かつて全国トップクラスの実力を誇り、各地の強豪高校がこぞって対戦を希望した東京朝鮮高(東京朝鮮中高級学校)。部員数減少に悩み、日本のチームを選択する選手も出てくる現在、実際にプレーしている選手たちはどんなことを考えているのか。声を聞いた。
>>前編「全国トップレベルを誇った東京朝鮮高サッカーの歴史」
東京朝鮮高サッカー部の選手たちphoto by Yoshizaki Eijinho
【部員数減に苦しむ現状】
「今、チームは『復活』というキーワードで戦っています。そこを目指して、意識するようにはしています」
今の東京朝鮮高サッカー部の部員に「かつて、北の代表チームが1966年イングランドW杯でベスト8に入ったこと」を聞いてみた。「今の東京朝鮮の選手たちはどんな風に捉えていますか?」と。
少しピントがずれた質問だとも思ったが、2年生で10番を背負うMF丁昌平(チョン・チャンピョン)は淀みなくそう答えた。東京都国体選抜にも選ばれたレフティーだ。
一方で、同高サッカー部の近年の成績が振るわないのも確かだ。姜宗鎭(カン・ジョンジン)監督が、先日全国高校サッカー選手権の東京都予選で敗退した代(現3年生)のチームについてこう振り返る。
「今年のチームは、地区の新人戦をどうにか勝ち上がって関東大会予選1回戦の相手が国士舘高でしたが、攻めながらも決めきれず0-1の敗退。ここにインターハイ予選のシード権もかかっていたため、インターハイはブロック予選からの出場になりました。そこでは同じT3(U-18東京都リーグ3部)の高校にミスから失点して敗戦。T3リーグのほうでは、最終節前まで6勝2敗でした。勝敗のほか、得失点差でも昇格の可能性があったのですが、結局、帝京高Cに3-5で敗れ3位に。昇格はなしになりました」
1960年代から1990年代まで日本トップレベルの実力を誇った同校は、1996年に全国高校サッカー選手権への出場資格を得た。その翌年、東京都大会決勝進出。中田浩二(元鹿島アントラーズほか)擁する帝京高に圧倒されはしたが、スコアとしては0-1で選手権本大会出場を逃している。以降、2010年代にも2015年から5年間「西が丘」(選手権東京都予選ベスト4)をキープした。
しかし、その後、過去ほどの結果は残せずにいる。姜監督は「2019年頃から、部員数が大きく減っている事情もある」という。
「2020年の代のチームは、すごく能力が高かったんですよ。でもコロナの影響でなかなか活動できなくて、結局は選手権予選の2回戦で都立東大和高にシュート30本を放ちながら決めきれず、PKで負けてしまいました。この代は非常にもったいなかったです」
その後の2021年は3年生が少ない状態に。リーグのほうでは3部に降格した。
「2022年はちょっと踏ん張って選手権予選はベスト8、リーグでも2部に上がって。でも、その頃からさらに部員が大きく減ってきたんです。2019年のころは70人超えでした。各学年25人前後いたとのですが、昨年(2024年)は全学年で35人くらいになって。3年生は5人でした」
昨年は「チームを回すのにもひと苦労」だったという。トップチームのほか、Bチームも東京都の下部リーグに参加する。さらに1年生リーグもあり、トーナメントの戦いもある。幸い今の2年生は1年生の頃からポテンシャルを発揮し、トップチームの試合に絡んでいたからなんとかマネジメントできたのだという。
「今年は、3年生が12人、1年生と2年生がそれぞれ19人で合計50人です」
【日本の高校を選択するケースも】
今、在日コリアン自体の人口も減少している。2023年の6月の時点で韓国籍・朝鮮籍を含めて43万6570人(日本政府出入国在留管理庁調べ)。これは2013年から10年で2割弱も減っている数字だ。
東京朝鮮高の生徒数も減っている。「1997年頃は全校生徒で1200人いたが、今は300人くらい」(同高サッカー部OB会長の丁明秀氏)。当然この余波はこのサッカー部にも及んでいる。民族学校ゆえ、選手を輩出しうる分母に限りがあるのだ。
さらに進路選択時に「外のチームを選択するケース」もある。
「小・中は朝鮮学校でプレーしていても、日本の学校でちょっとチャレンジしてみたいっていう選手は当然のごとくいます。昔からそれはあったことですが。最近では朝鮮学校に在籍しながらサッカー部には入らず、クラブチームでやる子も出てきています」(姜宗鎭監督)
では、実際にプレーする選手たちはどんなことを考えているのか。
10月16日の練習後、最後の選手権予選を控えた3年生12人に集まってもらった。録音用のスマホをポンと真ん中に置き、円座で言葉を交わした。
――東京朝鮮高でプレーしてよかったと思うところは?
