阪神ドラ4・町田隼乙が振り返る「捕手失格」から這い上がったBC埼玉での3年間

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阪神ドラ4・町田隼乙が振り返る「捕手失格」から這い上がったBC埼玉での3年間

11月21日(木) 9:55

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阪神ドラフト4位

町田隼乙インタビュー前編

「背が高いですね」。ドラフト後の挨拶時、記者たちの話題は身長から始まった。

高卒3年目、強肩強打の捕手・町田隼乙(21歳/ルートインBCリーグ・埼玉武蔵ヒートベアーズ)は、186cm・88kgという恵まれた体格が目立つ。高身長のメリットについて「目立つことです」と笑った町田だが、独立リーグでの3年間は、高身長ゆえに苦しんだ時期もあった。

バッテリーコーチがいないBC埼玉に高卒で入団し、壁にぶつかりながら成長。物質的な苦労がつきものの独立リーグだが、「人」との出会いに恵まれた。角晃多(元ロッテ)、西崎幸広(元日本ハム・西武)、片山博視(元楽天)、由規(元ヤクルト・楽天)、清田育宏(元ロッテ)、辻空(元広島)と、多くのNPB経験者たちに導かれた。町田がそんな3年間を振り返る。

今年のドラフト会議で阪神から4位指名を受けた町田隼乙

今年のドラフト会議で阪神から4位指名を受けた町田隼乙





【高校時代に調査書が4枚届くも、指名漏れで独立リーグへ】神奈川県には強豪校と言われる高校が多いが、町田が選んだのは光明学園相模原高校だった。

「先輩から話を聞いて、強豪校よりも試合に出られると思って選びました。でも、入ったら部員が100人ぐらいいたんです。最初は『無理だ』と思いました」

監督は日体大などでプレーした、捕手出身の芝崎広之監督。その指導を受け、高校2年からは先輩と競いながらマスクをかぶるようになった。3年時には正捕手になったが、夏は2回戦で慶應高校に敗れた。しかし2021年のドラフト会議を前に、4球団から調査書が送られてきたという。

「自分からしたら、『なんで送られてくるんだろう』と。何もかもが足りないと思っていましたから」

結局、その年のドラフトでは指名されず、2022年にBC埼玉に入団。まったく未知だった独立リーグという道に進んだ。

「自信があったのは肩だけ。でも、BCリーグに入ったらそれがまったく通用しませんでした」

当時の監督は、元ロッテの角晃多。社長を兼任していたため、現場にいられるのは試合の時がほとんどだった。チームにバッテリーコーチはおらず、捕手の練習はベテランの先輩捕手に任されていた。座り方から始まって、ブロッキングやキャッチングなどひたすら基礎の反復練習をしていた。

リーグ開幕後は交代でマスクをかぶっていたが、先輩捕手が5月に骨折。町田はチーム唯一の捕手になってしまう。高卒1年目にして、その後の試合にフル出場することになった。

「あの頃は体力的に、試合に出るだけでいっぱいいっぱいでした。休みの日はずっと寝ていて動けなかったです」

バッティングでは目を見張る部分もあったが、独立リーガーの速球についていけなかった。

「1年目はストレートに刺されることが多く、なかなか速球を打てなかった。だから角さんには、速い真っすぐの打ち方や、打席での意識を教わりました」

先輩捕手が復帰してからも、町田は第一捕手として試合に出続けた。しかしキャッチャーとしてはすべてが未熟。バッテリーエラーが多く、盗塁もされ放題。大柄なためにモーションが大きくなり、送球が遅くコントロールが悪いという欠点を克服できずにいた。

【NPB経験者たちからの学び】2022年、独立リーグ1年目の成績は打率.210、本塁打4本。その年も調査書を1枚もらったが、またも指名漏れとなった。その年にBC埼玉からNPBの扉をこじ開けたのは、内野手の樋口正修(現中日)だった。

2年目から、町田以外の捕手は後輩のみとなり、捕手練習は自分たちで行なった。ただ、捕手専門のコーチはおらずとも、周囲の指導者たちにはさまざまなことを教わった。

監督には西崎幸広が就任。角監督もそうだったが、伸び伸びとやらせてくれた。また、2022年から投手コーチ兼投手となった由規(佐藤由規)とは、ずっとバッテリーを組んだ。

「高校時代に受けていた球よりも2段も3段も上のレベルで、1年目は『どうやって捕ればいいんだろう』という感じでした。最初は、ランナーが3塁にいる時に(空振りを取るために)ワンバンの球を要求するのも怖かったです」

