サッカー日本代表の世界への扉を開けたのは30年前のユース世代予選突破は簡単ではなかった時代

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サッカー日本代表の世界への扉を開けたのは30年前のユース世代予選突破は簡単ではなかった時代

3月31日(月) 21:55

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連載第43回

サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

今回は、U-17日本代表について。2025年4月3日からサウジアラビアで開催されるU-17アジアカップを戦い、11月のU-17W杯の出場権獲得を目指します。日本は1993年に自国開催。初めて予選を突破して出場したのは、30年前の1995年大会でした。

1993年に日本で行なわれたU-17W杯世界選手権。写真は現U-20日本代表監督の船越優蔵photo by AFLO

1993年に日本で行なわれたU-17W杯世界選手権。写真は現U-20日本代表監督の船越優蔵photo by AFLO





【U-17アジアカップが開幕】 4月3日にサウジアラビアでU-17アジアカップが開幕する。日本の初戦は4日(日本時間5日)のUAE(アラブ首長国連邦)戦。11月にカタールで開かれるU-17W杯の予選を兼ねた大会だ。

U-17W杯はこれまで2年に一度開催されていたが、FIFA(国際サッカー連盟)は2025年から毎年開催することを決定。そのため、予選を兼ねたアジアカップも隔年開催から毎年開催に変更された。また、前回までのU-17W杯参加国は24カ国だったが、今年から48カ国と倍増。アジア枠も開催国カタールを除いて8カ国に拡大された。

つまり、アジアカップではグループリーグで2位以内に入って準々決勝に進出すれば、U-17W杯出場が決まるわけだ。また、参加国数倍増に伴ってU-17W杯のレギュレーションも複雑化するようだ。

U-17W杯が複雑化したり、毎年U-17代表チームを準備しなければならないなど、変更に伴う影響は大きい。新フォーマットの評価は分かれるところだろう。さらに、今年から2029年までの5大会がすべてカタールでの開催となったこともスポーツ的に正しい決定だとは思えない。

ただ、いずれにしても日本の若い選手が欧州や南米、アフリカのチームと真剣勝負をする機会が増えるのは間違いないので、その点は歓迎すべきかもしれない。日本の場合、欧州諸国などと違って、強豪国の同年代の選手と手合わせする経験を得ることが難しいが、毎年20数人の選手がU-17W杯という舞台を踏める可能性が出たわけだ。

いずれにしても、今回のU-17アジアカップでU-17W杯出場権をしっかり獲得してほしいものだ。

【U-17、U-20のアジア予選突破は1995年から】 さて、U-17W杯(2005年大会までは「U-17世界選手権」)は、1985年に第1回大会が開かれたので今年は40年目の節目の大会となる。1977年に第1回大会が開催されたU-20W杯(旧ワールドユース選手権)とともに、当時のFIFAのジョアン・アヴェランジェ会長の肝煎りで始まった大会だ。

1993年には日本で第5回U-17世界選手権が開催され、中田英寿や財前宣之、松田直樹、宮本恒靖などを擁する日本は準々決勝進出を果たしたのだが、僕はこの時は海外取材に行っていたのでナイジェリア対ガーナの決勝戦しか観戦していない。

僕が初めて本格的にU-17世界選手権を取材したのは、その2年後に南米エクアドルで開催された第6回大会だった。ウルグアイで開かれたコパ・アメリカを観戦した後、ブエノスアイレスで1週間を過ごしてからエクアドルに向かったのだ。

アルゼンチン滞在中はひどい寒さで風邪を引いてしまったが、エクアドルの首都キトは赤道直下の高原で過ごしやすい気候で助かった。

日本は2大会連続出場だったが、アジア予選を突破して出場権を獲得したのはこの大会が初めて。同年のワールドユース選手権でもアジア予選突破に成功したが、あらゆるカテゴリーを通じて日本代表が予選を突破してFIFA主催の世界大会に出場するのは、この年が初めてのことだった。

それまで、日本代表は五輪には1964年の東京大会を含めて4度出場しており、1968年のメキシコ大会では銅メダルを獲得している。だが、五輪はFIFA主催の大会ではなく、当時はプロ選手が出場できなかったため、西欧や南米からはアマチュア選手やプロ契約前の若手だけが出場する不均衡な大会だった。

そして、メキシコ五輪終了後、日本代表は弱体化。W杯はもちろん五輪にも出場できない時代が続いた。1979年には日本で第2回ワールドユース大会が開かれ、日本も開催国枠で出場したのだが、その後もやはりアジア予選を突破することができなかった。

1993年にはJリーグが開幕し、日本代表の戦力も急速に上がる。ハンス・オフト監督率いるフル代表はカタールのドーハで開かれたW杯アジア最終予選で「予選突破」に王手をかけたが、イラク戦の追加タイムに痛恨の同点ゴールを許して、W杯出場は4年後まで持ち越しとなった。28年ぶりに五輪出場権を獲得するのは、1996年のアトランタ大会でのことだ。

