偶然の出会いからヒストリックカーとの関わりが始まった二人。ツール・オートとル・マン・クラシックを築き上げたパワーカップルは、2024年のインターナショナル・ヒストリックモータリング・アワードにおいて「生涯功労賞」を受賞した。
【画像】自動車イベントで大きな功績を残したパワーカップル、シルヴィアンとパトリック・ピーター夫妻(写真16点)
シルヴィアンとパトリック・ピーター夫妻は約40年を経て、自身のビジネスの舵取りを新たなオーナーに託した。このタイミングは彼らが受賞した「生涯功労賞」と、2024年のインターナショナル・ヒストリックモータリング・アワードでトロフィーを手にしたことと重なる。その直前、本誌はピーター夫妻が住むパリの自宅を訪れ、パトリックに関する意外な事実を知ることになった。パリ近郊で育ち、休暇をブリタニーで過ごした少年時代の彼は、実は車にさほど興味をもっていなかったのだ。
「ミニカーは持っていましたが、どちらかというとヨットの方が好きでした」と微笑みを浮かべながら振り返る。
「1960年代初頭のル・マン24時間レースでフェラーリやフォードが走っていた頃のことは、懐かしく覚えています。夜通し観戦したものでした。でも”いつかレーシングドライバーになるんだ”なんて夢は抱いていませんでした」
しかし後に、ピーター夫妻はレースの舞台裏で大きな功績を残すことになる。
1978年、パトリックとシルヴィアンは広報代理店「ピーター・エ・アソシエ」を設立した。シルヴィアンの宝飾業界での広告クライアントとの経験と関係性を活かしたものだった。
「私たちはファッション、宝飾品、スポーツなどの分野で長年、仕事をしていました」とシルヴィアンは説明する。モータースポーツイベントに関わることになったのは、偶然の成り行きだった。
「モンレリでクープ・ド・ラージュ・ドールを主催していたASAVEという団体が、スポンサー探しを手伝える代理店を探していて、私たちに連絡してきたんです。イベントは混乱状態でした。観客はほとんどおらず運営体制も脆弱で、メディアの取材も全くありませんでした」
現状だとスポンサーは見つけられない、イベント全体のグレードアップから手伝いたいとピーター夫妻は申し出た。
「2年後には高級ファッションブランド、ランバン(LANVIN)がスポンサーになってくれて『グランプリ・ド・ラージュ・ドール・ランバン』となりました。それ以降ですね、我々が本格的にかかわるようになったのは。1980年代後半までにはヨーロッパで2番目に大きなイベントにまで成長していました」
有望な滑り出しを迎えたものの、パトリックとシルヴィアンはレース事業がこれほどにまで発展するとは想像していなかったという。自動車レースの仕掛け人として知られるようになると、自然の流れでピーター夫妻はツール・オート創設の機会も得た。
ツール・ド・フランス・オートモビルの復刻版から
1992年に始まったツール・オートは、1899年から1986年までほぼ毎年開催されていたサーキットとヒルクライム間を公道で結んだ長距離自動車レース、ツール・ド・フランス・オートモビルの復刻版だった。競技クラスとレギュラリティクラス(指定された平均速度を目標に走るクラス)が設けられた5日間に渡るラリーで、2500kmにおよぶ挑戦的なロード区間、4~5つのサーキットレース、そして6~8つのヒルクライムを組み合わせたものだった。スタートは常にパリで、ゴールは通常フランス南部の海沿いの街に設定されていた。ツール・オートが、またピーター夫妻を思わぬ方向へ導いた。
「ツール・オートにはステファン・ラテルが参加していて、私たちは意気投合しました。そして二人で出した結論は、1980年代に消滅したGTレースを復活させることでした」とパトリックは語る。当時、ラテルは約40台が参加するヴァンチュリー・トロフィーというワンメイクレースシリーズを運営していた。
「1993年8月、私たちはル・マンレーサーのオリビエ・アーベルチュアとポルシェを、フェラーリ・チャレンジの女性ドライバー、アリアンヌ・ヴィラセカとフェラーリ348を、そしてレースチーム創設者でスポーツカーレーサーのヒュー・チェンバレンとロータスを、あと 2~3台の車を集めたことにしました。そして『GTカテゴリーを復活させる』と宣言したのですが、実は嘘でした。しかし、皆がこのアイデアに飛びついてドイツのレース界のレジェンド、ユルゲン・バルトの耳にも入ることになったのです」とパトリックは回想する。ポーカーで言うところの”ブラフ”である。
数カ月後、バルトとピーター夫妻、そしてラテルはドゥー・トゥール・ドルロージュで一緒にレースをした後、BPRシリーズの創設で手を取り合うことになった。
「私たちは驚くべきことを成し遂げました。というのも話し合いは1993年11月頃に行われ、2月には最初のBPRレースを開催していました。そして、1994年には最初のBPRシーズンが始まったのです」とパトリックは語る。
「たしか10戦あって、最終戦は夢にも思わなかった中国で開催する運びになりました。本当に一気に離陸した雰囲気でした」
ヒストリックから現代へ
筆者はパトリックにヒストリックレースから現代のレースカーへの移行は大きな変化だったのかと尋ねた。「私は特定のグループに属するタイプの人間ではありませんでした。ある特定のメーカー、ある特定の時代の車が大好きだという人はいますが、私はただ車が好きなんです。ロンドン・ブライトン・ランにも参加しましたし、ル・マンやBPRシリーズにも参加しましたが、いずれも楽しめました」
フレンドリーな雰囲気と質の高いレースを特徴としたBPRシリーズは、パトリックとシルヴィアンに多くの思い出を残した。ただ、FIAとの関係は複雑だったようだ。
「レギュレーション変更は認められ、国際レースシリーズの再開も可能かと思いきや、結局はFIAに潰された感じです」とシルヴィアンは振り返った。
