2025年12月1日、パリ8区のアールキュリアル本社で開催されたのは、フランス菓子界にとっても前例のない試みだった。ピエール・エルメの呼びかけによって集結した25人のトップ・パティシエたちが、自らの作品を”オークションにかける”という、これまで誰も本格的には踏み込んでこなかった領域に足を踏み入れたのである。しかもそれは、純然たる商業ではなく、児童医療支援のためのチャリティーという文脈で行われた。
【画像】アールキュリアルで起きた前例のない「オート・パティスリー」チャリティーオークション(写真20点)
会場に並んだのは、いずれも「食べて消えるデセール」という枠を明確に超えた”作品”だった。彫刻的な造形、複雑な構造、さらには職人本人とともに制作工程を体験できる権利など、通常のパティスリーでは決して成立しない価値の提示がなされていた。
その象徴が、主催者でもあるピエール・エルメの出品作だった。チョコレート495個とクリスタルを組み合わせた立体作品に、本人とともにマカロンを制作する体験が加えられたこのロットは、推定価格1万ユーロに対し、実際の落札価格は1万1,000ユーロ。別ロットとして用意されたピエール・エルメ名義の体験型作品も、同じく1万ユーロで落札され、この夜の”価格の基準点”を作る存在となった。
セドリック・グロレ、シリル・リニャック、ヤン・クヴルー、ニナ・メタイエといった、現在のフランス菓子界を象徴する顔ぶれもそれぞれの代表的な世界観を作品に託した。ヤン・クヴルーの作品は4,000ユーロの推定から競り上がり、5,000ユーロで落札。シリル・リニャックのロットは4,500ユーロ。バスティアン・ブラン=タイユールの作品も同額の4,500ユーロで買い手がついた。さらに、セバスチャン・ブイエやアンヌ・コリュブルといった実力派の作品も4,000ユーロ台前半で次々と落札され、会場のテンポは最後まで衰えることがなかった。
結果として、この一夜で集まった寄付総額は10万ユーロ超。日本円にしておよそ1,800万円前後に相当する金額である(1ユーロ=180円換算)。しかも特筆すべきは、この売上がすべて、アールキュリアル側の手数料を一切差し引かれることなく、白血病と闘う子どもたちを支援する「BAB Charity」に全額寄付される仕組みであった点だ。
BAB Charityは、パリのトゥルッソー小児病院を中心に、病室や家族の滞在環境の整備など、実際の医療現場に直接資金を投じてきた団体で、これまでに200万ユーロ以上の支援実績を持つ。今回のオークションで生まれた10万ユーロ超という数字も、単なる象徴的な金額ではなく、具体的な病棟整備へと直結する”実効性のある支援”として機能する。
この夜の本質は、単に有名パティシエの作品が高く売れた、という話ではない。菓子という、これまで「消費されること」に価値の中心が置かれてきた表現ジャンルが、「保存され、収集され、なおかつ社会的意味を帯びた価値」として再定義された瞬間だった点にある。しかもそれが、アート市場の文脈――オークションという形式――によって成立したという事実は極めて示唆的だ。
かつてクラシックカーが「移動手段」から「文化資産」「投資対象」へと変貌していったように、オート・パティスリーも今、単なる嗜好品の枠を越え、新しい市場と言語を獲得し始めている。その最初の確かな足跡が、このアールキュリアルの一夜だったといっていい。
甘美であると同時に、社会と確実に接続した価値。2025年12月1日、パリで起きたこの小さな革命は、フランス菓子界のみならず、「ラグジュアリーと社会性」というテーマにおいても、静かだが確かな転換点を刻んだ。
写真・文:櫻井朋成Photography and Words: Tomonari SAKURAI
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