連載怪物・江川卓伝〜水谷新太郎が垣間見た指導者としての才(前編)
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指導者・江川卓を夢見た人は、はたしてどれほどいただろうか。もしかしたら、今でも「江川監督」誕生を信じてやまない人がいるかもしれない。それくらい江川の卓越した野球脳を指導に生かしたら、どんなチームができるのか楽しみで仕方なかった。
母校・法政大の選手たちに指導する江川卓photo by Sankei Visual
【中学生を指導する江川卓】2年前、江川は自身のYouTubeチャンネル内で、中学硬式野球のクラブチーム『東京神宮シニア』の選手たちに指導する企画があった。そのクラブチームの監督が、1970年代後半から80年代中盤まで、ヤクルトの不動の遊撃手だった水谷新太郎である。
水谷は、江川の指導する姿を見て感心していた。
「江川がたどってきた球歴というのは、まさに昭和の厳しい野球ですよね。ピッチングをするにしても『ここだよ、アバウトじゃなくここに投げ込むんだ。あのあたりじゃダメなんだ。ここなんだよ』と、ブルペンでしきりに言っていましたね。自分がそうやってきたんでしょうね。
江川というレジェンドが教えることで、子どもたちに何か刺激になればと。江川もすごく楽しそうに指導をしてくれました。ただ、体力的にはちょっとしんどそうでしたね。僕より若いんですけど。江川が子どもたちに『現役時代は水谷監督とよく対戦して打たれましたよ』って、うまく持ち上げてくれました(笑)」
動画のなかで印象的だったのは、バッティングのアドバイスを受けた選手がすぐに修正したのを見て、江川がしきりに感心していたシーンだ。水谷が説明する。
「レベル的にも普通の中学生より上のため、すっと入っていけたんだと思います。バッティング関しては、日頃から言われていることとそんなに変わらないんじゃないかと思うんですけどね。江川から教えてもらうと違うんですかね」
いずれにしても短い時間ではあったが、江川が今の子どもたちにどんな教え方をするのか興味深い動画だった。
水谷は1971年に三重高からヤクルトアトムズ(現・スワローズ)にドラフト9位で指名され入団。74年に三原脩に代わり荒川博が監督に就任すると、広岡達朗、小森光生、沼澤康一郎をコーチに招聘。なかでも水谷は、広岡にとことん鍛えられた。
1976年にレギュラーを奪うと、80年代中盤までヤクルトの正遊撃手として活躍し、90年に現役を引退した。今でも伝説として語られる1978年の日本一は、レギュラーとして貢献した。
【日本一もかすんだ『空白の一日』】そしてそのオフ、プロ野球界に未曾有の問題が勃発した。それがドラフト前日に巨人と江川が電撃的な入団契約を結んだ『空白の一日』である。
チーム創設29年目にして初のリーグ優勝、そして日本一に輝いたヤクルトだったが、オフの話題は"江川一色"となった。水谷が回想する。
「一選手として、『こんなことできるんだ』って感じで見ていました。それだけすごいピッチャーだったということでしょう。江川の1年目の6月に対戦していますが、デビュー時の球はやっぱり速かったですよ」
1979年6月21日、神宮球場でのヤクルト対巨人戦で江川は先発し3回2/3を4失点。プロ入り初のKOを食らった試合で、水谷は2番・ショートでスタメン出場している。
「江川との通算打率は2割5分くらいだったかな。全然たいしたことないんだけど、それでも4打席に1本は打っている。だけど、打てなかった印象しかないんですよね」
水谷は引き締まった顔つきで、苦々しく話した。
「江川のフォームは力感がないのに、パッとくるんですよ。高めの球で勝負してくるんだけど、とにかく速かった」
水谷は2割5分も打っている印象がないほど、高めの速い真っすぐでやられた記憶が強い。
「チームとして攻略法はあまりなかったですね。ミーティングも、球が速いことと、球種はストレートとカーブの二種類しかないっていうような確認事項だけ。カーブもよかったですよ。本人に聞いたら、カーブも投げ分けていたと。勝負するカーブとカウントをとるカーブがあったから、2つの球種でも抑えられたんですよね。基本、ストレートは低めに投げろって言うじゃないですか。でも彼は高めで勝負し、バッターにとってはボール球ってわかっているんですけど手が出ちゃうんですよ」
【力投タイプじゃない速球派】プロの、しかも一軍でバリバリのレギュラーとしてやっている選手が、高めのボール球にどうして手が出てしまうのか。聞かずにはいられなかった。
「物理上、ホップしてくるってことはないんですけど、やっぱりそういうふうに感じるんですよね。目つけしていたところに『来たっ』と思って振るのですが、そこから浮き上がってくる。力投タイプでもなく、テイクバックも小さくてヒョイって感じで投げるのに、ボールはグワッーとどんどん加速してくる。あの当時、速いピッチャーはけっこういましたけど、また違うタイプのピッチャーでした」
目線が近いだけに、高めのボールはバッターにとってストロングポイントになりやすいそれでも江川は、バッターが振ってきそうな高めの球を投げ、空振りをとることが快感だったと公言している。まさにセオリー無視のピッチングである。
江川が全盛期だった1980年代前半の巨人は、ヤクルトをお得意さんにしていた。それについて水谷は次のように語る。
「ヤクルトは78年に優勝し、翌年、広岡監督がシーズン途中で辞めてから、元の弱いヤクルトに逆戻りでしたね。80年代前半だけでなく、巨人はいつも強いイメージですよ。江川卓、西本聖、定岡正二の三本柱がいましたし。西本は、球はそんなに速くなかったんですけど、シュートがよかった。ちょっとシンカー気味に落ちるんですよね」
80年代前半のヤクルトはまさに暗黒時代で、巨人にカモにされていた。さらに天敵・江川は、水谷にとっても目の上のたんこぶだった。
(文中敬称略)
つづく>>
江川卓(えがわ・すぐる)
/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している
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