ものまねタレントで、現在は4期目の千葉県議会議員として活動しているプリティ長嶋氏。その名が表すように、ミスタージャイアンツと呼ばれた長嶋茂雄氏のものまねで親しまれてきた。
’25年6月に、長嶋茂雄氏が肺炎のため都内の病院で89歳で亡くなって半年余りが経つ。
「巨人ファンではなく長嶋ファン」と豪語するプリティ長嶋氏は、今年6月の長嶋茂雄氏の訃報をどう受け止めたのか。そして、タレントから政治の世界へと舵を切った理由とは何だったのか。
長嶋茂雄氏との知られざる思い出と、政治家としての現在地、そして71歳となる今抱く“これから”について、じっくりと語ってもらった。
長嶋監督は生きるために不可欠なもの、「水や空気のような存在」
ーー今日はご自宅で取材させていただいていますが、すごい量のグッズですね。
プリティ長嶋:
取材なので並べてみましたが、こうして見ると本当にみんな宝物です。宮崎キャンプで長嶋監督が乗り回した自転車のサドル、サインを書いてもらった背番号3のユニフォーム、イベントでご一緒したときの写真……。ここにあるものには全部思い出がありますよ。
ーー長嶋茂雄さんが亡くなられた際、お気持ちはどうでしたか。
プリティ長嶋:
訃報を知ったのは電車の中でした。スマホに来た知り合いからのメールで“監督が亡くなりました”と。ご病気もされていたし、「ついにその日が来てしまったか」というのが率直な心境でした。
ーーやはり寂しさはありましたか?
プリティ長嶋:
もちろんショックでしたが、親族が亡くなった時のような喪失感はありませんでした。私にとって、長嶋監督は水や空気のようにずっとそこにある存在でしたから、亡くなっても私自身の心のなかに生き続けています。
ーーもっと落ち込んだかと思っていましたが意外でした。
プリティ長嶋:
そうなんです。でも、今回の取材のように後から思い出の品を見ると、一気に記憶が蘇ってくる。それが一番つらいですね。「この時はこんな会話をしたな」とか、その当時の長嶋監督の声が鮮明に蘇るんです。
背番号“3”に宿る、たった一つの悔しさ
ーープリティさんはジャイアンツの宮崎キャンプには毎年、自転車で向かわれていたそうですね。
プリティ長嶋:
はい。千葉から宮崎までの約1500キロを、キャンプしながら2週間ほどかけて向かっていました。長嶋監督は毎年「箱根は寒くなかったか?」などと声をかけてくれて、私が乗って来た自転車を気に入ってよく乗り回していました。
ーースポーツニュースでよく見かけた自転車はプリティさんのものだったんですか。
プリティ長嶋:
そうなんです。長嶋監督から「乗らせてくれ」と言われたら誰も断れないですよ(笑)。ある年なんて「俺のママチャリはスピードが出なくてダメだ! それに比べてこの自転車いいじゃないか」とたいそうお気に入りで、翌年の監督の誕生日に同じ自転車をプレゼントしました。実は最初は「監督が怪我でもされたら大変なので」とお断りしたんですが、監督がどうしても欲しいとおっしゃったのでプレゼントしました。
ーー長嶋さんとプリティ長嶋さんが自転車で並走した“ランデブー”もニュースになっていました。
プリティ長嶋:
自転車をプレゼントした年、私が宮崎に到着したらすでに長嶋監督が私の送った自転車に乗って待っていて、報道陣の前で二人で並んで走ったんです。あの経験は一生の宝物ですね。
ーーほかにキャンプでの思い出はありますか?
プリティ長嶋:
2000年、長嶋監督が背番号を33から現役時代に付けていた3に戻すと聞いて、私は監督より先に3番のユニフォームを作ってイベントで着たんです。それを楽屋で監督に見せたら「お前いい背番号付けてるじゃないか」と。「監督はいつ着るんですか?」と聞いたら「まだ言えないよ」と笑っていました。
ーー長嶋さんがジャンパーを脱ぎ、背番号3番をお披露目した映像は大きな話題になりました。
プリティ長嶋:
実はお披露目した日だけ私は宮崎にいなかったんです。北海道の仕事で1日抜けた日が、まさに“その瞬間”で。
ーーなんと!楽しみにしていたのに。
プリティ長嶋:
なんでよりによって私のいない日にと思いましたよ。翌日宮崎に戻ったら長嶋監督が「お前昨日いなかったな」と笑ってて。見せてくださいよとお願いしたんですが、「ダメだよ、その場にいなかったお前が悪い」と(笑)。本当に悔しかったですね。
「プリティは飯食っていけるのか?」ミスターの気遣いに感動
ーー長嶋茂雄さんのものまね芸でテレビに出始めた当初、ご本人にどう思われているか不安はありましたか?
プリティ長嶋:
すごくありましたよ。千葉県の水道局勤務時代に『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ系)で長嶋監督のものまねを披露してから、『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)にも出演するようになりましたが、テレビでは多少デフォルメやおちゃらけも求められる。監督を馬鹿にしているように見えるんじゃないかとずっと心配していました。
ーーその不安が解けた瞬間はあったんですか?