「やっぱ朝鮮人に生まれた以上は、朝鮮人として生きていかないといけないと思うんです。とはいえ僕自身も、中学校の頃は高校選手権に憧れて、日本の高校に行く選択肢も考えました。ただ、受験勉強をやっているうちに『何のために勉強してるんだ?』と考えるようになったんです。日本史をやっている時などにです。そうしているうちに朝鮮学校で勝つことを考えるようになった。なぜなら、勝つことで全国の朝鮮同胞たちが喜ぶって考えた時に、やっぱり自分はここでやりたいと思うようになりました」
「僕は長野から東京朝鮮に入学しました。僕も一時は日本の学校に行くことも考えました。でもある時、朝高の試合を見たんですよね。その時に技術っていうよりかは魂みたいな、なんか泥臭さを感じたんです。技術も大切だけど、やっぱり魂だなと思って。さらにここに入学して、朝鮮学校ができた歴史について学びました。すると、みんなのためにプレーする重要性も感じるようになって。応援してくれる同胞がいます。そのために自分も頑張っていかなきゃいけない。そう思えたことが、この朝鮮学校に通っていてよかったところです」
――10代としての声も聞いてみたいです。K-POPとか韓流ドラマとかは観たりするの?どんなのが好き?
「(ホ・)ユンジン」「ガウル」「『愛の不時着』」
なぜか、LE SSERAFIM(ルセラフィム)とIVE(アイヴ)のメンバーの名前がピンポイントで挙がった。『愛の不時着』は「朝鮮人と日本人では見方が違うだろうなと想像するのが楽しかった」という。
――日本のサッカーはどう見てる?
「やっぱり、日本人は足下のプレーもうまいし、技術・戦術もレベルがどんどん高くなっていますね。僕が目標にしている日本人選手は遠藤航です」
――朝鮮のサッカーとの違いをどう感じていますか?
「練習試合は基本的には、日本の学校とやります。ほんとにうまい選手がたくさんいる。集中力を発揮した時のうまさが本当にすごい選手がいますよね。僕たちは決してうまいヤツらが集まった集団ではないんで、個でやるというよりかはチームでやる。そういったところは日本の子とはちょっと違うかなと」
思いは強い。ただ、生徒数の減少という変化は、現実問題として部にのしかかっている。そんな現状を感じて取れた。
【日本サッカーにとっても価値】
転じて、日本の話を。
「強さは類似性ではなく、差異の中にある」
同質の集団は停滞するが、異質な者同士がぶつかることで、新たな視点と力が生まれる、という意味だ。1989年に米国で初版が発売となり、世界で3000万部が売れ、20世紀に最も影響を与えたビジネス書とも言われる名著『7つの習慣』(スティーブン・R・コヴィー)にはそう記されている。
在日コリアンのチームが「日本人に勝つ」として向かってくる時、こちらも自らのアイデンティティに気づく。島国たる日本でそういう経験ができる機会なのだ。
2025年10月19日。東海大高輪台高のグランドには、東京朝鮮高の選手権予選2回戦の対戦相手、大森学園高の大応援団がタッチライン際に集まっていた。
ピッチ上での激しいぶつかり合いに、その応援団が騒然となるシーンもあった。それでも汚い野次が飛ぶことはなかったが、熱くなった選手同士に、審判が自制を促すべく声をかけるシーンがあった。
10番を背負う2年生エースにして、現OB会長の丁明秀(チョン・ミョンス)氏の次男でもある丁昌平(チョン・チャンピョン)が守備に入った際、相手とぶつかり合って、ボールをラインの外に弾き出すことに成功した。
相手応援団には顔を向けないようにして、大きな声で叫び、ガッツポーズをしてみせた。
それ、それだ。父であり、OB会長の父・明秀氏も「息子に吹き込んできたこと」ではないか。スポーツの試合では少々荒っぽいくらいが、むしろ平和なんだろうなとも感じる。
2025年の彼らにとって、本国のイングランドW杯ベスト8も、かつての東京朝鮮高の強さの礎となった旧ユーゴサッカーの知恵も、遠い昔の話だ。
そうであっても、
若い年齢ながらに自分が何者かを強く認識し
誰に応援されているか、認識している
強い気持ちで日本に向かってくる
真剣にこちらが嫌だと思うことを考え、実践してくる
そういうチームが日本国内に存在し続けることが、日本サッカーにとっても価値のあることなのだ。こちらとて時折、違う発想に触れなければ発展が鈍る。そういうことだ。
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