しかしピーター夫妻は怯むことなく、次へのステップを進めた。1990年代後半、ツール・オートにインスピレーションを得た、ツール・デスパーニュを立ち上げた。2008年の金融危機で終焉を迎えるまで約10年間、順調に運営された。一方、彼らの最大の事業であるル・マン・クラシックは、ますます発展を遂げていた。
ル・マン・クラシック
「フェラーリ・マセラティ・シェル・ヒストリック・チャレンジに携わった短い期間がありました。それはそれは見事な参戦車両の数々でした。2000年前後、ル・マン24時間のサポートレースに参戦車両の一部を持ち込み、ACO(ル・マン24時間主催者)にヒストリックレースのアイデアを植え付けることに成功しました。”サブリミナル効果を狙った”と言えるかもしれません」とパトリックは回想する。そして2002年には、ル・マン・クラシックが始まった。
ピーター夫妻はル・マン・クラシックをどうしても成功させたかった。なぜならグッドウッドに圧倒され、グランプリ・ドゥ・ラージュ・ドールの中止に追い込まれるという辛酸を嘗めていたからだ。
「ACOを説得することには成功しましたが、前途多難でした。なぜなら、コストバランスを取るのが難しかったのです。フルコースを設営するのは非常にコストがかかり、複雑でもあります。でも、日曜の夕方には参加者や観客の大きな熱気に包まれ、『次はいつやるんですか?』と声をかけてくるんです。財政的には痛手を負いましたが、同時に大きなポテンシャルを有していることは明白でした」
当初、3万人だった観客数は20年で23万人にまで成長を遂げた。パトリックは初年度のレースを今でもはっきりと覚えている。
「今ほど人は多くありませんでしたが、それでもかなりの観衆がいてメインスタンドはほぼ満員でした。とあるレースで、戦前車が1台だけスタートできませんでした。メカニックたちが車両を押して、しばらくするバックファイアーと同時に、凄まじい白煙を上げなれました」
パトリックとシルヴィアンは常に夫婦で働いてきた。ただ、衝突を避けるためにオフィスでは離れた席に座っており、職種もまったく別な分野を担当することで補完し合う体制を執っている。
「イギリスではそうでもないかもしれませんが、フランスではモータースポーツは男性的でマッチョなものです。私を含め、男性は好きなことだけをして、そのうちに興味を失ってしまいがちです。そんな不出来な私を補完してくれるのがシルヴィアンであり、優秀な女性スタッフたちです」
これから
事実、ピーター・オートでは従業員の過半数を女性が占めているという。2021年、ピーター・オートは女性だけのラリー、ラリー・デ・プランセスの運営を引き継いだ。
「女性には男性のような不必要な自尊心が少ないと思っています。勝てば大喜びし、負ければ”もっと上手くならないと”と前向きです」ともパトリックは語る。二人の職業をどのように説明するか尋ねてみた。「夫は私たちのことを興行師のようだと常々、口にしています」とシルヴィアン。突然、会場に姿を現してはスタンドやテントなどを設営し、レースイベントを開催し、日曜の夕方には清掃して次の拠点へ移動するという点では、興行師そのものかもしれない。そして興行は昨今、難しさを増している。
「最も難しいのは間違いなくツール・オートです。というのも、場所が移動するからです。毎日650の客室が必要で、1500から2000食の食事を異なる会場に届けなければなりません。その次に難しいのがシャンティイ・アール・エ・エレガンスです。私個人としては車が動いているところを見るのが好きなのですが。戦前のフランスやイタリアのコンクール・デレガンスは、常にシャシーメーカー、車体メーカー、そしてクチュリエ(ファッションデザイナー)の組み合わせでした。
私たちはファッション界に関わっていたので、そんなかつてのコンクール・デレガンスを実現したいと考えました。コンセプトカー、モデル、そして現代のファッションデザイナーを組み合わせて実施したのですが、これが大変で…」と苦笑いするピーター。そんなピーター夫妻、自らクラシックカー・ラリーにも参戦している。
「シチリアで開催されるラリー・デ・レジェンドにはACブリストルで参加します。来年は、HEROが主催する北京・パリを息子3人とスチュードベイカーで走るつもりです。北京・パリはトラックのような耐久性を求められますから、ACブリストルでは無理ですね」
そのほかピーター夫妻がロータス・イレブンも所有している。ブルターニュには自分たちの車を整備するガレージを作ったが気づけば顧客の車両も預かることになり、今では整備スタッフが足りないほど成長しているという。
ピーター・オートの経営権譲渡という二人にとって、新しい人生の門出を迎えた今、ヒストリックカーの未来について尋ねてみた。「車はどんどん進化するでしょうし、レプリカが以前よりも増えるでしょうし、40年か50年前にやっていたような博物館級の車をサーキットで走らせるのは難しくなるでしょう。でも、ヒストリックカーのラリーやレースは確実に続いていくと思います。なぜなら、現代の車はますます魂が失われ、運転する楽しみも減っているからです」とピーターから力強い返答を貰った。
「いつの時代も真に運転したいと思う人は常にいるでしょうし、旧い車は最高の手応えを得られる相棒です。例えばルノー・メガーヌを100km/hで走らせるよりも、ACブリストルで50km/hを出すほうが速く感じられるんですから。そういう意味では、車は実用的な価値をほとんど失うでしょう。でも、私には気になりません。なぜなら、ヨットだって実用的な価値はほとんどないに等しいです。それでも港を見渡してみれば、ヨットがズラリと係留されていますからね」
編集翻訳:古賀貴司(自動車王国)Transcreation:Takashi KOGA (carkingdom)
Words:Julian ParishPhotography:Peter Auto archives, all rights reserved
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