と距離を縮められる回答ができるのかをあとから考えて、単語帳に書き足していきました。そういうことをやっていくとRCCを受ける頃には予想外の質問は1個もありませんでした。

入社後、上司になぜ内定したのか聞くと、面接の受け答えがちゃんとしていたのと、筆記試験の点数が過去一番くらい異常によかったといわれました(笑)。ずっと勉強してきたことが生かされたんだなと感じましたね。

――田村さんには目標に向かってひたすら辛抱強く努力していくという「努力の才能」があるんだなと感じました。

田村: もしかしたら私にとっての唯一、その才能だけあったのかなと思います。努力だけは誰にも負けないつもりです。

<取材・文/ジャスト日本>

【ジャスト日本】
プロレスやエンタメを中心にさまざまなジャンルの記事を執筆。2019年からなんば紅鶴にて「プロレストーキング・ブルース」を開催するほか、ブログやnoteなどで情報発信を続ける。著書に『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.1』『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.2』『インディペンデント・ブルース』(Twitterアカウント:@jumpwith44)

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