「北斗の覇王」西良典の激闘。「チャンピオンになった直後、便所でバターンと倒れたんです」

1980年代、「北斗旗空手道選手権」で活躍した西良典(左)

「北斗の覇王」西良典の激闘。「チャンピオンになった直後、便所でバターンと倒れたんです」

11月21日(木) 8:15

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1980年代、「北斗旗空手道選手権」で活躍した西良典(左)

1980年代、「北斗旗空手道選手権」で活躍した西良典(左)

【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第34回

立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。

前回に続き、総合格闘技のパイオニアのひとり、西良典(にし・よしのり)の格闘技人生に迫る(前回記事はこちら)。

■「なんでもあり」の空手大会「西、投げもできる、なんでもありの空手の試合に出てみないか」

1982年7月9日、仙台・宮城県スポーツセンターで行なわれる仙台青葉ジム主催のキックボクシング興行で、スーダン出身という触れ込みのハシム・モハメドとの対戦が決定した西良典は、キックボクサーとして結果を残すために所属する同ジムでの練習に明け暮れた。

しかし、ハシムは来日せず試合は流れてしまう。失意の西に、拓殖大学柔道部時代の先輩から冒頭の声がかかったのだ。正確にいうと、その先輩は西に無断ですでに出場を申し込んでいた。

いかにも昭和の武道系体育会の先輩・後輩らしい関係ではないか。その時点ですでに西はある程度覚悟を決めていたが、「先輩、ちょっと待ってください」と確認をとることも忘れなかった。

「投げもできるなら、絞め技も関節技もできるんですか?」

「いや、それはない」

「先輩、だったらなんでもありじゃないですよ」

この時点では、まさかその12年後に日本初のMMA大会となる『バーリトゥード・ジャパン・オープン1994』に出場して、ヒクソン・グレイシーと闘うなんて西自身も夢にも思っていなかった。

先輩が西に持ち掛けた大会は同年10月24日、同じ宮城県スポーツセンターで開催の『ミヤギテレビ杯オープントーナメント全東北選手権』。のちに『北斗旗(ほくとき)』の名前で行なわれる大道塾主催の第2回大会だった。

大道塾は、1977年の極真会館主催『第9回全日本空手道選手権』で優勝した東孝(あずま・たかし)が独立して創設。極真空手では禁じ手となっていた手による顔面攻撃を「スーパーセーフ」という顔面プロテクターをつけたうえで解禁し、さらに投げ技も認めた実戦性の高い格闘空手だった。現在は総合武道・空道(くうどう)として世界に普及している。

まだ世の中に総合格闘技がなかった時代、北斗旗はそのフレームを形成しつつあった。自分の意志ではないとはいえ、すでに出場を申し込んでいるのだから、断わるのもみっともない。試しに出場してみると、頭に被るスーパーセーフの前方の透明な出っ張りの部分が気になったものの、西は勝ち上がっていく。



決勝では第1回大会優勝者の〝小さな巨人〟岩崎弥太郎とぶつかったが、キャリアの差は如何ともしがたく準優勝に終わった。

大学まで柔道で汗を流し、極真やキックもやった自分がなぜ勝ち切れないのか。「これでは立場がない」――故郷の長崎に戻り柔道整復師として身を立てる青写真も思い描いていたが、「仙台に残って、もっとスパーリングをしないといけない」と決意し、大道塾総本部に通うようになった。

大道塾には大型の選手もおり、スパーリング相手には事欠かなかった。極真やキックを通して打撃に対する探究心も人一倍強かったが、自身の格闘技のベースである柔道の投げを使えるところも好都合だった。

「小さな巨人」岩崎弥太郎を攻める西

「小さな巨人」岩崎弥太郎を攻める西



のちに大道塾二代目塾長になる長田賢一との激突

のちに大道塾二代目塾長になる長田賢一との激突

■塾長・東孝との酒席 西同様、柔道出身の東孝は西に目をかけた。歳が近かったこともあり、北斗旗のルールについてこんなやりとりをすることもあったという。

「西、寝技を取り入れたいんだけど」

「いや、先生、寝技は注意したほうがいいですよ。柔道出身者は基礎体力があるから、全面的に寝技を解禁したら打撃系の選手が勝てない可能性も出てきますよ」

90年代になってから北斗旗も制限時間を設けながらも寝技を解禁することになるが、当時は西も想像できなかっただろう。

東は試行錯誤していた。そんな東に西は助言できる関係だった。

「どこかで自分が先生に寝技を進言したと書いてあったけど、それは反対だと思うんですよね。僕はどちらかといえば、打撃のほうが好きなので」

稽古していると、東から「ちょっと話がある」と声をかけられることもよくあった。一緒に飲もうという合図だ。東の部屋に招き入れられると、新潟の選手から差し入れられた高価な日本酒「越乃寒梅」が用意されていた。

「先生、越乃寒梅なんてもったいないですよ」

「大丈夫だ。たくさんもらっているから」

そう言いながら押し入れを開けると、10本以上の瓶が収められていた。ほろ酔い気分で東はこんな本音を吐いたこともあった。

「西、俺は顔面(パンチありのルール)をやろうと思ったけど、稽古が終わったあと楽しく酒を飲めれば良かったんだよ」

東との酒席を回想し西は言う。

「僕はあまりお酒を飲むほうではなかったけど、楽しかったですね。先生も一番楽しい時代だったんじゃないですか」

努力の甲斐あって、翌83年10月24日の北斗旗無差別決勝で西は岩崎にリベンジして初優勝を果たす。その後、北斗旗は拳サポーターを着用して闘うようになったが、当時は軍手をつけて闘っていた。

西は「素手で闘う人もいましたね」と振り返る。「バンテージ?私が出ている頃にはいなかったと思います。現れたのはずっと後だと思いますね」

拳による顔面攻撃は突きではなく、掌底を使う者もいたが、少数派だった。当時の激闘を物語るかのように、いまも西の一部の指は曲がったままだ。

「ベアナックルで対戦相手のスーパーセーフを思い切り殴っていた代償ですね」

拳以外にも、一日に何試合も勝ち進まなければならないトーナメントの代償はあった。



「実は初めて北斗旗のチャンピオンになった直後、便所でバターンと倒れたんですよ」

倒れながらも、幸い意識はハッキリしていた。西は「アッ、来たな」と直感した。

「僕は柔道出身でダメージには強いほうだと思っていたけど、スーパーセーフで受けるダメージはわからないうちに蓄積していくんだなと思いました」

その後も西は北斗旗に出場し続け、84年10月21日には無差別級で2年連続優勝する。86年5月25日には前年度に続いて階級制の北斗旗体力別・無差別級も制し″北斗の覇王″と呼ばれるようになった。「体力別」とは、身長+体重を「体力指数」として算出し階級分けした大道塾独自の大会である

このとき西は三十路に突入しており、大道塾では西より9歳若い〝ヒットマン〟長田賢一が台頭していた。だからといって西が現役生活の幕引きを図るわけではなかった。87年、母親が待つ長崎に戻り空手格斗術慧舟会(のちの和術慧舟會)を設立すると、西はプロ格闘技界から再び声がかかるようになった。

(つづく)

文/布施鋼治写真提供/ドラゴンメディア

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