元TBS記者・山口敬之氏から受けた性暴力を2017年に実名で告発し、著書『Black Box』を出版した映像ジャーナリストの伊藤詩織さん(36歳)。彼女が監督を務めたドキュメンタリー映画『Black Box Diaries』が、2025年12月12日にいよいよ日本で公開されます。
伊藤さんはこの性暴力被害について刑事・民事の両方で手続きを進め、最終的には民事裁判で同意のない性行為が事実と認定され、2022年に勝訴が確定しています。
本作は、2024年10月にアメリカのサンダンス映画祭でワールドプレミア上映され、今年には第97回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされたことでも大きな注目を集めました。
一方で本作をめぐっては、2024年から一部の映像や音声の使用方法について指摘があったことが報じられました。これを受け伊藤さんは2025年10月、自身のサイトでタクシー運転手とその家族への謝罪文を掲載。
今回の日本公開版では、指摘を受けた箇所を中心に修正が加えられていますが、修正箇所や詳しい手法などは明らかにされていません。また、映像や音声の使用をめぐっては、伊藤さんと、かつての代理人である元弁護団との間に意見の相違があることも報じられています。
映画を制作した理由などについて聞いた前編に続き、後編では、日本での公開という高いハードルを越えるまで、映画制作の過程で伊藤さんが直面した困難、そして日本社会に根付く“見えない壁”について語ってくれました。
ホテルの防犯カメラ映像を使用した理由
──日本での公開に至るまで、特に難しかった点はどこでしょうか?
伊藤:
性暴力事件において、被害者が自分の身に起きたことを話さないと、なかなか事件として扱ってもらえない難しさがあります。その中で、唯一の客観的な視覚的証拠となり得たのが、被害の現場であるホテルの防犯カメラ映像でした。裁判のために入手した映像でしたが、視覚的アーカイブを残すことは公益性の観点から重要だと考えていたため、そこに映る人たちに配慮した形で、映像に加工をほどこし使用しています。
──作中、タクシーからなかなか降りない伊藤さんを山口氏が抱えるようにして降ろし、そのままホテルの中へ連れて行くシーンは衝撃的でした。
伊藤:
かつて、私が被害を受けた後ホテルから出てくる映像だけが切り取られて流出し、「嘘をついている」「普通に歩いているじゃないか」と激しいバッシングを受けたことがあります。
その動画は何十万回と再生され、今でもネット上に存在していて、前後の文脈が分からない状態で拡散される恐怖を味わいました。防犯カメラの映像は、本来犯罪を未然に防ぐためのものであるはずなので、それが何のために作られたのかを考え、宿泊施設がサバイバーに寄り添っていく体勢が作られてほしいと言う願いはすごくあって。なので、事実に基づいた時系列を視覚的に提示する必要があったのです。
日本公開のハードルが高かった理由
──『世界』(2025年3月号)で伊藤さんは「(日本で)公開へと進めない難しさこそ、この映画が光をあてたかったことなのかもしれない」とも綴っています。本作の日本公開にも、高いハードルがあったのでしょうか。
伊藤:
以前、メディア関係者が「Collaborative Censorship(協力的な検閲)」という言葉を使っていました。例えば、独裁国家のような国だと検閲に引っかかる可能性があるのはわかるのですが、日本にはそういった明確な検閲ルールがないのに公開が難しい現状があります。
それは、忖度とか「この企業を守らなければならない」「この会社はこことつながってるから公開できない」のように検閲し合うことがあります。「なぜ上映できないのか」と聞いても、一言で「こういうテーマだから」と片付けられてしまう。その一つひとつの出来事が「ブラックボックス」だなと感じています。
──2022年、民事訴訟において同意のない性行為に関する伊藤さんの主張が認められ、山口氏へ332万円の賠償が命じる判決が確定しました。一方で、著書などで「デートレイプドラッグが使われた」と主張したことが山口氏の名誉毀損にあたるとされ、伊藤さんには55万円の支払いが命じられました。これらの裁判の結果や判断が、映画で描ける内容に影響した部分はありましたか?
伊藤:
裁判自体はすでに終わっていて山口氏が加害者であることが認められているので、映画制作における影響については特に考えていませんでした。ただ、私が一点だけ、確証が得られなかった「デートレイプドラッグが使われた」という主張については、映画の中で詳しく話すことはできません。
当時、警察にそうした薬物を調べるためのキットがなかったため、検査自体をしてもらえなかったためにこのような結果になってしまいました。ですが、私はもともとお酒に強い方なので、数杯飲んだだけで意識をまったく失うほどになることは考えられません。
私がこの経験を話したあと、日本でも「私も似たような経験がある」という声を多く聞き、この薬物の件について語れなかったのは、本当に残念だなと感じます。ただ、これは「当時の警察には検査キットがなかった」という、社会的な課題を議論するきっかけにはなると思っています。
タクシー運転手やドアマンは“大きな救い”だった
──作中では、「近くの駅で降ろしてください」という伊藤さんの訴えを耳にしていたタクシーの運転手、タクシーから降りる一部始終を目撃していたホテルのドアマンなど、事件についての重要な証言をするキーとなる人たちの存在が描かれています。特に結審間近でドアマンが伊藤さんに電話で「実名を出したうえで証言を使ってもらっても構わない」と伝えた会話は印象的でした。彼らのような証言者・協力者の存在をどう感じていますか?
伊藤:
傍観者である多くの人が声を上げられない。でも、その人たちの証言がなければ前に進まない。といった状況の中で、あの時ドアマンの方が証言してくれたり、タクシー運転手さんが協力してくれたことは、私にとって本当に大きな救いでした。彼らのような存在がいるということは、希望です。「一人が一歩踏み出すだけで変えられることがある」、Active Bystander(行動する傍観者)になれるということを教えてくれました。こういった事件が起こった時に社会でどういった対応ができるのか、改善できる点について話すきっかけになればと思っています。
──最後に、これから映画を観る方へメッセージをお願いします。
伊藤:
正直なところ、この映画を日本で公開することに、喜びと同時に恐怖も感じています。海外で講演をして回った際、多くの優秀な日本人女性たちが、日本社会の圧力に苦しみ海外へ拠点を移している現実を目の当たりにしました。それは日本にとって大きな損失だと思います。
私自身、これから日本で生きていけるのかは、この映画の反響次第だと思っています。それでも、自分たちの身近にある「ブラックボックス」を開けてみてほしいですし、対話が生まれることを願っています。
<取材・文/山﨑穂花撮影/鈴木大喜>
【山﨑穂花】
レズビアン当事者の視点からライターとしてジェンダーやLGBTQ+に関する発信をする傍ら、レズビアンGOGOダンサーとして活動。自身の連載には、レズビアン関連書籍を紹介するnewTOKYOの「私とアナタのための、エンパワ本」、過去の連載にはタイムアウト東京「SEX:私の場合」、manmam「二丁目の性態図鑑」、IRIS「トランスジェンダーとして生きてきた軌跡」がある。また、レズビアンをはじめとしたセクマイ女性に向けた共感型SNS「PIAMY」の広報に携わり、レズビアンコミュニティーに向けた活動を行っている。
Instagram :@honoka_yamasaki
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