写真撮影/笠井鉄正
10月20日(月) 7:00
戦後の住宅難を背景に建てられた築70年以上の「門司港1950団地」(福岡県北九州市)が、今、国内外から注目を集めている。家賃は月1万円、条件は“入居者自身がDIYで部屋をつくること”。一度は役目を終えた県営団地で、何が起きているのか。吉浦隆紀(よしうら・たかのり)さん(有限会社吉浦ビル 代表取締役)が主導する「渋沢プロジェクト」の全貌を知るべく、現地を訪ねた。
観光地と生活の間にある、門司港という街の素顔改札を抜けると、今回の案内人であり「渋沢プロジェクト」を主導する吉浦隆紀さんが出迎えてくれた。九州を拠点に空き家や団地の再活用に取り組んできた吉浦さんは、現在は築70年を超える「門司港1950団地」の再生に挑んでいる。
「良かったら、散策がてら門司港の街を歩いてみませんか?」と吉浦さんに誘われ、団地へ向かう道のりを歩き始めた。
人通りの多い海辺の観光地から、山手へと足を進める。「この通りからあちらが『門司港レトロ』と呼ばれるエリア、こちらが住民の暮らすエリアです」と吉浦さん。港町の印象が強い門司港だが、実際は平地が少なく、坂を上がればすぐに住宅街が広がっている。にぎやかな観光地の空気から一変、のんびりとした佇まいの街並みが現れた。
立派なアーケードの商店街に足を踏み入れると、取材日は日曜だったが、人影はまばらだった。「地元の人は、日曜はしっかり休むので(笑)、平日はおじいちゃんやおばあちゃんでにぎやかなんですよ」と吉浦さん。とはいえ高齢の店主も多く、閉業する店舗も少なくない。かつて料亭として栄えた木造三階建ての建物や、遊郭街の面影を残す路地には、往時の熱気とともに、時の流れが静かに刻まれていた。
緩やかな坂を上っていくと、鉄筋コンクリート造の団地が見えてきた。「畑田団地」改め「門司港1950団地」は、戦後間もない1951年、福岡県住宅供給公社の第1号として建設された建物。70年の使用期限が定められていたため、2021年に最後の入居者が退去し、その歴史に一度は幕を下ろした。
一度は解体を目されていたが、吉浦さんは入札に参加し、わずか90万円で落札する。土地だけなら数千万円の価値があるものの、解体費用が1億円近くかかるため、買い手がつかずにいたそうだ。「見学して15分で『これは残さなきゃ』と思いました」と吉浦さんは振り返る。
ただ、購入後に待っていたのは想定以上の“空っぽ”状態だった。配管は朽ち、電気は電柱から切断されていた。水道を引き直すだけで数百万円。通常なら再生を中止しても不思議ではない。だが彼は諦めなかった。「もう入居が決まっていたので、何とかしなきゃと(笑)。それに、軌道に乗ればきちんと収益化できるという見込みもありました」
条件はシンプルだ。家賃は月1万円、3年間の定期借家契約。入居者自身が部屋を解体し、自由につくり上げることができる。構造や外壁は壊せないが、キッチンなどの水回りや内装はすべて手を入れてよい。材料費はオーナー側が支給するため、初期費用も最小限で済む。
「渋沢プロジェクト」と名付けられたこの取り組みは、SNSでの発信が話題となり、YouTubeの人気チャンネル「ゆっくり不動産」で紹介されると、一気に全国から注目を集めた。入居希望は殺到し、A棟に続きB棟も含めた全34戸が満室に。部屋ごとに用途はさまざまで、住居として暮らす人もいれば、アトリエやカフェ、探偵事務所など、仕事や趣味の拠点とする人もいる。
門司港1950団地の魅力をもっとも雄弁に物語るのは、ここに暮らす、あるいは活動する人々だ。壁を塗り、床を剥ぎ、手探りで空間をつくり上げる過程は、単なる改修作業を超えて、その人自身の人生観を映し出すキャンバスのようにも見える。
団地の屋上では、小さなピクニックが開かれていた。ビニールシートを広げ、カフェラテやお菓子を片手にくつろぐ若い女性が2人。「風が気持ちいいから、ついここに休憩しにきちゃうんです」。リラックスした表情で笑うのは、団地の一室でブックカフェの開店を目指す児嶋桜(こじま・さくら)さんと、占いの部屋を準備中の守田莉奈(もりた・りな)さんだ。今日も絶賛作業中という2人に、それぞれの部屋を見せてもらうことにした。
まずは、児嶋さんに伴われて「book & cafe もじのすみか」を準備中のA棟23号室へ。古い団地の意匠を生かしつつ整えられた部屋には、本・本・本! 「もともとは留学予定で、自分の蔵書を置いておく場所を借りたいなと思ったのが応募のきっかけ。家族や友人が自由に出入りできる空間にしたいな、というところから、本と喫茶でのんびりできるお店を営みたいな、といつの間にか気持ちが変わっていました(笑)。この団地、雰囲気も居心地も、魅力的すぎるんですよね」
