日本ボクシング世界王者列伝:山口圭司 北の大地から世界の頂点へ羽ばたいた「未完の大器」の魅力と浪漫

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日本ボクシング世界王者列伝:山口圭司 北の大地から世界の頂点へ羽ばたいた「未完の大器」の魅力と浪漫

11月12日(水) 7:00

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世界王者となった山口圭司は、「未完の大器」のままリングを去った印象が強い photo by AFLO

世界王者となった山口圭司は、「未完の大器」のままリングを去った印象が強い photo by AFLO





井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち15:山口圭司

世界チャンピオンであっても、実は未完の大器。そう評したくなるボクサーは幾人もいる。山口圭司もまた、そのひとり。世界タイトル初挑戦こそ敗れたが、その半年後の1996年春、不敗の難敵を攻略してWBA世界ライトフライ級王座を獲得。スピーディーで華やかなアクションを持ち味とするサウスポーは、長く世界のトップに君臨するかと思われたが、2度目の防衛戦で無残な敗北を喫すると、力を十分発揮することなく、やがてリングを去ることになった。(文中敬称略)

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【開拓者の町から育ったスーパースター候補】山口圭司と最初にすれ違ったのは1991年の秋、北海道の函館だった。函館大学付属有斗高校3年生だった彼は、その年の全国選抜選手権、インターハイ、国民体育大会と少年ボクシング3大トーナメントをすべて制した。ただし、山口と会話を交わした記憶はまるでない。彼が練習していた現地の桜井ボクシングジムの取材が目的の旅だった。山口は会食をともにしながら、自分の分を食べ終えるとそそくさと席を立ち、言葉をかける間もなく、そのまま去っていったのだ。

山口が育ったジムの話はたくさん聞いた。すでに80の齢に到達していた会長の桜井房次は函館にうどん屋の倅(せがれ)として生まれ、大正・昭和初期に、さらに奥地へと開拓に向かう人々を見送りながら育った。やがてスポーツで身を立てようと、伝説の野球チーム『函館太洋(オーシャン)倶楽部』入団を目指しながらも夢は叶わず、"ノンプロ"ボクサーになった。芝居小屋の舞台に4本の丸太を荒縄で囲んだ仮設リングで、北海道の強豪たち、中央の大学生と戦った。そして北のジーン・タニー(1920年代、技巧で鳴らした世界ヘビー級チャンピオン)と呼ばれるほど活躍した。ただし、それらの記録は、公式なものとしてはいっさい残っていない。

戦後、自動車修理の町工場を経営し、隠居の頃合いとなって念願のボクシングジムに改装した。もともと選手時代から独学で指導法もまた同じ。それでも国体の北海道代表を複数名育てたのが自慢だったが、山口が飛び抜けた存在だったのは言うまでもない。

少年時代から、山口は長身と長いリーチを持つ、冴え冴えとしたアウトボクサーだった。軽やかなステップで距離を保ち、同世代のライバルたちをまったく寄せつけなかった。インターハイを取材した私も、ゆくゆくは五輪ボクサーに育つものと確信した。パワー面、体格面ではまだまだ成長期にあるとみて、アマチュアで戦い続けるほうが大成への近道になるとも思い込んでいた。実際、多くの有力大学も色めき立って山口獲得へと動いていると聞いていた。だが、山口の選択は違った。大阪にあるグリーンツダジムからのプロ入りを選んだ。

「(山口は)うちの井岡弘樹(2階級制覇世界王者)のファンらしくてね。弘樹と話をさせたら、一発だったよ」

押しの強さでは定評があった津田博明会長(故人)は、のちに呵々大笑(かかたいしょう)とともにスカウトの顛末を話してくれたことがある。

【スピード豊かな戦いで世界王座に駆け上る】プロ向きかどうかのいかんに関わらず、山口が雄大な可能性を秘めたボクサーである事実に変わりはない。1992年にプロデビュー。1994年には王座決定戦に勝って日本ライトフライ級チャンピオンになる。3度防衛すると17連勝不敗のまま、世界タイトルに挑戦する。1995年9月、しぶとさには定評があるWBA世界ライトフライ級チャンピオン、崔熙墉(韓国=チェ・ヒヨン)にダウンを奪われて敗れたが、1-2判定と肉薄する善戦は、その後のキャリアに大きくプラスになると信じられた。

