世界に魔法をかけたフットボール・ヒーローズ
【第40回】ロナウジーニョ(ブラジル)
サッカーシーンには突如として、たったひとつのプレーでファンの心を鷲掴みにする選手が現れる。選ばれし者にしかできない「魔法をかけた」瞬間だ。世界を魅了した古今東西のフットボール・ヒーローたちを、『ワールドサッカーダイジェスト』初代編集長の粕谷秀樹氏が紹介する。
第40回はブラジル代表のロナウジーニョだ。彼ほど「世界に魔法をかけた」という表現が似合う選手もいないだろう。YouTubeで検索すれば、あふれんばかりのテクニック映像が流れてくる。笑顔でボールと戯れる姿に、世界中のサッカーファンが憧れた。
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ロナウジーニョ/1980年3月21日生まれ、ブラジル・ポルト・アレグレ出身photo by AFLO
サンバ隊のリーダーだった。
打楽器を操る彼が先頭に立ち、カフー、ロベルト・カルロス、リバウドといった豪華なメンバーとともにリズムを刻んでいる。試合会場に向かう車中でも、ロッカールームでも、「セレソン・ブラジレイロ」(ブラジル代表)は賑やかだった。
「彼はいつだって陽気。チャーミングな男だったな」
元フランス代表のミシェル・プラティニも目を細めるのが、ロナウジーニョである。
キラキラしていた。口もとに笑みを浮かべながらプレーしているようにさえ映った。ボールコントロールで相手の逆を突き、緩急で幻惑する。しかも楽しそうに、だ。
フットボールはスポーツであると同時に、プロにはエンターテインメントの要素が必要だ。プロ野球では長嶋茂雄氏や新庄剛志監督が常にファンを意識していたように、ロナウジーニョも世間を存分に楽しませてくれた。
もちろん、反対意見もある。元ブラジル代表監督のヴァンデルレイ・ルシェンブルゴは、「あまりにも自己中心的すぎる」と批判していた。個性より組織を重んじる指揮官とはソリが合いそうもない。したがって、マンチェスター・ユナイテッドに「38冠」をもたらしたサー・アレックス・ファーガソンも......。
【もしマンUに移籍していたら...】「2003年の夏にロナウジーニョを獲得しようとしていた」
ファーガソンの自著『MY AUTOBIOGRAPHY』で、意外な事実を明らかにしている。さらに......。
「交渉は順調に進み、あとは契約書にサインするだけだった。ところが契約当日、彼はなぜか意見をひるがえし、我々ではなくバルセロナを選んだ」
2003年のマンチェスター・Uはデビッド・ベッカムがレアル・マドリードに移籍し、攻撃の整備が必要とされていた。なるほどロナウジーニョなら......。いやいや、徹底的に選手を管理するファーガソンとは、どう考えても「水と油」だ。
当時、ロナウジーニョが所属していたパリ・サンジェルマンのルイ・フェルナンデス監督にも、「練習はサボるが夜遊びは欠かさない」と公(おおやけ)の場で批判されている。ファーガソンが最も嫌うタイプで、対立必至だ。まぜるな、キケン!
また、正確無比のクロス一発で試合の流れを変えるベッカムと、多種多様なトリックで相手を幻惑するロナウジーニョでは、タイプが違いすぎる。
結局、マンチェスター・Uはクリスティアーノ・ロナウドを獲得し、ロナウジーニョはバルセロナに新天地を求めた。両者のキャリアをふまえると、2003年夏の選択は大正解といって差し支えない。
その当時、バルセロナは苦しみもがいていた。1997-98シーズンと1998-99シーズンにラ・リーガを連覇したものの、その後は覇権から遠ざかっていた。
ルイス・フィーゴが怨敵レアル・マドリードへ移籍。オランダ化を推し進めるルイ・ファン・ハール監督に対する不満は渦を巻き、トップ下がベストと考えられていたリバウドは左ウイングに固定しようとする指揮官から距離をとった。
さらにファン・ハールは、「私はまったく関与していない」とフアン・ロマン・リケルメの獲得を全否定するなど、現場の責任者とは思えない発言でクラブに混乱を招いていた。
このピンチを救ったのが、ロナウジーニョである。前述のプラティニのコメントにもあるように、陽気なブラジル人は常に笑顔だった。ロッカールームでも、練習でも、試合中も、ロナウジーニョの周囲は常に明るかった。
【ミラン移籍がターニングポイント】ファン・ハール解任後、ラドミル・アンティッチを経て、監督がフランク・ライカールトに代わっていたことも幸いした。同じオランダ人でも、人選や戦略に関してライカールトは柔軟だ。
自由を与えられたロナウジーニョは、その魅力をいかんなく発揮した。相手DFに左半身を預けながら左足裏でボールを引き、反転しつつ右足ヒールでかわす。両足でまたぎフェイントを繰り返し、マーカーが体重移動を誤った瞬間、置き去りにする。
魔法のようなテクニックにバルセロニスタは熱狂し、相手サポーターも脱帽した。その極めつけは2005-06シーズンの「クラシコ」だろう。本拠サンティアゴ・ベルナベウで0−3の惨敗を喫したにもかかわらず、マドリディスタはロナウジーニョをスタンディングオベーションで称えたのだ。
お互いを激しく意識し、時には憎しみが炎上する間柄とはいえ、美しいフットボールにはクラブ間の違いも国境も存在しない。ロナウジーニョの超絶技巧は、バルセロナを忌み嫌うレアル・マドリードですら虜(とりこ)にした。
「彼がボールに触れただけで、スタジアムは特別な雰囲気を醸し出す」
ライカールトの発言は決して大げさではない。ロナウジーニョの陽気なテクニックは在籍5年間でラ・リーガ2回、チャンピオンズリーグ1回、バルセロナに優勝タイトルをもたらしている。
彼自身も2004年から2年連続でFIFA最優秀選手、2005年はバロンドールにも輝いた。残念ながらナイトライフでも絶好調を持続した結果、2008年に不摂生を嫌うジョゼップ・グアルディオラ監督によってミラン移籍を余儀なくされたとはいえ、バルセロナを語るうえでロナウジーニョが必要不可欠であることに疑問の余地は一切ない。
ロナウド、リバウドとの「3R」、アドリアーノ、カカ、ロナウドとは「カルテットマジコ」など、ブラジル代表でも一世を風靡したロナウジーニョだが、ミランでは精彩を欠いた。右足の筋肉断裂は大きなダメージとなり、リハビリに努める時期に夜な夜なの乱痴気騒ぎが報道される。人気は失望に変わり、2011年冬にイタリア屈指の名門を退団した。
【バルセロナでの輝きは永久不滅】以降、フラメンゴ、アトレチコ・ミネイロ、ケレタロFC、フルミネンセを渡り歩き、2018年に引退したあともトラブル続きだ。
税金未納、パスポート没収、怪しげなサイトの広告塔、偽造IDカード使用......。絵に描いたような転落の人生だ。2025年7月、チャリティマッチに出場するため来日。あの笑顔を振りまいていたそうだが、現在のフットボールシーンはトラブルメーカーを必要としていない。
「フットボールと音楽の楽しさを子どもたちに伝えたい」
そう語っていた第二の人生も、具体的は活動できていないようだ。このままフェードアウトしてしまうのか。
バルセロナでの輝きは永久不滅の保存版である。ロナウジーニョの明るいキャラクターは、何物にも代えがたい財産だ。
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