黒田博樹は1年目こそ苦労したというが、ドジャースのエースに photo by Getty Images
MLBのサムライたち〜大谷翔平につながる道
連載17:黒田博樹
届かぬ世界と思われていたメジャーリーグに飛び込み、既成概念を打ち破ってきたサムライたち。果敢なチャレンジの軌跡は今もなお、脈々と受け継がれている。
MLBの歴史に確かな足跡を残した日本人メジャーリーガーを綴る今連載。第17回は、東西の名門チームで先発投手としての役割を果たした黒田博樹を紹介する。
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【メジャーに適応しながら先発投手の地位を確立】野茂英雄がアメリカに渡ってから30年の歳月が流れたが、「名門」といわれるロサンゼルス・ドジャースと、ニューヨーク・ヤンキース両軍のユニフォームに袖を通したのは、黒田博樹ただひとりである。
黒田は、広島カープから2008年にフリーエージェントとしてドジャースに移籍する。スプリング・トレーニングでキャッチボールの相手となったのは、同じルーキーのクレイトン・カーショーという二十歳の投手だった。
黒田にとって、1年目は手探りの状態が続き、「キツかったですね」と振り返る。
「カープの時は1週間に一度の登板で、ルーティーンが確立していました。ところが、メジャーでは中4日、中5日で回っていかなければならないので、調整の方法を変えなければならない。日本では先発して、思ったように操れない球種があったとすれば、次の登板に向けてブルペンで納得いくまで調整ができます。ところが、アメリカでそれをやってしまうと、疲れが抜けないことがわかりました。そこで登板間のブルペンは調整にとどめて、ブルペンでの最後の一球が、たとえワンバウンドになったとしても、そこでやめることにしました」
投手という生き物は、最後に「バシッ」という音を響かせてブルペンを終わらせたいものだが、それを捨てたのだ。試合前のブルペンセッションも軽め。そうしないと、マウンドに上がる前に疲れてしまう。
「初回の投球で、自分が持っている球種をすべて試してみて、調子を見ながら投球を組み立てていくようになりました。そうじゃないと、移動距離も長く、国内で時差もあるメジャーリーグでプレーするのは、僕の場合は難しかったです」
黒田は1年目からローテーションの柱となり、9勝10敗。ポストシーズンでもローテーションの一角を担った。
そして翌2009年には、ジョー・トーリ監督から開幕投手に指名されるまでになる。
黒田がドジャースでプレーしたのは4年間。41勝46敗の成績だったが、2009年に打球の直撃を受けて戦列を離れた以外は、ずっとローテーションを守り続け、2011年には投球回が202イニングに到達した。
そして2011年のシーズン終了とともに、FAでヤンキースへと移籍する。ピンストライプの名門球団が黒田を求めたのである。
ヤンキース1年目の2012年は黒田のメジャー生活で最良の年となり、16勝11敗、防御率は3.07。ポストシーズンでも地区シリーズ、リーグチャンピオンシップ・シリーズの2試合で登板した。
【名門2チームの違いと「男気」の真相】
ヤンキースの3年間ではすべてシーズン30試合以上の先発を務めたphoto by Getty Images
ドジャースとヤンキース――名門球団の雰囲気の比較を黒田に聞いたことがあったが、これが興味深かった。
「僕がドジャースでプレーしていた時は、ちょうど若手が伸び盛りの時期で、ポストシーズン進出や、地区シリーズで勝った時も、クラブハウスは大騒ぎでした。もう、ノリノリという感じで。その点、ヤンキースは落ち着いていましたね。(デレク・)ジーターや、(ホルヘ・)ポサダ、(マリアーノ・)リベラといった3連覇を経験した選手もいて、地区優勝した時も、それほど喜ばない。『勝負はここからだ』という雰囲気が漂ってました。だから、地区優勝してのシャンパン・ファイトも、テレビ向けにお祝いしたあと、あっさりと解散していたくらいで」
ヤンキース時代の思い出がある。スプリング・トレーニングの取材に行った時、春の間、借りている家の裏で、黒田が釣り糸を垂らしていた。とてもリラックスしていて、シーズン中には見られない人懐こい笑顔が印象的だった。
ヤンキースでのプレーは2012年から2014年までの3シーズン。この3年間は充実したものとなり、先発登板は33試合、32試合、32試合と「皆勤」を果たし、38勝33敗の成績を残した。ここで再びFAの権利を得たが、ヤンキースは当然のことながら再契約を望んだ。シーズン162試合を戦ううえで、休まず、クオリティ・スタートの確率が高い投手を手放すわけがない。当時の報道では、日本円にして15億円、20億円という契約が提示されたという。だが、しかし――。
黒田は古巣であるカープへの復帰を決める。当時、私は黒田の著書の取材を進めていたが、最後の最後まで、迷った末の決断だったという。
「夜にはアメリカに残ろうと思っていても、朝になるとカープに戻ろうと思ったり......。もう、自分でもどうしたらいいかわからない状態でした。ただ、自分がまだ第一線で投げられる投手のうちにカープに戻りたいという思いはありました。しっかり先発としての務めを果たして、チームの優勝に貢献したいと思っていたので」
黒田のこの決断は「男気」と称賛された。ただ、黒田は苦笑いを浮かべる。
「僕自身は、一度も男気とは言ったことはないんですよ(笑)」
【Profile】くろだ・ひろき/1975年2月10日生まれ、大阪府出身。上宮高(大阪)―専修大。1996年NPBドラフト2位(広島東洋)。
●NPB所属歴(13年):広島東洋カープ(1997〜2007、2015〜16)
●NPB通算成績:124勝105敗1セーブ1ホールドポイント(321試合)/防御率3.55/投球回2021.2/奪三振1461
●MLB所属歴(8年):ロサンゼルス・ドジャース(2008〜11/ナショナル・リーグ)−ニューヨーク・ヤンキース(2012〜14/アメリカン・リーグ)
●MLB通算成績:79勝79敗(212試合)/防御率3.45/投球回1319.0/奪三振986*プレーオフ(3年):2勝2敗(5試合)/防御率3.94/投球回29.2/奪三振22(2008、09、12)
●日本代表歴:2004年アテネ五輪(3位)
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