はじめて経験するDIYも苦にならないのは、友人である守田さんや、ともに準備を進める入居者たちの存在が大きいという。「みんな“クセつよ”だから楽しいですよ」。ニヤリと笑うのは、占いの部屋の開業準備を進める守田さんだ。「探偵はいるし、レコードオタクはいるし、私みたいな占星術師も。そもそも、この団地を見て喜んで集まってくる人たちだから、いい意味でクセのある人しかいません(笑)」
A棟22号室でオープン予定の「atelier bald(アトリエ ボールド)」は、西洋占星術とハーブティーのお店。「お洋服のアトリエも兼ねてます。やりたいこと、何でも詰め込もう!と思って」と弾けるような笑顔を見せてくれた。落ち着いた雰囲気の23号室とは趣がガラリと変わり、床は剥き出しのモルタル、壁は白と鮮やかなピンクで塗り分けられている。入居者の個性でここまで印象が変わるものか、と改めて驚かされた。
すでに店舗運営をスタートさせた入居者もいる。長崎県で看護師として働く末満瑞穂さんが入居したのは、日当たりの良いA棟19号室。昨年9月から改修を始め、壁を塗るだけで数カ月を要したそうだ。「最初は塗っても塗っても剥がれてきて、本当に大変でした。でも吉浦さんが『とにかく何度も重ね塗りすること』とアドバイスしてくださって。4回塗ったらようやく理想の仕上がりになりました」
床は前の住人が重ねていたクッションフロアを剥ぎ、下地の木の床を再生。古い建具も残しながら、空間に命を吹き込んだ。2025年5月7日、自身の誕生日にカフェ「デイジー*ワールド」をオープンし、現在は諫早での仕事をしながら行き来し、月に数日だけ営業している。
「古いものを大切に、手を加えながら長く使っていきたい」という末満さんの思いを体現する同店には、かつてここで暮らしていた住人も足を運ぶという。こだわりの空間で穏やかに微笑む彼女は、間違いなく団地に新しい物語を刻み始めた入居者のひとりだ。
門司港1950団地には、学生から現役の建築士、退職後のシニアまで、年齢も職業も異なる人々が集まっている。屋上のピクニックでは自然とノウハウがシェアされ、工具やアイデアを交換し合う光景が日常だ。
入居者自身が手を動かすことで、自然と技術や知識のシェアが生まれる。吉浦さんは、それを「建物を使った教育」と表現する。「義務教育では学べないことを、ここでは体験できるんです。壁を塗ったり、床を直したり。自分で考えて動いて、試行錯誤する機会って貴重じゃないですか。うまくいかなくても、誰かが助けてくれる。その中でコミュニティが育つ。それが大事だと思う」
本格稼働から1年が経ち、門司港1950団地には少しずつだが確かな変化が生まれている。かつては空き部屋だった一室に人の声と灯りが戻り、団地全体にささやかな息吹が広がり始めた。
想像以上の手応えを感じているという吉浦さんに今後の展望を尋ねると「渋沢プロジェクトを含め、九州で空き家1万戸再生」という驚きの数字が返ってきた。「九州だけでも90万戸の空き家があります。その中の1万戸を再生することができれば、社会を変えるきっかけになるかもしれない。家として建てられた建物だからって、必ず住まなければならない決まりはないですよね? 児嶋さんのように蔵書を置いても良いし、自宅ではない場所にシアタールームを持ってもいい。もちろん、お店やアトリエとしての活用も考えられます」
その一環として、月3万円で九州中の空き家を利用できる“住まいのサブスク”構想も温めている。農作業の手伝いや地元企業との出合いを通じて、地域との関わりを深めながら自由に暮らす。人口減少時代にふさわしい“もうひとつの暮らし方”を提示しようとしているのだ。
また、吉浦さんは、この団地だけの再生だけでなく、記事のはじめに紹介したような団地への道のりそのものも新たな価値を持つと感じている。JR門司港駅から門司港1950団地に至る、観光地の華やかな表の顔から、商店街や旧市街といった街のB面を通り抜け、徒歩20分の間に出合える門司港という街の魅力。
「団地に人が訪れることで、途中にある商店街や古民家カフェに立ち寄る人も増える。街を知ってもらえれば滞在時間が延びて、いまは閑散としている場所にも再びにぎわいが生まれるはずです」。人口減少や空き家問題に直面する時代にあって、「住まいの再生」は「街の再生」へと広がりうる。古い建物を壊さずに活かすという発想は、環境にも、地域社会にも、そして入居者自身にもプラスをもたらす“三方良し”のモデルだ。
家賃1万円の団地は、多様な人を惹きつけ、街を動かし始めた。門司港1950団地は、かつての生活の記憶を抱えながら、次世代の暮らし方やライフスタイルを提案する場となりつつある。ここで育まれる新しいコミュニティと街のつながりが、門司港にさらなるにぎわいを生む日は、きっともうすぐそこだ。
●取材協力
・渋沢プロジェクト
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空き家暮らし
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