プリティ長嶋:
ある記者が長嶋監督に「ものまね芸人のプリティ長嶋をどう思いますか?」と質問した際、「よく勉強してやってるよ。でもあいつ、公務員を辞めて俺のものまねだけで飯食っていけるのかなぁと心配してるんだよ」と言ってくれたそうなんです。
会ったこともない1人の芸人を知ってくれているだけじゃなく、生活できるかという心配もするくらい気にかけてくれているんだと思って、本当に救われた気持ちになりました。ありがたい話ですね。
ーーものまね芸人でよくある、本人に会って公認を得る前から認知はされていたんですね。
プリティ長嶋:嬉しかったですね。なんなら初めてお会いした時に長嶋監督は「おう、久しぶり。元気か?」と声をかけてくれたんです(笑)。初対面だったにも関わらず、私の出演する番組を見て親しみを感じてくれていたのか、監督の中で「もう知っている人」という感覚だったのかもしれません。
ーー長嶋さんらしいエピソードですね。
プリティ長嶋:
宮崎キャンプの散歩中に迷子になった長嶋監督を探した時も印象的でした。私がようやく見つけて2人で帰っている途中に監督がトイレに入ったんです。
そしたらトイレを囲む凄い数のファンの方の何人かが写真を撮ろうとしたので、私は「さすがにトイレ中は失礼でしょう」と制止しました。でも監督は「撮りたきゃ撮らせればいいじゃないか」と言ったんです。トイレでも撮っていいんだと驚きました(笑)。
ーー豪快というか、ファンサービス精神が旺盛というか。
プリティ長嶋:
ええ。そういう人でした。常識で縛られないし、肩書きでも縛られない。野球のプレーはもちろんですが、そういう人間性もファンを魅了したんだと思います。
タレントから議員へ。きっかけは「命の現場」
ーーその後、プリティ長嶋さんは2007年の統一地方選挙で千葉県の市川市議会議員にトップ当選。そして2011年に千葉県議会議員に当選して現在までに通算4期活動されています。 政治の道に入ろうと思ったきっかけは?
プリティ長嶋:
きっかけは'04年に起きた野球少年の事故でした。地域の大会の運営を手伝っていた時、息子が所属するチームのライバルチームの選手が胸にボールを受けて亡くなったと聞いたんです。
ちょうどその日、私は自分も出演した千葉テレビ製作の映画「ベースボールキッズ」の試写会に参加していました。映画でも野球少年が亡くなるシーンがあるんですが、それが現実の世界の事故と重なって非常にショックを受け、何か私に力になれることはないかと考え始めたのが政治活動の始まりでした。'04年は偶然にもミスターが脳梗塞で倒れた年、思い返せば何か不思議な縁があったのかもしれません。
ーーその一件が現在も続けているAEDの普及活動に繋がるんですね。
プリティ長嶋:
そうです。亡くなった少年は胸に打球を受けたことによる心臓震盪で倒れたので、当時はまだあまり認知されていなかったAEDがあれば救えたかもしれない。それからAEDの普及活動を個人で始めました。
でも、例えば公立の学校はAEDを導入したくても学校の一存では予算が降りないし、私個人の働きかけではどうにもできない。じゃあ自分が行政側に立って構造を変えていこうと思い、立候補を決めました。
ーー政治の世界に入られて、タレントとしての経験が、政治活動に役に立っていることはありますか?
プリティ長嶋:
イベントの司会なんかはタレント時代の経験が活かされていますね。営業もたくさん回りましたから場馴れしているのは強いと思います。
あとは多少知名度がある分、議会で話を聞いてもらいやすい場面もあるかもしれません。でも、議員としては常に謙虚でいなければいけない。長嶋監督も“肩書きに縛られない人”でしたから、私もそこは大事にしています。
長嶋茂雄を胸に、これから歩む道
ーー天国の長嶋さんに伝えたいことはありますか?
プリティ長嶋:
いまも天国で「俺が死んでもプリティは飯食えてるのかな」って心配してくれているかもしれない。だから、「飯は食えてますよ」とだけ伝えたいです(笑)。
ーー議員として今後の展望は?
プリティ長嶋:
長年の活動でAEDの認知度もかなり広まりましたが、まだ100%ではない。まだまだやりたいことはあるものの、現在71歳なので年齢的にも来季の立候補をどうするかは迷っています。そこは体調と相談して決めたいです。
引退がいつになるかはわかりません。ただ、野球と政治でフィールドは違いますが、大好きな長嶋さんの名前をお借りしているので、その名に恥じないようにと思っています。
ーー長嶋茂雄さんの魅力を一言で表すならどんな言葉でしょうか。
プリティ長嶋:
人の評価や常識に縛られない姿勢ですね。誰に対しても優しく、そして自由だった。その背中をずっと追いかけてきたし、これからも追いかけ続けます。長嶋監督は亡くなっても、私の中ではずっと生きていますから。
プリティ長嶋氏は6月3日の長嶋茂雄氏の訃報の直後、千葉県庁舎での囲み取材で「長嶋茂雄は永久に不滅です」と締めくくった。長嶋茂雄の「自由」と「優しさ」に憧れ、追いかけ続けるプリティ長嶋氏の精神も、永久に不滅なのだろう。
【松嶋三郎】
浅く広くがモットーのフリーライター。紙・web問わず、ジャンルも問わず、記事のためならインタビュー・潜入・執筆・写真撮影・撮影モデル役など、できることは何でもやるタイプ。X(旧Twitter):@matsushima36
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