『週刊プレイボーイ』でコラム「呂布カルマのフリースタイル人生論」を連載している呂布カルマ
ラッパーとしてはもとより、グラビアディガー、テレビのコメンテーターなど、多岐にわたって異彩を放っている呂布(りょふ)カルマ。『週刊プレイボーイ』の連載コラム「呂布カルマのフリースタイル人生論」ではラッパー・晋平太について語った。
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★今週のひと言「20代の頃から友達だったラッパー・晋平太(しんぺいた)の訃報(ふほう)」
2025年11月8日、友人であるラッパーの晋平太がこの世を去ったことが公式Xで知らされた。
俺は実は彼が生前、正確には2年前に体調を崩して休養に入る直前にリリースする予定だった作品に参加していた縁もあって、関係者から世間よりもひと足先に知らされていた。
聞かされたときはショックだった。言葉にならないというか、その事実を聞かされただけで、その場でそれ以上何か質問をする気にもなれなかった。
ただ、「そうですか」と答えるのがやっとだった。
彼が休業して以来、彼自身のそれまでの功績もあり、その名はたびたび話題に上ったし、主にMCバトルファンたちからは常に復帰が待望されていて、彼と何度も闘った戦友でもある俺にも、彼の近況や復活時期についての質問は絶えなかった。
俺は彼が休業するに至る経緯も知っていたし、正直休業してくれてほっとしていたので、復帰を望むような声にも後ろ向きだった。
休業どころかこのまま引退したほうが幸せなんじゃないかとさえ思っていたからだ。
彼からもこの間連絡はなかったし、俺から連絡することもなかった。
調子を崩し、シーンを去った人間に現役の俺が声をかけるのは、どんな動機であれプレッシャーにしかならないと思っていた。
それが正解だったのか間違いだったのか、今となってはわからない。
晋平太と俺は1983年生まれの同い年で、お互い20代の頃からの仲だ。
日本語ラップのシーンに名を売ったのは彼のほうが早く、俺は彼の初期の音源をファンとして聴いていた。
やがて俺もラッパーとなり、現場で知り合ってからも敬語をしばらく使っていたら「同い年なんだからタメ口でいこうよ」と言ってくれて、それからはお互い気を使わない仲になった。
全国のさまざまなMCバトルの現場で何度も闘い、勝ったり負けたり、何回やったかわからない。時には同じチームで闘い、喜びを分かち合ったこともある。その日はたまたまクリスマスで、同じくタメ年のNAIKA MCが運転する車でキラッキラのイルミネーションに飾られた六本木の街をオッサン3人でドライブした。
沖縄では一緒にライブしに行って、ビーチで日が沈むのを眺めながらお互いのヒップホップ観について語り合ったりもした。
俺と晋平太は何もかもと言っていいぐらいに正反対で、とにかく話が合わない。でもそれが面白くてよくいろんな話をした。
一緒に曲も作った。いつも誘ってくれるのは晋平太のほうで、俺から誘う機会は永遠に奪われた。
俺が札幌のMCバトルで優勝した夜、おまえに誘われて初めてdj hondaさんのスタジオにお邪魔し、そこで遊びながらセッションして作った曲でおまえはこんなラップをしてたな。
「リタイアしてから静かな日々/俺らにゃ死ぬまで無理だな無理」
ライムが甘いんだよ。
おまえの訃報に日本中のヘッズが悲しんでるよ。友達ながらそんなに人気あったなんて知らなかったよ。
おまえに救われたってメッセージたくさん見たよ。何やってんだよ。しっかりしろよ。
おまえのラップはおまえ自身を救えなかったのかよ。
とか言いたくなってしまう。
このことを知らされてからずっと考えてるけど、今はまだわからない。
ただただむなしい。
撮影/田中智久
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