MGというイギリスの老舗スポーツカーメーカーのことは、車好きなら知らない人はいない。カーグラフィック誌の創設者である小林彰太郎氏も、MG好きとして広く知られた方と思う。その小林さんが、二玄社刊の世界の自動車シリーズ第18巻、MGの書籍の中で、「MGはモーリス・ガレージのイニシャルを取ったものである」と書かれていた。この本をまだ学生時代に購入した筆者も、長く、そして固くそう信じてきたのであるが、MDの熱心なエンスージァストであるバリー・ジョーンズの記述によれば、以下のように記されていて、少々驚いた。
【画像】1934年から36年まで生産されたMGのスポーツモデル、Pタイプ(写真11点)
曰く「まず最初に、MGという文字の意味を明確にしておきたいと思う。これはMorris Garagesの略ではないが、ウィリアム・モーリスと彼の会社Morris Garagesへの敬意を表して名付けられたものだ。」とある。果たしてこれがどのような意味を持つのかは、筆者個人には不明であるが、要するに単にMorris Garagesの略ではなく、そこには多くの意味合いが含まれている、ということを言いたいのかな?と理解した。
そのうえで、改めてMGというブランドについて少しだけひも解いてみたい。そしてMGを語る上で、不可欠な人物として、まずウィリアム・リチャード・モーリス。そしてもう一人がセシル・キンバーを挙げておこう。ウィリアム・モーリスは1912年にWRMモータースを設立する。WRMはウィリアム・リチャード・モーリスの略で、この会社が1919年にモーリス・モーターズに置き換えられる。イギリス、オックスフォードにおける、モーリス・モーターズの販売店が、モーリス・ガレージであり、もちろんそのオーナーは、ウィリアムス・モーリスであった。モーリス・モーターズは1924年にはイギリス最大の自動車メーカーに発展し、最盛期にはイギリス全自動車販売台数の4割以上を占めるほどの巨大メーカーになっていたのである。
そして、そのモーリス・ガレージに1921年に入社したのが、セシル・キンバーであった。1923年にはジェネラル・マネージャーに昇格し、ここから彼の情熱とアイデアが開花する。元々モーリス・ガレージは、モーリス・モーターズの販売車両をカスタマイズするのを得意としていて、キンバーはカスタマイズされた車をMGブランドで販売し、これが1928年にMGカー・カンパニーとして、モーリス・モーターズの1ディビジョンに成長を遂げていくのである。
余談ながら、GM(ジェネラルモータース)の創設者であるアルフレッド・スローンは、1930年にモーリス・モーターズを訪れ、ウィリアム・モーリスに買収の提案をする。当時、モーリスの時価総額は500万ポンドといわれていて、スローンの提案はモーリスを1100万ポンドで買収するという、極めて美味しい話だったのだが、ウィリアム・モーリスは首を縦に振らず、スローンは同じイギリスの、ヴォクスホールを買収することになるのである。
MGの立役者、ウィリアム・モーリスは後に国への貢献が認められて、ナッフィールド卿の爵位を授かり、85歳の長寿を全うした。一方のセシル・キンバーは不幸なことに1945年に起きたロンドン、キングスクロス駅の列車事故に巻き込まれ、亡くなる。この事故で死亡したのは2名だった。そのうちの一人がキンバーだったというわけである。
話を戻そう。1928年に誕生したMGは、Mタイプと呼ばれるモデルだったが、そのサブネームとして付けられていたのは、その後長く使われたミジェットの名称であった。こうしてMGは、広くスポーツモデルのブランドとして親しまれていくようになるのである。
Pタイプと称するモデルは、1934年から36年まで生産されたスポーツモデル。前半の34年~35年にかけて生産されたのがPA。そしてエンジン排気量を拡大して高性能化したモデルが、35年~36年にかけて生産されたPBである。
ロッソビアンコのモデルは、ラジエターグリルがハニカム形状をしていることから、初期のPAだと判断できる。PAとPBの違いは主としてエンジンで、PAは排気量が847cc。対するPBは939ccで、パワーもPAの36bhpに対して、43bhpとまさっていた。因みにPBのラジエターグリルは、バーチカルラインのバーが入ったデザインである。
エンジンは、当時としては非常に斬新なクロスフローのOHCという構造を持ち、かなりの高回転を許容した。キャブレターは2基のSU。メインベアリングは3個である。このメインベアリングの数が、それまでのモデルが使っていた2ベアリングから大きく進化した点であった。このエンジンは、ウーズレーディビジョンが設計したものとされている。
PA、PB共に、ボディは2シーターと4シーターがある。初期モデルのPAの方が生産台数は多く、ほぼ2000台が生産された一方、PBの方は500台ほどにとどまっている。
また、MG PAはプロモーションを兼ねていただろうが、1935年のル・マン24時間に出場。3台のワークスカーはいずれも女性によってドライブされ、それぞれ24位、25位、26位で完走を果たした。
文:中村孝仁写真:T. Etoh
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