「中学の時、コーチだと思って(同学年の)森本貴幸に挨拶した」大学卒業時まで無名だった塩谷司がプロなれたわけ

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「中学の時、コーチだと思って(同学年の)森本貴幸に挨拶した」大学卒業時まで無名だった塩谷司がプロなれたわけ

11月26日(水) 9:50

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第9回:塩谷司(サンフレッチェ広島)/前編

サンフレッチェ広島の塩谷司は、今年で15年目を数えるプロキャリアを「奇跡」だと表現する。

「水戸ホーリーホックに加入した時は、この世界で2~3年やれれば上々だと思っていたので、自分でも驚くようなキャリアになりました」

高校、大学を含めて世代別の日本代表はおろか、県選抜ですら縁遠かった無名のサッカー選手だったのだから、なおさらだろう。

そこから彼は、いかにして数々の"タイトル"を手にするチームのど真ん中で戦える選手になったのか。何がターニングポイントになり、何が今も最前線で戦い続けるモチベーションになっているのか。その根底に流れ続ける"サンフレッチェ広島愛"に触れつつ、迫り来る"引退"の考え方についても話を聞いた――。

◆ ◆◆

サッカーがうまくなりたい一心でボールを蹴っていた塩谷に、プロサッカー選手の道が拓けたのは国士舘大学4年生の時。同大学のコーチを務めていた元日本代表の柱谷哲二氏が翌年(2011年)から水戸ホーリーホックの監督に就任することが決まり、「おまえ、(水戸に)来るか?」と声をかけられたのがきっかけだ。迷うことなく、その場で「い、いいんですか!?お願いします!」と言葉を返した。

「11月くらいに、そろそろ卒業後の進路を考えなきゃいけないなって時に、テツさん(柱谷)が水戸の監督になると聞いて、そうなんだと思っていたら『おまえ、来るか?』と。クラブの強化の方から『ほしい選手がいるなら、ひとりくらい連れてきてもいいよ』と言われていたらしく、まさかのチャンスが巡ってきました。

小学5年生の時に、JFLの大塚製薬サッカー部(現徳島ヴォルティス)の試合を見て『将来はサッカー選手になりたい』と思ったものの、なにせ大学まではそれを現実的に考えられるキャリアではなく......なのに、11月に進路を考え始めたのはどうなんだって話ですけど(笑)、恥ずかしながら、最後は大学がなんとかしてくれるだろうと淡い期待を抱いていたというか。どこかサッカー部を持っている企業に入れていただいて、サッカーを続けながら仕事ができればな、くらいに思っていました」

本当に「現実的に考えられるようなキャリアではなかった」のか、少し時計の針を巻き戻してみる。

大塚製薬サッカー部の試合観戦を機にサッカー選手への憧れを抱いた塩谷は、中学校に進学するタイミングでそのアカデミーチームにあたる大塚FCジュニアユース入り。だが、ユースチームには昇格できず、徳島県立徳島商業高校への進学を決める。徳島県内では強豪として知られ、全国高校サッカー選手権の常連でもあった同校にプロになる夢を重ねた。

もっとも、中高ともに全国の舞台に立つことはできたものの、「上には上がいる」と現実を突きつけられ、"プロ"が遠のいていくような感覚を覚えていたという。

「大塚FCジュニアユースでは全国大会にこそ出場できたけど、ヴェルディジュニアユースに0-7で大敗しました。ヴェルディにはのちに中学3年生でプロデビューする森本貴幸がいたんですけど、試合会場に入ったところでヴェルディのベンチコートを着ている彼がいて、その風格からてっきりコーチだと思って挨拶したら、同い年の選手でした(笑)。

当時のヴェルディはめちゃめちゃ強くて、試合でも明らかな差を見せつけられました。という中学時代を経て、高校時代も選手権には出場できたし、1年生の時から運よく試合に出してもらえたんですけど、1回戦負けでした。2年生の時も全国には出て、3回戦で鹿児島実業高校と戦って0-5です。確か、鹿実には4~5選手、プロ入りが内定していて、試合をしながら『あ~、こういう人たちがプロになるのかぁ』と思っていました。

最終的に鹿実はこの年、決勝に進出して乾貴士や田中雄大を擁する野洲高校に負けたんですが、鹿実が野洲に負ける世界線ですからね。高校世代のトップレベルを体感できたのはよかったですが、だからこそ"プロ"は現実的に考えられませんでした」

