中島佑気ジョセフ(陸上400m)インタビュー@前編
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今年9月に開催された「東京2025世界陸上」で、陸上ファンのみならず世間にその名を知らしめたひとりが、男子400mの中島佑気ジョセフ(富士通)だろう。
大会2日目の予選でいきなり44秒44の日本新記録を樹立し、準決勝でも44秒53の好記録で2着となり、決勝進出を決めた。この種目で日本勢がファイナリストとなるのは、1991年の東京世界陸上で7位に入った高野進以来34年ぶりの快挙だった。
そして決勝では、メダルにこそ届かなかったものの、終盤の見事な追い上げで6位入賞を果たした。中島にとっての「英雄」高野の34年前の成績を上回ってみせた。
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中島佑気ジョセフに世界陸上の快挙を振り返ってもらったphoto by Nikkan sports/AFLO
予選、準決勝、決勝と3レースを走り、中島は連日、満員の国立競技場を沸かせた。だが実は、世界陸上を約1カ月半後に控えた8月頭の時点では、まだ出場できる確証さえもなかった。
世界陸連(WA)のランキング「Road to Tokyo 25」での出場は絶望的な状況で、参加標準記録(44秒85)をクリアするしか道はなかった。中島の当時の自己記録は45秒04。つまりは約0.2秒も記録を短縮しなければならなかった。このレベルのスプリンターにとって、それは決して簡単なことではなかった。
「けっこう、崖っぷちでしたね」
いつも前向きな言葉を発している中島がそう思ったほど、状況は危機的だった。
「冬季はうまくいっていたんです。(東京世界陸上に向けて)自信はあったんですけど......」
こう振り返るように、昨年から今年にかけての冬季のトレーニングには手応えをつかんでいた。しかし、その後から立て続けに、中島の身に苦難が降り注いだ。
中島は東洋大に在学していた時から、たびたびアメリカに渡って、陸上の名門・南カリフォルニア大学(USC)で練習を積んできていた。この春もそうする手筈だったが、渡米する前の2月に脛骨を疲労骨折してしまった。
しかも「跳躍型」の疲労骨折と呼ばれる、なかなか治りにくい箇所を痛めて、約1カ月間の休養を余儀なくされた。
【肺炎にもかかってしまって右往左往】「本当は2、3カ月行く予定だったのが、1カ月は休まないといけなくなったので、遅れました。いきなりアメリカに行くのも酷(こく)なので、完治までいかなくても『だいたい治った』と思ったところで、日本で一度、体を作り直してからアメリカに渡ることにしました」
3月から4月にかけてようやく渡米したものの、現地でのトレーニングも思うようなものにはならなかった。
以前USCで練習をともにしたマイケル・ノーマン(2022オレゴン世界陸上男子400m金メダリスト。日本人の母を持つ)はケガで離脱中。ライ・ベンジャミン(2024年パリ五輪・2025東京世界陸上男子400mハードル金メダリスト)は、USCからカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に拠点を移していた。現地の状況が、以前とはまったく違っていた。
「前みたいにみんなが揃うことがなかったですし、おまけに最後の1週間は肺炎にかかってしまい、何もできませんでした。もう全然ダメで、右往左往してしまいました」
本来であれば前年と同様に、4月にカリフォルニア州ウォルナットで行なわれるマウント・サック・リレーでシーズン初戦を迎えるプランを立てていたのだが、出鼻を挫かれた。
さらに、思うようなアメリカ滞在にならなかったばかりか、帰国してからも災難は続いた。肺炎が癒えて練習を再開してすぐに、今度は右脚のハムストリングスを肉離れしてしまったのだ。
「シーズン前半の最重要大会に考えていた」と言うアジア選手権(韓国・クミ/5月27日〜31日)は出場を辞退することになった。
「アジア選手権をすごく楽しみにしていたので、『なんとか出られないか』ってドクターに聞いたのですが、『これは無理でしょう』って言われてしまいました。ただ、肉離れは焦っても再発につながるので、ゆっくりやろうとも思いました。それでも、日本選手権で勝負できるという確信が自分のなかにありましたから」
【記録の有効期限3週間前に滑り込み】ただ、平静を装うように努めていたものの、世界陸上への道のりに黄信号が灯ったのも確かだ。
「そこまで追い込まれると、イチかバチかになりますよね。日本選手権でとりあえず決勝に残ったとしても、その後で参加標準記録を切らなければなりませんから。それも、試合数が限られていました」
ようやく迎えた今季初戦が、いきなり日本選手権(7月4日~6日)になった。3連覇がかかった一戦は、約10カ月ぶりのレースでもあった。決勝にはなんとか進んだものの、本来の走りにはほど遠く、5位に終わった。
これが、世界選手権の約2カ月前のことだった。
「WAランキングで出るのは絶対無理な状況だったので、参加標準記録を狙うために海外に遠征しようっていう話もあったんです(※実際にチームメイトの佐藤拳太郎は日本選手権直後にカナダ・エドモントンのレースに出場した)。
でも、その時の自分のポジションでは海外に行ったところで(記録を狙うための)いい試合に出られないし、いいレーンでも走れない。じゃあ、腹を据えて1カ月間しっかり練習をして、あと2試合で参加標準記録を切るしかない、っていうことになりました。いやぁ、その時は追い込まれていましたね(苦笑)」
