ダイヤの原石の記憶〜プロ野球選手のアマチュア時代
第19回浅村栄斗(楽天)
「めちゃめちゃ真面目で努力家。僕がこれまで野球部で関わった生徒のなかでも、何番目かに好きな選手です」
2008年夏、大阪桐蔭の不動のリードオフマンとしてチームの全国制覇に貢献した浅村栄斗(楽天)について西谷浩一監督に話を聞くと、必ずこの話になる。
高校3年夏の甲子園で29打数16安打と打ちまくり、全国制覇の立役者となった浅村栄斗photo by Ohtomo Yoshiyuki
【野球をためらっていた理由】じつはこの冒頭の人物評は、浅村本人ではなく、浅村の7歳上の兄で大阪桐蔭OBでもある展弘さんについてである。
一般受験で入学し、中村剛也(西武)や岩田稔(元阪神)と同級生だった兄は、左打ちの好打者だった。だが、高校での3年間は公式戦のベンチに入ることができず悔しい経験をしたが、地道な努力は大学に進んで花開いた。
奈良産業大(現・奈良学園大/近畿学生野球連盟)でレギュラーとなると、2年秋のリーグ戦では首位打者を獲得。西谷監督はこの活躍を大いに喜び、タイトル受賞の記事が載った新聞をコピーし、選手たちに言い聞かせた。
「高校では公式戦に1回も出られなかったけど、大学でこうやって活躍している先輩がおる。野球は高校で終わりやないし、頑張ったらええこともある。そういうことを忘れんとしっかりやってくれ」
そんな努力家の兄の姿を見ながら、野球の道を歩き始めた浅村だったが、正真正銘の"野球小僧"になるまでには少し時間がかかった。
浅村が生まれた時、8歳上の長男と次男の展弘さんはすでに野球少年だった。ちなみに、父・哲弘さんも元高校球児で、母・明美さんもソフトボール経験があるなど、まさに野球一家だった。
浅村も子どもの頃から「ゲームをやるくらいなら外で遊べ!」という親の教えを実践。保育園に通い始めた頃には、兄たちについて回りながら活発に駆け回り、運動神経も発達していった。
ただ、いかんせん兄たちと年齢差があるため、「面倒だから」と追いやられ、泣きべそをかくこともしばしばあったようだ。
そんななか、浅村はサッカーやバスケットボールなど、野球以外の球技スポーツにも興味を示したが、チームに入ってまでやることは好まなかった。週末になると父とふたりの兄とともに少年野球チームの練習グラウンドについていったが、熱中するまでには時間がかかった。
ご両親に話をうかがった際、これらの理由について明美さんはこう語っていた。
「お兄ちゃんたちの野球を見て、最初の頃は楽しいと思っていたはずなんです。でも、中学、高校になるにつれて、朝起きるのは早いし、土日も遊べない。本気でやるとなると『しんどい』と思ったんでしょうね。自分から『(チームに入って)野球をやりたい』と言ってきたことはなかったです」
長男は本格的な野球は中学で引退したが、展弘さんは中学で硬式のクラブチームに入り、大阪桐蔭へと進んだ。この時、浅村は小学4年。野球の楽しさを知る前に厳しさを目の当たりにしたことで、野球一色になる生活をためらったのだろう。
【野球漬けの日々へ】そんな浅村が「本格的に野球をやる」と決断したのは小学6年の時だった。哲弘さんの記憶によると、夏に浅村を知る人物が中学の硬式チームの見学に誘った。この時点で気持ちは固まっていなかったが、その後も誘いを受け続けると、小学6年の冬、ついに大阪都島ボーイズ(小学部)への入団を決めた。
そこから3カ月あまり、野球と硬式球に慣れるため練習に通い、中学に進むとそのまま大阪都島ボーイズの中学部に入団。スタートは遅かったが、ここから浅村の野球漬けの生活が始まった。
野球の基本、実践的な動きを学んでいくと、徐々に片鱗を発揮。このタイミングで身長も大きく伸び、プレーヤーとしての印象も変わっていった。3番・セカンド(ときにショート)として活躍するようになると、進路を考えるなかで兄と同じ大阪桐蔭へとつながっていった。
中学3年時、プレーする浅村を西谷監督が見たのは一度だけ。攻守揃った好選手という印象を持ったが、「是が非でも、大阪桐蔭へ」というわけではなかった。
ただ、セカンドとショートを主としており、チームの編成上、数がいるポジションであるということ。そしてなにより西谷監督が関心を持ったのは、「あの浅村の弟」ということだった。
ところが、入部してきた浅村は「真面目で努力家」の兄とはいろんな面で違っていた。
性格は、よくいえば奔放で、のびのびタイプ。下級生の頃はなかなか野球に集中しきれず、せっかくの才能を生かせずにいた。
ある時、哲弘さんと顔を合わせた西谷監督は思わず「どうして兄弟でここまで性格が違うんですか」と尋ねたという。すると哲弘さんは「私にもわかりません......」と苦笑いを浮かべた。
それでも高校2年の夏には、1学年上の中田翔(元日本ハムほか)が投打の大黒柱として大きな注目を集めたチームで、背番号14ながらセカンドのレギュラーとして出場し、大阪大会では7割近い高打率をマーク。ただ、チームは大阪大会決勝で金光大阪に敗れ、甲子園出場は果たせなかった。
【夏の甲子園で才能が一気に開花】新チームとなり迎えた秋の大会もPL学園にコールド負け。だが、こうした悔しい敗戦を糧に"スター不在"と言われたチームは一丸となり、夏の大阪大会を制すると、甲子園でも圧倒的な攻撃力を武器に1991年夏以来となる全国制覇を果たしたのだった。
この夏、1番・ショートを務めた浅村は甲子園で打ちまくり、29打数16安打(2本塁打)という驚異的な数字を残した。
当時、西谷監督は浅村のバッティングについて「振って合わせていく積極性と独特の野性味。平田良介(元中日)に通じるものがある」と語っていたが、この甲子園での大活躍でプロの評価も一気に上がり、秋のドラフトでは西武から3位指名を受け、晴れてプロ野球選手となった。
その後の活躍はあらためて語るまでもないが、高校当時の活躍を思い出しても、今のパワフルなバッティングには簡単に結びつかない。少年時代を知る人からすれば、「あの子が......」という思いをさらに強めたことだろう。哲弘さんもしみじみこう語っていた。
「栄斗にとって一番よかったのは、年の離れた兄がいたことだと思います。一緒に遊ぶにしても、同じようには遊べず悔しい思いをしながらも、常に目線は上を向いていた。兄たちの野球をする姿を見て、上のレベルを感じることができたでしょうし、展弘が進んだ大阪桐蔭には中村選手や西岡(剛)選手がいた。
そういう選手を身近に感じることができ、『こういう選手がプロに行くのか』という、子どもなりの物差しができたのかもしれない。小さい頃から高いレベルに触れながら過ごせた環境が、栄斗の成長にとってはよかったんじゃないかと思います」
高校に入学すると、1学年上の中田翔をはじめ、超高校級の選手が何人もいた。それはプロの世界でも変わらず、当時は右を見ても左を見ても、強打者、好打者、怪物ばかり。それでも怯まず「いつか自分も......」と思えたのは、兄たちのあとを追って、遊び、泣かされた子どもの頃の経験があったからに違いない。
この環境で育ったからこそ黙々と研鑽を積み、今年5月に史上56人目となる2000本安打達成──おおいに納得である。
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