国士舘大学に進学後もプロを目指す4年間にするはずが、関西、関東の強豪校やユースチームから集まってきた選手たちに能力の差を見せつけられ、早々に心が折れた。

「まずは『走らなきゃ』みたいな雰囲気に反発してしまったというか。ボールをつないで前進していくサッカーが好きだったのもあって、フィジカル重視のサッカーをどこか受け入れられない自分がいました。要するに、(気持ちが)弱かったんだと思います。となれば、チーム内の序列は下がるばかりで......。毎年のようにいい後輩が入ってきては抜かされていく、みたいな感じで大学3年生になる頃には内心、プロになることも諦めていました。

大学時代には時々、東京ヴェルディやFC東京といったJクラブと練習試合をさせてもらうこともあったんですけど、やれるなんて感覚を得られることはなく......っていうか、むしろそう思えていたら練習参加の声もかかったと思うんですけど、どこからも見向きもされませんでした」

転機が訪れたのは3年夏。父親が他界して大学をやめて働くことも考えるほどの岐路に立たされたのをきっかけに、塩谷はよりサッカーへの想いを強くしていく。その年の終わり頃からセンターバックにコンバートされて試合に出られるようになったことも、気持ちに火をつけた。

「僕を国士舘大に引っ張ってくれたサッカー部の佐藤孝先生には、結構早い段階から『おまえがサッカーで飯を食っていきたいなら、センターバックしか道はないぞ』と言われていたんです。でも、攻撃が好きだったのもあって『何を言ってんねん。守るポジションなんて面白くないでしょ』と聞こえないフリをしていました (笑)。

そうしたら、大学2年生の時に臨時コーチに来てくださっていたテツさんにも同じことを言われて......ちゃんとやればもっと上にいけるぞ、と。それでもまだピンとはきていなかったんですけど、3年生の秋頃だったか、やってみたら意外と面白かったんです。というか、『試合に出られるならいいか』と思っていました。

ボランチとは違って、センターバックは全体を見渡せてプレーできるし、前方からのプレッシャーしかないのでボランチよりもラクにプレーできる感覚もありました。もっとも大学での最初の3年間をサボっていただけに、そんなにすべてがうまくいったわけではなかったですけど、チームとしては総理大臣杯で3位になったり、関東リーグでも上位を争えたりしたことが自信になって、センターバックの自分にも少しずつ手応えを持てるようになっていきました」

ただし、それは「プロでも通用する」という確信を持てるほどのものではなかったという。実際、4年生の時に一度だけ、GKコーチの伝手を頼りにヴィッセル神戸の練習に参加をする機会に恵まれたものの、プロとの差を突きつけられるばかりで、プロの世界にいる自分は描けなかった。

「大久保嘉人さんがワールドカップ・南アフリカ大会から戻ってこられた直後でしたが、大久保さんと対峙しても手も足も出ない、みたいな。その時はどちらかというと試合にあまり絡めていない選手と一緒に練習をさせてもらうことが多かったんですが、高卒1年目の森岡亮太くんや有田光希くんの才能を目の当たりにして、『高卒でこれだけやれるのはすごいな』と思ったし、逆に3つ上の自分がこれじゃあ、話にならないなとも自覚しました。

それに、そもそもプロから声がかかる選手は大学1~2年生の頃から試合に出ていたり、アンダー世代の日本代表や大学選抜などに選ばれていることがほとんどだったので。そのどれにも当てはまらない僕にプロは厳しいだろう、と思っていました」

そんなふうにまったくもってプロを現実的に考えられない4年間を過ごした彼に、柱谷コーチがチャンスの手を差し伸べたのは、先にも記したとおりだ。

言うまでもなく、柱谷コーチがセンターバックとしての塩谷に光るものを感じたからに他ならないが、当の本人は今ひとつ「これで勝負する」と言い切れるほどの武器も、確信もないまま2011年、水戸でのプロキャリアをスタートさせる。目標に据えたのは堅実に「試合に出ること」。だが、そのチャンスは意外にも早く、J2リーグ開幕戦で訪れた。

「開幕前のJ1の鹿島アントラーズとのプレシーズンマッチ前まではずっとサブだったので、当然、鹿島戦も出られないと思っていたんです。なのに、もともと先発する予定だった選手がインフルエンザにかかってしまい、その代役で試合に出してもらえた。

といっても0-3で負けたし、自分自身はやれたという手応えもなかったんですけど、あとで聞いたらテツさんはその試合で『こいつ、やれるな』と思ってくれたらしく......。それもあって、J2リーグの開幕戦でも先発で使ってくれたそうです」

