『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、高支持率でスタートした高市早苗政権の人気の背後にある"ブーム"の正体について考察する。
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高市政権の発足と内閣支持率の高さは、ある種の"右派ポピュリズム"の伸長を示していると言っていいでしょう。
私はこの空気感が、2011年3月の福島第一原発事故から翌12年にかけて続いた急進的な"反原発ムーブメント"と、どこか「鏡合わせ」のように似ている気がしてなりません――この感覚は、いま高市政権を熱烈に支持している右派からも、かつて反原発運動に身を投じた左派からも、まったく共感してもらえないでしょうが。
もちろん両者は時代も違えば環境設定もまったく違いますが、どちらも根底にあるのは「不安」です。反原発運動の引き金は得体の知れぬ放射能汚染への不安であり、原発は"絶対悪"でした。
一方、現在の右派ポピュリズムの引き金は、円安と物価高によってじわじわと生活がむしばまれる「経済不安」でしょう。その上で"悪者"に祭り上げられたのが財務省・緊縮財政であり、外国人であり、「反日」というわけです。
ただし、両者から漂ってくる"フレーバー"は異なります。
反原発運動では、著名なミュージシャンや文化人が名乗りを上げ、活動家らと一緒にデモに参加するなど、アナログな人的ネットワークによる手作り感、そして顔出し・実名によるコミットメントの重さ、切実さがありました。
それが連帯感につながった一方で、参加者とそれ以外の間に激しい断絶も生まれたのです。当時、原子力関連の研究者は"御用学者"、原発関連の仕事を一度でも受けたことがある人も"御用文化人"のレッテルを貼られました。
日本人が原発に頼ってきたという事実を無視し、エコロジーな視点も持たず、ただただ原発を"悪魔化"することに意味があるのか――そういった疑問を呈していた私も、複数の知人からFacebookなどで激しく批判され、関係が切れました。
それに対し、現在の右派ブームはもっと希薄で、お気楽です。ごく一部の右派インフルエンサーを除けばほとんどは匿名で、テンプレート化された意見をコスプレのように取り入れて理論武装した気になり、そのままSNSで拡散するだけ。人間関係を壊してでも進もうという覚悟はありません。
いつでもやめられると思いながら気軽に参加する――この姿勢は、自分では「依存していない」つもりでも気づかぬうちに抜け出せなくなっていくドラッグ依存の初期症状に似た危うさがあります。
では、この"お祭り"はどう終わるのか。
あれだけ盛り上がった反原発運動があっけなくしぼんでいったのは、エコロジカルな課題(CO2削減や火力発電の環境問題)、そしてエコノミカルな観点(電力の逼迫、電気代の高騰による生活費の圧迫や産業界からの要請)といった「現実」を前に、いつまでも夢を見続けることが難しくなったからにほかなりません。
もう少し突っ込んで振り返るなら、「部屋の中の象」、つまり冷静な状態であるならば無視できるはずのない「目の前の明らかな現実」を無視した反原発運動により熱せられた世論に押されて、時の政府はエネルギー市場を歪めるFIT(再生可能エネルギーの固定価格買取制度)を導入しました。
その結果、歴代の政権は停止中の原発の再稼働に極めて慎重にならざるを得ず、化石燃料に依存し続けたことで、今まさに物価が押し上げられています。有権者も政治家もリスク(放射能)と恩恵(電気料金、物価、エネルギー安全保障)をバランスさせて考えることを避け続け(あるいはそれが苦手であり続けているがゆえに)、一番安易な「先送り」を選び続けているとも言えるでしょう。
では、現在の右派ポピュリズムはどうでしょうか?
円安は物価を総じて押し上げているのに、日銀が利上げを逡巡している、もしくは政治的な圧力によって利上げを選択できずにいる。これもやはり、目の前を大きな「象」がゆっくりと歩いている状態です。
オーバーツーリズムに関しても同様で、ひと言でいえば"昭和の国内観光"に最適化されたままアップデートされていない観光インフラの限界が露呈しています。局所的に来訪者が集中しているにもかかわらず動線開拓には消極的で、しかも来訪者の増加による負荷に見合った対価を観光地が回収できない構造上の欠陥を抱えている。
にもかかわらず、これらを「観光公害」といったネーミングで精神論に転嫁する傾向が続いています。外国人は往々にして行儀が悪く、日本の"おもてなしの善意"を踏みにじっている――と。
また、「かごセール」のごとく安価な水準の日本の不動産を、外国のファンドや外国人富裕層が合理的に買い増した結果、不動産価格や家賃が上昇していることを「侵略」と感じてしまうのも根は同じ。思考停止と被害者意識のマリアージュです。
このような思考経路を経て、私には反原発と「日本人ファースト」に象徴される右派ポピュリズムが「鏡合わせ」に見えてしまっています。
何もかも今までのまま変えたくない、というNIMBYのコストはどんどん膨らんでいるのだから、「少しずつ考え方を変えることは実は低コストである」という「合理性」について真剣に考えたほうがいいでしょう。
今の右派ポピュリズムは、強固なイデオロギーよりも、日々の生活で人々が感じる閉塞感や不満をエネルギーとしています。だからこそ、「アベノミクスを再現すれば日本は良くなる」といった"御利益"が絵に描いた餅だと判明したとき、多くの人々は熱が冷めるように離れていくのではないでしょうか。
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