そうして必死に食らいついていくうちにキャッチングやブロッキングを磨き、配球について話し合うことも多くなっていった。

「由規さんとキャッチボールはよくしていましたし、スローイングも教えてくれました」

町田に一番厳しい言葉をかけていたのは、片山博視(現BC福島)だった。楽天を退団後、2017年にBC埼玉に入団してから強打の内野手として現役を続けながら、2023年までヘッドコーチを務めた。

「キャッチャーとしてミスすると、いくら打ってもダメ。でも、片山さんにいろいろ怒られたことで、真剣に配球と向き合えたと思います」

打撃でもっとも影響を受けたのは清田育宏だった。町田は1年目も外部者として清田からアドバイスをもらい、2年目の2023年はチームメイトとして背中を見続けた。3年目は清田が野手のコーチとなり、その指導を受けた。

「清田さんの打ち方はシンプルというか、タイミングの取り方がわかりやすかった。見ているうちに、無意識に自分も似てきていたみたいです。そこから、だんだん自分の形ができていきました。選手として一緒にプレーしていた時も、練習や試合前の準備など、すごく勉強になりましたね」

【「一番苦しかった」エラー後、清田の言葉で固めた決意】町田自身も、1年目のオフから動いていた。「NPB選手の球を見たほうがいい」という片山コーチの口利きで、まず涌井秀章(中日)の自主トレに参加。さらに、2023年からは2年連続で、阪神二軍の春季キャンプにブルペンキャッチャーのアルバイトとして参加した。

キャンプでは捕手練習にも加わることができ、スローイングも改善の糸口が見えてきた。2023年の春、チームに戻ってきた町田の体格はひと回り大きくなっていた。

「NPBの投手の球を受け続けたことで目が慣れ、『BCの投手の球を打てないはずがない』という気持ちになりました」

同年のリーグは4月に2本の満塁本塁打を打つなど、最高の状態でスタートした。逆方向にも柵越えの打球を放ち長打力を見せつけたが......好調は長くは続かずに自信が揺らいだ。それを横目に、高校からチームメイトだった金子功児(現西武)が打撃を開花させ、スカウトから注目を浴びるようになった。

町田は焦っていた。打撃には一定の評価があり、キャッチング技術も高まってきたが、改善の兆しが見えたとはいえスローイングが安定しない。「捕手失格」という声が、町田の耳にも届いた。

BCリーグでの3年間を振り返り、町田が「あの時が一番苦しかったですね......」と吐露するシーンがある。2023年6月30日、試合前のシートノックで町田は三塁にいた。打撃を生かすためのコンバートを前提としたものだったが......スタメンで三塁の守備についたその日の試合で、ファンブル、悪送球と立て続けにエラー。さらに打球を顔に受け、しばらくアゴに違和感があった。

「その試合後、清田さんにすごく怒られました。『中途半端にやるな。投手もNPBに行くために必死なんだぞ』と」

さらに清田は「お前は捕手じゃないと無理だ。そこにこだわりを持て」と言葉を続けた。町田は迷いを捨て、「捕手一本でいく」と決意した。

その年、チームはBCリーグで初優勝を飾った、独立リーググランドチャンピオンシップにも出場したが、町田に調査書が届くことはなかった。

10月のドラフト会議の日、高校から5年間チームメイトだった金子が西武に育成4位で指名された。また、1年間バッテリーを組んだ芦田丈飛も、育成4位でオリックスへ。IPBL(日本独立リーグ野球機構)選抜としてみやざきフェニックスリーグに参加していた町田は、インターネット中継でそれを見守った。

もちろん悔しさはあった。だが、自分に足りないものがあるのもわかっている。そんな町田の運命を大きく変えたのが、その年のみやざきフェニックスリーグと、翌年の阪神二軍キャンプだった。

(後編:強肩強打の捕手・町田隼乙を飛躍させた「名将の熱血指導」と「プロの二軍キャンプ」>>)

【プロフィール】

◆町田隼乙(まちだ・はやと)

2003年4月3日生まれ、神奈川県出身。捕手。小学3年時に「秦野ドリームス」で野球を始める。大根中時代は「平塚ボーイズ」に所属。光明学園相模原高では甲子園出場なし。2022年からルートインBCリーグ・埼玉武蔵ヒートベアーズに所属。強肩強打の捕手として活躍し、2024年のドラフト会議で阪神から4位指名を受けた。186cm・88kg。右投げ右打ち。

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