1995年のU-17日本代表には小野伸二や高原直泰、小笠原満男、稲本潤一といった錚々たるメンバーが揃っていた。MFの新井場徹やFWの山崎光太郎といった選手もいた。ほとんどのメンバーが高校チーム所属だったが、稲本や新井場(ともにガンバ大阪ユース)など、クラブチーム所属の選手が数名入っているのも、Jリーグ開幕直後の当時の状況を映し出している。

【初めての世界大会経験】 初めてアウェーでの世界大会に挑戦した日本代表は、開催国エクアドルと同じグループAに入ったため、キトにあるメイン会場、エスタディオ・オリンピコ・アタウアルパで3試合を戦った。そして、初戦ではこの大会で優勝するガーナに敗れたものの、米国に勝利し、最終戦ではエクアドルとスコアレスドロー。勝点でエクアドルと並んだものの、得失点差で劣り、グループリーグ敗退に終わった。

日本チームの敵は対戦相手だけでなく、世界大会の緊張感や高地という環境だった。

試合前に選手たちが入場し、国歌が流され、集合写真が撮影され、キャプテン同士のペナント交換が行なわれる......。今ではすっかりお馴染みの光景だろう。

だが、当時の選手たちはそうしたセレモニーにも慣れていなかったので、一つひとつに戸惑いを隠せなかった。なにしろ、日本チームが海外での世界大会に出るのは、メキシコ五輪から数えても27年ぶりだったのだ。それに、今と違って海外で行なわれる世界大会の映像を簡単に見ることができる時代でもなかった。

だが、この当時のU-20あるいはU-17日本代表選手たちは、その後もFIFA主催の各カテゴリーのW杯で活躍し続け、また、海外クラブへの移籍も実現。その後の世代にとっては、世界大会は馴染み深いものとなり、試合開始前のセレモニーなど誰もが自然にこなせるようになっていく。

キトという環境も特別だった。

エクアドルは南米大陸北部の赤道直下にある国だ。そもそも「エクアドル」という国名はスペイン語で赤道のこと。キトの約25キロ北には、18世紀にフランスの測量隊が赤道を観測した地点があり「ミタ・デル・ムンド(世界の中心)」という名の一大観光地になっている。

しかし、キトは高原にあるので、赤道直下であっても暑くはない。

標高は2850メートル。ボリビアの事実上の首都ラパスの3600メートルには敵わないが、メキシコ市(2240メートル)を凌ぐ高原都市なのである。

地形もかなり険しく、谷を隔てた反対側には大きな山々がそびえている。キトから見るとそれほど高くは見えないのだが、みな4000メートル級の山ばかりだ。キト自身が2850メートルもあるので、4000メートルの山でもそれほど高く見えないのだ。

これだけの高地になると、人間の運動能力などに大きな影響を与える。

【思い出の多いエクアドルでの大会】 実は、僕も高地には弱い。

ある日、ブラジルやドイツの試合を見るために、70キロほど離れたイバラという街に向かった(ここも標高は2200メートルほどある)。ところが、高地の影響で注意力が散漫になっていたのか、ホテルから外に出た瞬間に石畳に足を取られて捻挫してしまった。そのままイバラに行って試合を見たのだが、捻挫した足首はどんどん腫れあがってきた。

1995年U-17世界選手権を取材した後藤氏のパス(画像は後藤氏提供)

1995年U-17世界選手権を取材した後藤氏のパス(画像は後藤氏提供)



キトのホテルに戻ってから隣の薬局に行って、スペイン語の辞書で「捻挫」という言葉を調べながら説明した。実は、「インカ時代からの秘薬」でも出てきたら面白いなと期待していたのだ。たとえば、高山病による頭痛にはコカの茶を飲むのがインカ時代からの対処法だ。しばらくしたら、店員が「サロンパス!」と言って湿布薬を持ってきた。日本でもお馴染みの湿布薬だった。

決勝戦の会場はキトではなく、太平洋に面した港町グアヤキルだった。港町だから標高はゼロメートル。赤道直下の熱帯気候である。ある時、市内の公園でベンチに座ってのんびりしていたら、突然、後ろでドサッという音がした。慌てて振り向いたら、そこには大きなイグアナがいた。頭上の樹々には無数のイグアナが群れていたのだ。

決勝の会場になったエスタディオ・モヌメンタルは、この街のバルセロナSCの本拠地で、6万人収容とこの国最大のスタジアムだ。ところが、このスタジアムはスラム街のそばにあって治安がよくないので有名なのだ。ある時は、たまたま通りかかったタクシーを捕まえられてホッとしたこともある。運転手が試合を見に来ていたのだった。

この年のU-17世界選手権は日本サッカーにとっても大きな転換点となった大会だが、僕自身にとっても思い出の多い大会だった。

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