事実、それを機にセンターバックを預かるようになった塩谷はこの年、J2リーグ35試合に先発出場。試合を重ねるにつれて手応えをつかんでいく。

「加入してすぐの頃から、鈴木隆行さんや吉原宏太さん、本間幸司さんら、経験豊富な選手に可愛がってもらいました。ピッチでもいろんなことを教わったし、私生活でもご飯や遊びに連れて行ってもらった。しかもその人たちが結構、早い段階から『おまえはすぐにでもJ1に行ったほうがいいよ』みたいに言ってくれていたんです。最初はふざけているだけだと思っていたんですけど、繰り返し言われているうちに自分も『もしかしてやれているのかも?』と思うようになった。

あとは、当時の水戸はクラブの財政的に厳しく、C契約からスタートした選手が、A契約になる条件を満たしてもB契約になることがほとんどだったんです。なのに、僕はA契約選手にしていただいて......それも自信を持っていいのかなと思うことにつながった気がします。つまり、周りの方に評価してもらったことで、自信が積み上がっていった感じでした」

一方、チームとしては苦しい戦いを強いられ、11勝9分18敗で17位に低迷したが、結果的にその事実もセンターバックとしてのプレーを鍛えることにつながった。

「下位にいるということは、それだけ守備をしている機会が多いってことですから。もちろん、勝つためにやっているので勝てないことは毎回悔しく感じていましたけど、今になって思えば、チームとして守備の機会が多かったのは自分のプレーを鍛えるにはよかったのかもしれない。

僕自身、センターバックとしての経験値はそれほど多くはなかったなかで、レベルの高い相手選手と公式戦で対峙することによって体で覚えられたこともたくさんあったし、周りの選手と連係して守ることを覚えた経験は間違いなく、センターバックとしての基礎を磨くことにもつながったと思っています」

そうしたベースの確立はメンタル的な余裕にもつながり、そのパフォーマンスは試合を重ねるごとに迫力を増していく。特にプロ2年目に入ると、本来の「攻撃が好き」というマインドが顔を出し、起点となるようなパスやサイドチェンジ、オーバーラップなど、ダイナミックなプレーも目を引くようになった。

その姿がJ1クラブの目に留まり、「想像より遥かに早く」J1の3クラブからオファーが届いたのが2012年夏だ。塩谷に白羽の矢を立てたのは、残留争いに巻き込まれていた2クラブと、優勝争いをしていたサンフレッチェ広島。前者2クラブは金銭面を含めて条件もよく「すぐにでも戦力になってもらいたい」と求められたのに対し、広島には「この先、終盤にかけて離脱する選手が出ることも想定してポジション争いに加わってほしいと思っている」と伝えられたと聞く。

当時は、試合に出る楽しさを実感し始めていた時期。だからこそ、水戸への残留も含めて頭を悩ませたが、最後は柱谷監督に「広島に行け」と背中を押された。

「大学時代も試合に出られるようになるのが遅かったし、プロになってあらためて試合に出ることで培える自信を実感できていたので、結構悩みました。J1に行ってまた試合に出られない日々に逆戻りするんじゃないかって不安もあって、J1クラブを選ぶなら試合に出られる確率が高そうな残留争いに巻き込まれていたチームかなと気持ちも傾きかけていました。J2で下位に低迷していた水戸からJ1で優勝を争っている広島に行って、通用するのかという疑問もありました。

でもテツさんに相談したら『広島に行け。シオのプレースタイルに合うと思う』と言われ、テツさんが言うならと半ば人任せで決めました(笑)。自分のなかでも不安な気持ちの反面、心のどこかでは広島でチャレンジしたいという気持ちもあったなかで、そのスイッチを押してもらったみたいな感覚もありました」

(つづく)

塩谷司(しおたに・つかさ)

1988年12月5日生まれ。徳島県出身。国士館大学卒業後、2011年に水戸ホーリーホック入り。2012年8月、サンフレッチェ広島に完全移籍。2012年、2013年の連覇、2015年と3度のJ1制覇に貢献した。2014年には日本代表にも呼ばれ、2016年にはオーバーエイジ枠としてリオデジャネイロ五輪出場を果たす。2017年、UAEのアル・アインに完全移籍。2018年のFIFAクラブW杯ではチームを準優勝へと導く活躍を見せた。2021年6月、アル・アインを退団。同年秋、古巣の広島に復帰した。

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