競輪・深谷知広が「40歳で引退」と語る真意若手ともがいた今夏の練習で芽生えたある心境とは

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競輪・深谷知広が「40歳で引退」と語る真意若手ともがいた今夏の練習で芽生えたある心境とは

11月18日(火) 17:45

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競輪界をけん引してきた選手のひとり、深谷知広photo by Gunki Hiroshi

競輪界をけん引してきた選手のひとり、深谷知広photo by Gunki Hiroshi





【衝撃的な「引退」の二文字】深谷知広(静岡・96期)の取材が終盤に差し掛かったころ、競輪人生における目標を聞いてみると、こんな答えが返ってきた。

「満足して引退すること」

本人の言う「満足」とは何を指すのか。さらに掘り下げて問うと......。「理想は40歳で引退」と言葉を選びながら静かに語った。現在35歳の深谷。年明け早々には36歳になる。もう残り少ないではないか。

一般的に競輪は選手寿命が長い。男子の平均年齢は約39歳と言われ、還暦を過ぎても走り続けている選手もいるほどだ。50代でも第一線で活躍している選手はざらにいる。競輪界屈指の実力を誇る深谷の口から今、そんな言葉が出てくるのは驚きだ。なぜ引退の二文字が頭をよぎるようになったのか。深谷のこれまでを振り返りつつ、そう語る理由も探ってみた。

【競輪選手が夢】愛知県で育った深谷は競輪ファンの父親に連れられて、よく名古屋競輪場に足を運んでいた。

「覚えているのは、入り口でお菓子をもらったとか、8番車のピンクがかっこ悪いなとか(笑)。自分は物心がついた頃から車が好きで、カタログを見たり、従妹の車に乗せてもらったり、トミカで遊んでいたりしました。トミカを持った写真も残っています。それだけ車が好きだったので、親からは『かっこいい車を買いたいなら競輪選手になれば買えるよ』と言われ続けてきました。だから周りの友達がプロ野球選手やサッカー選手の夢を語るなかで、自分は競輪選手になりたいという夢を持っていました」

小学生時代には友達と自転車レースをしたりして遊び、競輪選手になりたいという夢も周囲に語っていた。その体づくりとして陸上、水泳、ウエイトトレーニングも行なっていた。中学では陸上部に所属していたが、「ママチャリで走り回ったり」して競輪選手のイメージを膨らませ、中学3年でロードバイクを買ってもらうと、ダッシュを繰り返したり、長い距離を走ったりして、ひとりでトレーニングを積んだ。

高校から自転車競技を本格的に始めると、そのアドバンテージが生き、いきなり全国レベルの選手となった。

「みんな高校から自転車を始めるので、その前に準備している人がいなかったと思うんです。自分は(練習を)やってきたので、高校1年の時には東海大会で上位に入りましたし、インターハイにも何種目か出ました」

その実力が関係者の目にとまり、高校2年の時にはジュニアのナショナルチーム入りを果たす。「3年生と一緒に走っていた」と言うように飛び級での加入だった。高校3年時には、ジュニア世界選手権大会1kmタイムトライアルで13年ぶりにジュニア日本記録を更新するなど将来を嘱望される選手となった。

【「平成の怪物」がふたつの史上最速を記録】競輪学校(現:日本競輪選手養成所)を経て2009年7月、19歳の時に晴れて競輪選手になる夢を叶えると、デビュー開催でいきなり1着を連発して優勝。そこから6場所連続完全優勝し、わずか56日でS級へ昇級を果たす。これは史上最速での快挙だった。

「デビュー前は不安でしたが、早くS級にいって勝負したいと思っていたので、A級のレーサーパンツも1枚しか買いませんでした」

目標の大きさと不退転の覚悟が伺える。この強い気持ちはさらに大きな結果を引き寄せた。デビューから2年後、21歳の時に高松宮記念杯競輪でGⅠ初制覇を果たしたが、これも史上最速の記録。まさに偉業と言えるものだった。