記録を出さなければならない期限が迫るなか、その後に予定していたレースは2試合──8月3日の富士北麓ワールドトライアル2025(山梨・富士山の銘水スタジアム)と8月20日のトワイライトゲームス(神奈川・日産スタジアム)だけだった。そのいずれかで44秒85以内で走らなければならない。まさに「崖っぷち」に立たされていた。
しかしながら、中島はポジティブな思考の持ち主だ。
「ただ、(世界陸上に)行けなくはない、と思っていたんですよ」
決して強がりなどではなく、そんな自信をも持ち合わせていた。
そして実際に、そのチャンスをモノにしてみせた。
最初のチャレンジとなった富士北麓ワールドトライアルで、日本人4人目の44秒台に突入。それどころか自己記録を一気に0.2秒も短縮し、44秒84をマークして世界陸上の参加標準記録をも突破。記録の有効期限3週間前にギリギリで滑り込んだ。
【あそこまで後半を走れたのは初めて】「今考えると、そこで切っていなかったら、これ(今回の取材)も含めて全部なかったんですよね。恐ろしいですね」
こう笑って振り返るが、中島が言うように、このレースの結果によって人生はまったく違うものになっていたかもしれなかった。
中島佑気ジョセフは世界6位という結果をどう思うのかphoto by Koreeda Ukyo
逆境から起死回生を果たした経験は、中島を大きく成長させた。
「綱渡りみたいな感じでしたけど、背水の陣を敷けたというか。『(参加標準記録を)切らなきゃ切らなきゃ』ってプレッシャーをかけてしまうのではなく、これだけ苦しい状況のなかでやれることはやって、状態を整えるということができました。
あとは『なるようになるさ』ぐらいの感じで、わりと楽観的に走れたのがよかったです。そこでまたひとつ、ブレークスルーがあったなっていうふうに思っています。
どれだけ重要な試合や切羽詰まっている状況でも、ポジティブにリラックスすることは忘れずに、自分のやれることだけをやる。自分で〈コントロールできること〉と〈コントロールできないこと〉をしっかり分けて考えるのは、今回の東京世界陸上にも生きたと思います」
また、その後に出場したトワイライトゲームスでも収穫があった。この日の日産スタジアムは、バックストレートが強い向かい風だった。
「止まるんじゃないかっていうぐらいの向かい風だったので、前半が22秒2ぐらいと、めちゃくちゃ遅いタイムで入ったんです」
参考までに、世界陸上の予選で中島が日本記録をマークした時の前半200mの通過は21秒52だ。ちなみに決勝は21秒68で、ファイナリストの8人の中ではダントツの最下位の通過タイムだった。この時は、それより0.5秒も遅かった。
「400mって後半でいくら上げようと思っても、体も疲労しきっているので限度があるんですよ。でも、(トワイライトゲームスでは)後半のスプリットがめちゃくちゃ速かったんです」
200mから300mが11秒1、300mから400mが11秒5ほどでまとめて、トータル45秒10でフィニッシュした。前レースの富士北麓で出した自己記録には届かなかったが、レース内容に好感触があった。
「前半と後半で、ほぼ差がなかった。もともと後半が強いタイプではあったと思うんですけど、あそこまで後半を走れたのは初めてでした。前半をもうちょっとうまく組み立てて、後半もしっかり力を出せれば、いいレースができるんじゃないかなと思いました。すごく収穫のあったレースでしたね」
【戒めないといけない部分はある】世界陸上では、世界のトップスプリンターにも引けをとらない終盤の強さを見せつけた。その伏線は、実はこんなところにもあった。そしてそれが世界陸上での日本新記録、6位入賞という偉業へとつながっていった。
「ケガで出遅れたシーズンインから、たった2カ月でたどり着いた世界陸上。しかも地元開催っていうのも、また特別じゃないですか。たぶん自分のキャリアのなかではもう二度と(地元開催は)ないと思うので、そういった絶好の機会をしっかりモノにできたのは、めちゃくちゃうれしいです。そういった巡り合わせも含めて、自分はすごく恵まれている存在だなと思いました。
ただ、やっぱりもう少し上へ行きたかったな、という思いがあります。いろんな方々が褒めてくださいますし、いろいろな方々が声をかけてくださって、それはすごく感謝しています。だけど、これだけ反響があるからこそ、自分のなかでは満足できない部分もある。そのギャップも感じていますね。
選手としては貪欲に一番を目指さないといけない。自分のなかでしっかり戒めないといけない部分がある。そう思っています」
周囲が「偉業」と言おうとも、中島はもう満足していない。さらなる高みを目指す、中島の挑戦は続いていく。
(つづく)
◆中島佑気ジョセフ・中編>>なぜ200mではなく「キツい400m」を選んだのか
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【profile】
中島佑気(なかじま・ゆうき)ジョセフ
2002年3月30日生まれ、東京都立川市出身。小学生から陸上を始め、城西大附城西高を経て2021年に東洋大へ。2023年・2024年に日本選手権400m連覇。2024年パリオリンピックでは4×400mリレーに出場し、決勝でアジア新記録をマークする。2025年の世界陸上(東京)では400m予選で44秒44の日本新記録を樹立。決勝にも進出して6位入賞を果たし、1991年世界陸上の高野進(7位)を上回る日本人過去最高順位を残す。富士通所属。身長192cm。
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