連載第35回
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
今回は、寒さのなかのサッカー観戦について。雪のトヨタカップや氷点下のコパ・アメリカなど、後藤氏が体験してきた極寒の試合を振り返ります。
冬のサッカー観戦で思い出される1987年の「雪のトヨタカップ」photo by Getty Images
【冬場の観戦は寒さとの戦い】
2月1日に「いばらきサッカーフェスティバル」水戸ホーリーホック対鹿島アントラーズの試合を見てきた。
見どころの多い試合だった。プレシーズンマッチなので、守備強度はそれほど高くなかった。それで、互いに攻撃面でさまざまなテストができたようだ。開幕を控えた両チーム監督にとっては、参考になるところが多かったはずだ。
新たに鬼木達監督を迎えた鹿島は、人材豊富な前線の組み合わせの最適解を得るのにもう少し時間がかかりそうだが、いく通りかの組み合わせを試せたのが収穫。また、昨年ブレークした右サイドバック(SB)の濃野公人が昨年以上により高い位置を取っていたのが印象に残った。
一方、水戸は中盤でボールを奪ってすぐに攻撃に移る狙いが功を奏して、前半6分に先制。その後も何度かチャンスを作っていた。大学出の新人を多数起用しながら完成度も高かった。J2リーグでも上位を狙えそうだ。
この試合の翌日は関東地方にも雪という予報が出ており、試合当日も雲が出て寒くなるというので防寒対策をして出かけたのだが、実際には晴れ間が出て風もなく、思ったより暖かかった。
冬場の観戦は寒さとの戦いだ。とくに高校サッカー選手権などは2試合観戦する機会も多く、そうなると寒風の下で4時間も席に座っていることになる。
幸い、僕は暑さ寒さには強いという自負がある(ただし、高地は苦手)。
今年は関東地方でも12月から寒い日が続いたが、最高気温が5度以下といった極端に寒い日はなかった。気温が5度以下の日には、僕はエストニアで買った厚手のセーターにスウェードの分厚い毛皮を着こみ、北朝鮮で買ってきた毛皮の耳当て付き防寒帽を被って出かけるのだが、この冬にはまだ出番がない。
僕が若い頃の冬は、今よりもずっと寒かったような気がする。気温も低かっただろうし、家の暖房設備も今のように整っていなかった。そして、街の照明も暗くてとても寒々しかった。
サッカー場もそうだ。冬になると芝生は枯れて白くなったり、禿げてしまっていた。木枯らしが吹くと砂埃が舞い上がっていた。
その当時の全日本大学サッカー選手権で、早稲田大学のSB古田篤良(のちに東洋工業、日本代表)がクロスをあげようとしたがミスキックとなり、本人の「しもうた!」という広島弁の叫びがスタンドにも聞えてきたが、ボールが強風と砂埃に乗って相手ゴールに舞い込んで得点となった場面が、なぜか冬になるたびに思い出される。
【「寒さのなかの試合」と言えば......】
「寒さのなかの試合」と言えば、なんと言っても1987年12月のトヨタカップのポルト対ペニャロール戦だ。Jリーグ開幕前のまだサッカー人気が低迷していた時代。欧州チャンピオンズカップと南米リベルタドーレス杯の勝者同士が「世界一」を懸けて戦うトヨタカップは、サッカーファンの数少ない楽しみだった。
ところが、前夜からの雪でグラウンドが真っ白になってしまったのだ。雪用の黄色いボールが使われたが、寒さでボールが破裂してしまう場面すらあった。
当時の国立競技場はメインスタンド以外には屋根がなく、多くの観客は降り続く雪のなかに立ち尽くし、震えながらの観戦となった。しかも、80分にペニャロールのリカルド・ビエラが同点ゴールを決めたため、試合は延長戦に突入したのだ。
延長に入った時点でスタンドから立ち去る観客もいたが、結局、延長後半にラバー・マジェールが決めてポルトが優勝した。
