プロレス解説者柴田惣一の「プロレスタイムリープ」(20)
(連載19:スタン・ハンセンの引き抜き合戦を振り返る伝説の「首折り事件」とブロディとのコンビ>>)
1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス取材を続けている柴田惣一氏。テレビ朝日のプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』では全国のプロレスファンに向けて、取材力を駆使したレスラー情報を発信した。
そんな柴田氏が、選りすぐりのプロレスエピソードを披露。連載の第20回は、前回に引き続き"ブレーキの壊れたダンプカー"ことスタン・ハンセンについて。その素顔や、「ウエスタン・ラリアート」と「リキ・ラリアット」にまつわるエピソードを語った。
ラリアートを見舞うハンセン(中央)photo by 東京スポーツ/アフロ
【リング外の素顔は?】――ハンセンさんは、リング上での暴れん坊のイメージとは裏腹に、試合を離れたらファンに対しては優しい姿勢を貫いていたと聞きます。
柴田:イベントや街中で、ファンに気さくに話しかける姿はとても印象的でした。とにかくファンの声にきちんと耳を傾ける。女性ファンもそうだけど、特にちびっ子のファンには丁寧だった。
ある時、英語を勉強している子供が「ハンセンさんの名前『Hansen』は、日本語でどんな意味ですか?」と尋ねたことがあったんです。いかにも子供の質問ですよね。すると彼はニッコリ笑って「『帆船』という意味だよ」と答え、さらに「『反戦(Anti-war)』という意味もあるんだよ。俺も平和主義者だからね」と話していました。語句は難しいですが、そのちびっ子はうれしそうに、大きくうなずいて納得していました。
その子は一生、ハンセンのファンだろうし、英語にますます興味を持ったんじゃないかな。英語を勉強して、英語力を生かした仕事に就いたかもしれない。ハンセンの人柄が、その人の人生を左右したかもしれないですよね。
――食事の席など、プライベートな場面ではどのような感じでしたか?
柴田:他の外国人選手たちと食事をする時は、あまり自分から積極的に話すタイプではなく、ニコニコしながらみんなの話を聞いているような静かな人でしたね。私服はテンガロンハットにジーンズにシャツとシンプルそのもの。いかにも"アメリカの人"って感じだけど、身だしなみには気を遣っていた。いつもいい香りのボディローションをつけていたのが印象的でした。
――昔、山本小鉄さんがアンドレ・ザ・ジャイアントさん、ハルク・ホーガンさん、そしてハンセンさんと焼き肉を食べに行ったら、120人前を食べて会計が53万円だったという逸話もあります。
柴田:あの頃のレスラーは、とにかくたくさん食べたからね。彼らだけの時は、きっちり割り勘でみんなしっかりしていたみたい。ただ、スポンサーがついていれば、それこそ食べ放題状態。「こんなに食えるんだ」とびっくりするぐらい注文するんです。まあ、そこまで食べっぷりがいいと、おごるほうもご馳走のしがいがあるってもの。壮観でしたよ。
【柴田氏もブルロープの餌食に】――ハンセンさんは奥様が日本人ですが、当時から日本によく滞在されていたのですか?
柴田: そうだね。ある時期から、シリーズの合間でも横浜で彼が目撃されることが増えました。ハンセンは奥様にベタぼれという感じでした。実際にお会いしたことがありますが、優しくて明るく、とてもしっかりした方。英語もペラペラで、素敵なご夫婦ですよ。ハンセンの連れ子さんとも、仲よしで楽しく過ごされていました。
――一方でリング上では、本当に誰にも止められないパワーファイターでした。ブルロープを振り回して、観客を追い払う姿は名物でしたね。
柴田: そうですね。ある熊本での大会で、客席にいた私もそのブルロープで狙われたことがあります。全試合が終了し、メインイベントに出場した選手も引き揚げて、ファンの方も出口に向かい始めた時でした。私はリングサイトに設置された臨時の黒電話で、その日の原稿について、会社と打ち合わせをしていたんです。
その時、お客さんが「わー!」と騒ぎ出した。気づくと、背後にハンセンがいて、私の首にブルロープが巻きついていました。そのまま数メートル飛ばされたんですが、あっという間のことでしたよ。
ハンセン(左)とポーズをとる柴田氏(写真/柴田氏提供)
――狙われたんですね?
柴田:ちびっ子ファンに「大丈夫?」と声をかけられたことを覚えています。のちのちわかったことですが、ハンセンが私が書いた記事を読んだそうで、「お前を狙ってやったんだ」と笑いながら話してくれました。
でも、ハンセンは極度のド近眼。私を狙ったのは間違いないけど、ただ勢いで振り回していただけだという説もあります。彼は試合中にコンタクトレンズをつけていなかったんですよ。普段から相手レスラーがぼんやりとしか見えていなかったようです。なので、彼の代名詞であるウエスタン・ラリアートも、狙いを定めながらも、勢いで相手をなぎ倒していた。だからこそ、あれほどのド迫力だったのかもしれません。
――入場時にハンセンさんの振り回すブルロープに当たった男性が、激怒して謝罪を要求したというエピソードがあります。試合後、ハンセンさんは男性に対して紳士的な態度で対応し、その男性も「あんなに優しい人が、わざとブルロープで人を殴るはずがない」と、逆にハンセンさんの熱烈なファンになったと。
柴田:そうですね。試合から離れれば、あんな紳士はいません。
【「リキ・ラリアット」が生まれる前、長州に見舞った一撃】――ハンセンの代名詞であるウエスタン・ラリアートは、多くのレスラーに影響を与えましたね。
柴田: ええ。長州力がリキ・ラリアットを使い始めた時も、周囲は驚きました。当時のプロレス界では、他の選手の技を使うことは遠慮するのが暗黙のルールでしたから(長州は「ラリアート」と「ラリアット」は別の技と主張)。
長州がラリアットを使う前、あるエピソードがあるんです。ハンセンがある試合中に、セコンドでリングサイドにいた長州にウエスタン・ラリアートを食らわせたことがあったんです。これには裏話があって。当時、藤波(辰爾)のファンだった女性がハンセンに「長州のこと、やっちゃって」とお願いして、ハンセンは「OK、OK」と笑ったそうなんですよ。それで、本当にやってくれた。長州はセコンドにつきながら、鉄柱に身を隠すようにしていたのに、ハンセンに突進されてびっくりしていました。
もしかしたらそれが、長州がラリアットを使うきっかけになったんじゃないか、と考えると面白いですよね。
――柴田さんにとって、スタン・ハンセンとはどのような存在でしたか?
柴田: 彼は本当に、プロレス界で最も人気のある外国人レスラーのひとりだと思います。リング上では圧倒的な存在感を放ちながら、リングを降りると意外な素顔を見せる。笑顔は人懐こく愛嬌がある。そのギャップが、多くのファンを魅了したのでしょう。引退後も、彼のウエスタン・ラリアートは多くの選手に受け継がれた。今もなおプロレスファンの心に強く残る、不滅のレスラーです。
【プロフィール】
柴田惣一(しばた・そういち)
1958年、愛知県岡崎市出身。学習院大学法学部卒業後、1982年に東京スポーツ新聞社に入社。以降プロレス取材に携わり、第二運動部長、東スポWEB編集長などを歴任。2015年に退社後は、ウェブサイト『プロレスTIME』『プロレスTODAY』の編集長に就任。現在はプロレス解説者として各メディアで記事を掲載。テレビ朝日『ワールドプロレスリング』で四半世紀を超えて解説を務める。ネクタイ評論家としても知られる。カツラ疑惑があり、自ら「大人のファンタジー」として話題を振りまいている。
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