11月21日(木) 11:00
11月20日、俳優の火野正平さんが11月14日に死去していたことを所属事務所が公表した。75歳だった。
所属事務所によると、火野さんは今年4月から持病である腰痛の治療に励んでいたが、夏に腰を骨折して以降、体調を崩していたという。「最期まで仕事復帰を願っていたが叶うことはなかった」「自宅で家族に見守られて穏やかな最期を迎えた」とのことだった。
1949年5月、東京都目黒区で生まれた火野さん。母の勧めで12歳の頃劇団に入団すると、すぐに『少年探偵団』(フジテレビ系)のレギュラーに。中学2年生の時には親の仕事の関係で大阪に引っ越し、火野さん独特の関西弁まじりの喋り方を生むこととなる。
その後、’73年のNHK大河ドラマ『国盗り物語』に羽柴秀吉役として出演しブレイク。それまで本名で活動していた火野さんだが、この際に池波正太郎が名付け親となって「火野正平」に改名。実は、この芸名について’15年の週刊文春のインタビューでこんな逸話を明かしている。
《でも、後で姓名判断の人に見てもらったら「スキャンダルには気をつけなはれ」と言われてね。もう遅い、って話だったけど》(『週刊文春』2015年10月29日号)
改名が影響したのだろうか。火野さんは、数々の時代劇、映画で活躍する傍ら、70年代から80年代にかけて多くの女性と浮き名を流すこととなった。
「’70年に、15 歳の時に出会った一般女性と結婚して子供をもうけたにもかかわらず、翌年には女優の新藤恵美さんと交際。その後も女優の紀比呂子さん、アイドルのホーン・ユキさん、望月真理子さん、仁支川峰子さん、りりィさんなど数々の女性と交際してワイドショーをにぎわせていました。
実際、何件もの”家”があり毎日帰る家に悩んでいたとインタビューなどで明かしており、最大で11股していると報じられたこともあったそう。20歳の時に結婚した本妻との離婚は成立していなかったにもかかわらず、昭和を代表するモテ男でした」(芸能関係者)
■「好き勝手に家を飛びだしたオレの決めることじゃないもの」
その後、火野さんは”本命”となる女性・Kさんと出会い同棲を開始。‘83年4月、本誌がKさんとの間にできた子どもについて尋ねると火野さんは照れ臭そうにインタビューに応じた。
「いまの気持ちは”ますます金を稼がなきゃ”っていう心境だなあ」
さらに、Kさんとの今後についてはこのように語っていた。
「離婚がはっきりすりゃ、結婚しようと思ってますよ。ただし、それは女房が決めることでね。好き勝手に家を飛びだしたオレの決めることじゃないもの」
だがその後も、本妻との離婚は成立しなかったようだ。約33年後、’16年のインタビューでこのように語っている。
《3年ぐらい前、酒飲んだ時に今の母ちゃんがこんなこと言ったよ。「お父さん、籍さ……」。でもそれ以来また言わないしな。(中略)家族になるって籍を入れることを言うんだったら、前の母ちゃんと籍を抜いて今の母ちゃんを入れてやりたいけども、前の母ちゃんの立場もあるだろうし。だから俺から言うこともないかなと》(『週刊現代』2016年2月20日号)
勝手に家を飛び出した自分には、”離婚”の主導権はないと思い続けていたようだ。一方、火野さんと別居状態だった本妻は、’74年、本誌の取材に対しこう優しい思いを漏らしていた。
「あの人は可哀そうな人なんです。帰るところ行ったらここしかないんですから。もし、その人と別れて帰るところがなかったら可哀そうでしょう」
本妻もそんな思いから、積極的に離婚をしようとはしなかったのかもしれない。
人生の中で多くの愛と葛藤を経験した火野さん。火野さんの人生は、愛とは何か、家族とは何かを問い続けるものだったのかもしれない。