ポルトはポルトガル、ペニャロールはウルグアイのチームだ。どちらも雪はあまり降らない国だから、雪中戦に慣れているはずはない。それでも、世界一を決めるにふさわしい試合を見せてくれた。
雪は降らないが、ポルトガルもウルグアイも冬場には寒くなる。
たとえば、1995年のコパ・アメリカ(南米選手権)はウルグアイで行なわれ、エンツォ・フランチェスコリ率いるウルグアイが決勝でブラジルにPK勝ちして優勝を遂げたが、この大会も本当に寒かった。
ウルグアイの首都モンテビデオは南緯35度にある。東京が北緯36度だから、緯度は日本とほぼ同じ。大会は7月だったから、北半球の1月に当たる真冬である。南(つまり南極の方向)から寒気が北上してくる。
7月20日の準決勝は、モンテビデオから100キロほど東のマルドナードでのブラジル対アメリカ戦を見に行ったのだが、21時35分という遅い時間の試合で、夜が更けるとともに気温がどんどん低下。とうとう氷点下にまで下がってしまった。スタンドは空席が目立ち、コンクリート打ちっぱなしのスタンドに座っていると体が冷えきってしまった。
フランスでも氷点下を経験したことがある。
1999年1月にフランス・リーグドゥ(2部)のボーヴェ対サンテティエンヌ戦を見た時のことだ(名門サンテティエンヌは、当時2部で戦っていた)。ボーヴェはパリの北60キロほどのところにある人口5万人の小都市で、LCC用の空港がある(北緯49度!)。もっとも、ボーヴェのスタジアムの記者席は暖房されていたので、この時は寒さを直接体感せずに済んだのだが......。
【悪コンディションもものともしない選手たち】
気温が氷点下に下がると、芝生や地中、ボールの水分が凍結しはじめ、ボールの挙動がおかしくなってくる。もちろん、寒さで体もうまく動かず、プレーに大きく影響する。さらに雪が積もったりしたら、ボールは動かなくなってしまう。
本田圭佑がCSKAモスクワでプレーしていた頃、僕はジェイスポーツでロシアリーグの解説をしていた。ロシアだから氷点下あるいは雪中の試合も何度かあって、当然、うまくプレーできない選手もたくさんいた。
そんななかで、CSKAのアーメド・ムサ(のちにレスター・シティなどでもプレー。ナイジェリア代表)は雪のなかでも普段とほとんど変わりなくプレーできていた。ムサの出身地ジョスはナイジェリア北東部の高原地帯だからそれほど暑くはないが、しかし、赤道に近いナイジェリアでは氷点下も降雪も経験できないはずだ。
そんなナイジェリア人選手が、寒さに慣れているロシアや東欧の選手よりうまく雪中でプレーしていたのだ。やはり、人種とか出身地ではなく、個人差の問題なのだろう。
そう言えば、2021年1月に行なわれた全日本大学女子サッカー選手権決勝も雪に見舞われた。13時のキックオフとほぼ同時に振り始めた雪は後半になるとますます激しくなり、味の素フィールド西が丘のピッチはたちまち真っ白に。後半の途中には「雪かきタイム」の中断まであった。
当然、選手たちはうまくプレーができなくなってしまう。
すると、早稲田大学の選手のひとりがボールを浮かせながらドリブルし、浮き球のパスを使ってプレーしてみせた。そして、他の選手もそれを真似てプレーしはじめ、早稲田大学は静岡産業大学を圧倒(シュート数は19本対2本)。後藤若葉(現浦和レッズレディース)の得点で優勝を決めた。
できれば、こんなコンディションでの試合は避けたいものだが、それでもプレーする方法を工夫する姿勢や基本テクニックは大事なのだ。
地球温暖化の影響で、これからも今年のように降雪量が増える可能性がある(日本海の海水温が上がると水蒸気量が増えて雪が多くなる)。Jリーグは2026年から秋春制に移行することになっているが、ウィンターブレークの時期をどのように設定するのか、慎重に検討してほしいものだ。
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