「前年の(GⅠ)競輪祭で初めて決勝に乗っていて、このGⅠは2回目の決勝でした。絶対に優勝したいというよりは、まずは自分の形を作ろうと考えた結果、恵まれました」

本人は「まだ優勝を明確に目標に持てる時期ではなかった」と言うが、デビュー当時から大きな注目を集め、その圧倒的な活躍ぶりから『平成の怪物』という異名もつけられていたほどだったため、深谷がタイトルを獲ることも何ら不思議ではなかった。

深谷はGⅠ初制覇の2011年から2014年まで4年連続で最高峰のレース「KEIRINグランプリ」に出場するなど安定した結果を残し、競輪界を代表するスター選手として脚光を浴び続けていた。

深谷は若くしてスターダムにのし上がるphoto by Takahashi Manabu

深谷は若くしてスターダムにのし上がるphoto by Takahashi Manabu





【国際大会で好成績連発も】深谷は前述のように高校からジュニアのナショナルチームに所属していたが、そのまま上のカテゴリーの一員として国際大会にも出場するようになっていた。競輪デビュー後も1年ほど活動していたが、自身の成長を考えていったん区切りをつけ、競輪一本に集中していた。

しかし競輪での成績に陰りが見え始める。2014年までは好調を維持していたが、2015年以降、思ったような結果を残せなくなっていた。実力は依然上位クラスだったが、「自分は完全なトップ選手ではなくなった」。そう感じるようになっていた。

そんな折、東京オリンピックの足音が近づき、周囲でも話題にのぼることが多くなった。「自転車競技は好きで、レースや結果も見ていた」という深谷は、自身が低迷期に入っていることもあり、ナショナルチームの活動に興味を抱き始めた。

自分には刺激や変化が必要だ。ナショナルチームで何か自分にできることはないのか――。

そう考えた深谷はナショナルチームのトレーニングパートナー、いわゆる練習相手として競技に復帰することを決断した。ちなみに当時の短距離種目には、新田祐大(福島・90期)、脇本雄太(福井・94期)らが所属していた。練習相手としての参加ではあったものの、ナショナルチームの一員として国際大会にも出場するようになった。

「国際レースを走っているとやっぱり楽しかったです。国内の競輪だと上位のほうにいるので、『負けられない』と考えるレースのほうが多かったんですが、国際大会に行くと、最下位くらいなので、『負けられない』から『勝ちたい』という思いに変わったのがすごく新鮮でした」

自転車競技、競輪に情熱を傾けてきた深谷photo by Gunki Hiroshi

自転車競技、競輪に情熱を傾けてきた深谷photo by Gunki Hiroshi





また体制が一新していたナショナルチームの指導にも大きな刺激を受けた。

「これまでは自分の持っている力の範囲内で練習しようとしていましたが、ブノワ・ベトゥ(短距離ヘッドコーチ)が来たことにより、全然違うフィールドの広さのトレーニングをするようになりました。負荷のかかり方がまったく違って、『こんな練習をしたら体が壊れちゃう』と思うような練習をしていました。その衝撃が一番大きかったですね」

限界のその先へ。練習は過酷を極めたが、意識は大きく変化した。ナショナルチームを離れた今、当時を振り返って、「あれがなかったらもう(自分の競輪人生は)本当に終わっていたと思う」というほどの強い影響を受けた。

深谷はトレーニングパートナーの立ち位置だったため、「(東京オリンピックには)出られない前提で走っていた」という。また短距離種目には主にケイリンとスプリントがあり、深谷はスプリント1本に絞っていたが、「選手選考ではメダルの可能性がケイリン、スプリントの両方にあった場合、ケイリンの選手を優先することになっていた」ため、東京オリンピック出場の可能性はもともと低かった。

ただ2019-2020シーズンのトラックワールドカップでは、スプリントで銀メダルをひとつ、銅メダルをふたつ、チームスプリントでは金メダルをふたつ獲得するなど目覚ましい活躍を見せた。