1996年5月、初黒星から半年、早くも2度目のチャンスが与えられる。相手は崔から王座を奪い取ったカルロス・ムリージョ(パナマ)。"石の拳"ロベルト・デュラン(1970年代から80年代にかけて世界4階級制覇を果たしたパナマの世界的大スター)の再来というのはいささか大げさなキャッチフレーズだとしても、分厚い攻撃力が評判だった。山口はやや打ち合いにはやるシーンがあり、左目を大きく腫れ上がらせながらも、8ラウンドには右フックでダウンを奪って(判定はスリップ)、判定勝ち。早くも世界の頂点に立った。

それから84日目、ムリージョとのリターンマッチが、結果的には山口のベストファイトではなかったか。その本領である俊敏な動きに乗せ、多彩なブローでパナマ人につけ入るスキを与えなかった。まったくのワンサイドマッチのまま、前王者を退ける。KOの迫力にこそ欠けたが、このまま勝ち進んでいけば、スピードスターとして日本のエースに育つかもしれないと思った。

だが、直後から山口のキャリアは一気に暗転する。2度目の防衛戦だった。同じサウスポーのピチット・チョーシリワット(タイ)に余裕の動きを見せながら戦っていた2ラウンド、右フックを浴びて痛烈に倒される。記録上はTKOだったが、実質的なワンパンチKO負けだった。そしてその後、山口は2度と世界の頂に立つことがなかった。

【憧れの超変則王者になりきれなかった――】大器が完成への道のりを阻ばれた理由は、何だったのか。

ひとつ目は過酷な減量があった。崔との最初の世界戦に臨むころには、ライトフライ級に到達するまでに、20kgに迫る肉の削ぎ落としを強いられるようになっていた。

あるいは、ファイトスタイルそのものに問題があるとも指摘された。当時、世界のリングでセンセーションを巻き起こしていた、悪魔王子ことプリンス・ナジーム・ハメド(英国)に山口は心酔していたという。ノーガードに大胆不敵な挑発、さらにノールックパンチと、ありとあらゆる"奇想天外"を戦いに詰め込み、きわどいタイミングのカウンターでものすごいノックアウトを演出する。そんなハメドの常識を飛び越えた戦い方を、山口はそっくり真似ようとした。ピチット戦ではハメドを真似てヒョウ柄のふんどしスタイルのトランクスで戦ったものだ。

ピチット戦後、山口はフライ級、さらにスーパーフライ級と階級を上げる。グリーンツダジムを離れ、東京にあるTAIKOH小林、新日本木村ジムと移籍し、心機一転を図り、2度、世界に挑んだのだが、いずれも敗れる。敗退のパターンはいつも同じ。はっきりとスキを作ったまま、むやみに打ち合いを挑み、迎え撃たれる。そのたびに、もともと打たれて強くはない山口は、いとも簡単に崩れた。

2002年、スーパーバンタム級のウェイトで戦った元日本王者、瀬川設男(ヨネクラ)戦で4度のダウンを喫して、ついに3連続TKO負けとなり、山口はリングを去った。まだ28歳。25年後の今なら、まだまだこれからという年齢だった。

開拓の地で戦い、自らは夢にさえ見られなかった世界タイトルマッチに愛弟子が勝った夜、桜井房次のジムには多くの練習生、OBが集まり、複数のテレビカメラの前で喜びを爆発させた。

その桜井は故人となり、家族が引き継いだそのジムも今はない。山口は大阪・河内にバーを開いている。自身は納得できないボクシング生活だったかもしれないけれど、あのころ憧れ続けた『ハメド』を店名にした。息子の臣馬はプロで戦ったものの不敗のまま引退し、現在はボクシング・トレーナー業に携わる。野心、憧憬、希望――。日々は遠く行き過ぎても、開拓の時代から引き継がれた浪漫は今もリングの記憶にたゆた(揺蕩)う。

●Profile

やまぐち・けいじ/1974年2月17日生まれ。北海道函館市出身。函館大学付属有斗高校に通いながら、同じ市内にある桜井ジムでボクシングを学ぶ。3年生時に高校の3大トーナメントを制し(ライトフライ級)、脚光を浴びた。卒業と同時に大阪のグリーンツダジムでプロ活動を開始。持ち前のスピーディーなアウトボクシングで一気に勝ち上がり、1996年にはWBA世界ライトフライ級チャンピオンに。さらに将来を嘱望されたが、2度目防衛戦で敗れると、その戦歴は下降線をたどった。ジムを移籍し、階級を上げて2度、世界戦に挑むもいずれも完敗。2002年に引退した。38戦29勝(11KO)8敗1分。

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