世界トップクラスの実力を示していたこともあり、東京大会で補欠選手となった時には「悔しい」と感じたが、同時に「出られるか出られないかの実力までいけたのはプラスだった」と満足感も抱いていた。

熟考しながら丁寧に話す深谷photo by Gunki Hiroshi

熟考しながら丁寧に話す深谷photo by Gunki Hiroshi





【40歳で引退の真意】それでもナショナルチームでの活動を振り返る中で、深谷は後悔の念も語っている。圧倒的な力があれば、もしかしたら出場のチャンスがあったのかもしれない。そんな心残りがあった。

「今思えば、スプリントに100%でいけていなかったのがダメだったのかなと思います。気持ちは100%でしたが、生活のすべてを犠牲にするところまではいけなかった。90%くらいだったかなと思います。自分はどんなことでも80%くらいで満足しちゃうところがあります。やりたいこともいっぱいあるし、いろんなことに気持ちが向きがちな性格だと思います」

小さい頃からの車好きは今でも変わらず、彼のYouTubeチャンネルにはいくつもの車関連の動画が上がっているほどだ。同時にそれ以上の熱量を自転車競技と競輪に注いできた。

競輪デビューから17年目、ここまでトップレベルを維持し続け、今年も2月のGⅠ全日本選抜競輪で決勝3着、6月のGⅠ高松宮記念杯競輪で決勝7着と存在感を見せている。11月19日(水)から始まるGⅠ競輪祭でも優勝候補のひとりで、賞金ランキング(11月18日現在)ではKEIRINグランプリ2025出場圏内の9位にいる。

そんな深谷の意識にこの夏、唐突に変化が訪れていた。

「今の位置にしがみつくことはできるかなと思っていますが、ここから上がっていくのはちょっと難しいなと感じています。今年の夏ごろ、若手と合宿でもがいている時に、『ここで限界かな』という瞬間がありました。力としては、完全にピークは越えたなっていう感じです。今はフラットの状態から落ち始めてきたので、最終段階に入ったなという思いはあります」

続けて「競輪は単なる力比べではないので、まだやれることはあると思っている」と語り、「モチベーションが下がることもない」と言う。そんな時に出てきた言葉が「40歳で引退」だ。

「自分で決めて引退するということは、その時点で次にやりたいこと、将来のプランが見つけられているのが前提になりますし、それを見つけたいという思いもあります。だからそれを見つけられたら、引退が40歳より早まる可能性もありますし、逆に遅くなる可能性もありますね」

もともと興味の対象が多い深谷。そこに自身の競輪におけるピークを知り、人生のプランを考え始めたのだろう。

今後のビッグレースでも活躍が期待されるphoto by Gunki Hiroshi

今後のビッグレースでも活躍が期待されるphoto by Gunki Hiroshi





多くの競輪ファンは、いまだトップクラスにいる深谷の引退など想像すらしていないはずだし、今後も彼の走りを見続けたいだろう。そんなファンに向けて深谷は「どんな形でもいいので、記憶に残っていただければうれしい」とも語った。

取材ではつねにポーカーフェイスを崩さず慎重に言葉を選んでいたため、その深層心理を推し量ることは容易ではなかったが、覚悟を持って言葉を紡いでいることは感じ取ることができた。

「最終段階に入った」という深谷の走りは、いったいどんなインパクトを与えてくれるのだろうか。1レース1レース、ますます目が離せなくなった。

【Profile】

深谷知広(ふかや・ともひろ)

1990年1月3日生まれ、愛知県出身。高校から自転車競技を始めると、すぐに頭角を表し、2年時にはジュニアのナショナルチームに所属。ジュニア世界選手権大会1kmタイムトライアルでジュニアの日本記録を更新する。競輪学校(現:日本競輪選手養成所)を在校成績2位で卒業し、19歳で競輪デビューを果たすと、史上最速でS級に特別昇級。21歳の時には史上最速でGⅠ制覇を成し遂げる。KEIRINグランプリには過去6回出場。2024年10月には通算400勝を達成した。2017年からナショナルチームに復帰し、2021年10月に退いた。

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