信子さま薨去の義母・百合子さまのお見舞いにいかれず…娘姉妹にも亀裂で深まる「三笠宮家の家族問題」

旧宮内庁長官公邸で生活されている信子さま /(C)JMPA

信子さま薨去の義母・百合子さまのお見舞いにいかれず…娘姉妹にも亀裂で深まる「三笠宮家の家族問題」

11月19日(火) 6:00

いまにも雨が降りだしそうな厚い雲が立ち込めた空の下、天皇皇后両陛下をはじめ、皇族方が次々と、赤坂御用地にある三笠宮邸を弔問された。

「11月15日朝、三笠宮妃百合子さまが、老衰で薨去されました。百合子さまは’24年3月から聖路加国際病院に入院されていました」(皇室担当記者)

百合子さまは高木正得子爵夫妻の次女として誕生し、1941年10月に18歳で昭和天皇の弟・三笠宮崇仁親王と結婚された。

「101歳のご生涯のうち、80年以上を皇族としてすごされたのです。夫である三笠宮崇仁さまが’16年に薨去された後は、当主として三笠宮家を守り続けていらっしゃいました」(前出・皇室担当記者)

宮中は悲しみに包まれているが、百合子さまの薨去によって生じる波紋を心配している関係者は少なくないという。前出の皇室担当記者が続ける。

「百合子さまのご容体が悪化していることが判明し、イギリスを訪問されていた孫の彬子さまは緊急帰国して連日、ご入院先の聖路加国際病院へお見舞いに行かれていました。

また、もう一人の孫である瑶子さまや高円宮妃久子さまら、ご家族がこぞってお見舞いするなかで、“長男の妻”である寬仁親王妃信子さまだけは病院に姿をお見せにならなかったのです」

彬子さまが月刊誌に次のような文章を寄稿し、長年にわたる家族の断絶を赤裸々に明かされたのは、’12年に父・寬仁さまが薨去されてから3年後のこと。

《寬仁親王家は長い間一族の中で孤立していた。その要因であったのが、長年に亙(わた)る父と母との確執であり、それは父の死後も続いていた。母(編集部註・寬仁親王妃信子さま)は父の生前である十年ほど前から病気療養という理由で私たちとは別居され、その間、皇族としての公務は休まれていた。私自身も十年以上、きちんと母と話をすることができていない》(『文藝春秋』’15年7月号)

信子さまが“病気療養という理由”で、寬仁親王邸から出られたのは’04年だった。

「“家出”は寬仁さまとの夫婦仲の悪化のためでした。寬仁さまのアルコール依存症の治療を巡る対立や、殿下による家庭内暴力が原因だったと報じられています」(前出・皇室担当記者)

■彬子さまは信子さまのことを“母”とは呼ばず…

だがこの対立は夫婦間だけにとどまらなかった。ある宮内庁関係者によれば、

「お嬢さま方は心の底から寬仁さまを敬愛されていました。お二方からすれば、“病気のお父さまを置いて家を出てしまうなんて許せない”という気持ちになられたのでしょう。

’12年、危篤状態になられた寬仁さまに会うため、信子さまは何日も病院に通われたのですが、“ご家族の意向”により、ご夫婦の対面は最後まで叶いませんでした。信子さまはこのことについては、百合子さまのご意思も介在されていたと考えられているようです。

三笠宮ご夫妻のご意向もあり、斂葬の儀の喪主は彬子さまが務められることになり、信子さまは葬儀にも参列されませんでした」

寬仁さま薨去の翌年、信子さまは公務に復帰された。

「当時、百合子さまが対話を求める手紙やファクスを送られたそうですが、信子さまは頑なに応じられなかったのです」(前出・宮内庁関係者)

それから10年以上たつが、母娘の関係は凍てついたままだという。瑶子さまの知人はこう語る。

「瑶子さまのお口からは“母”や“母親”という言葉は聞いたことがありません。信子さまのことは“あの人”と呼ばれているのです。皇室の方々はけっして多くはなく、69歳の信子さまもご公務に携わられていますが、瑶子さまは信子さまが公の場に立たれること自体を苦々しく思われているようです。また瑶子さまは、信子さまが職員を使って、ご自身や彬子さまの交友関係などを調べていると考えていて、そのことについても不満を募らせていらっしゃるのです」

信子さまと彬子さま、瑶子さまがいっしょに行事などに臨まれることもあるのだが……。

「信子さまとお子さま方が会話をされているご様子はありません。10月30日、秋の園遊会で和装のお三方が並ばれていましたが、皆さまが厳しいご表情で、視線を合わせられることもありませんでした。なぜか彬子さまと瑶子さまもお話しされていなかったのが印象的でした」(前出・皇室担当記者)

実は、この10年ほどで姉妹にも亀裂が生じているという。三笠宮家の事情に詳しい関係者は本誌に次のように証言する。

「瑶子さまは、お姉さまに対しても複雑な感情を抱かれているようです。あるとき、『(姉は)家を守らないで、京都に住んでいるからね』と、ポツリともらされていました。確かに彬子さまは、大学の講義や自ら設立された心游舎の活動などのために、京都に滞在されていることも多いのです。

瑶子さまとしては、高齢の祖母・百合子さまのおそばにいて、実質的に三笠宮家を守っているのは自分なのに……、という思いをお持ちだったのでしょう。天皇陛下が即位されたとき、百合子さまはブローチを瑶子さまに譲られたと聞いています。それは大正天皇の后・貞明皇后から百合子さまがいただいたという品で、瑶子さまは『お祖母さまは、私をいちばん信頼してくださっている』と、感激されていたそうです。

そんなお祖母さまもご体調を崩され、三笠宮家の将来も不透明なまま……、誰にも相談できない鬱屈した気持ちもあり、髪を金色に染められたのでしょうか」

男系男子による継承が慣習となっている皇室で、宮家当主が薨去したのち、親王妃が当主になることはあっても、娘が当主になった前例はない。

■それぞれが独立した家をかまえる可能性も

「実は寬仁さまが薨去された後、彬子さまが継がれるという計画もあったのですが、信子さまが絶対に認めようとせず、実現しなかったのです。

“将来、三笠宮家はどうなるのか”といった問題に、彬子さまは直面されていました。彬子さまは11月4日に放映されたNHKの特集番組『話題の肖像 ~ニュースなあの人を追ってみた~「あるプリンセスの素顔」』に出演されています。皇族が密着取材を受けるのは非常に珍しいことでしたが、彬子さまとしてはご自身の活動を知らしめるだけではなく、存在感を示す必要も感じられていたのかもしれません」(前出・宮内庁関係者)

今後の展開について、元宮内庁職員で皇室解説者の山下晋司さんは次のように予想する。

「寬仁親王薨去後、ご家族での話し合いがまとまらず、当主が決まりませんでした。結局、お三方そろって三笠宮家に合流されたという経緯もありますので、今回もすぐには結論が出ないかもしれません。

しかし彬子女王殿下は父・寬仁親王の葬儀の喪主を務められ、祖父・三笠宮崇仁親王の葬儀でも喪主代理を務められました。今回、百合子妃殿下の葬儀でも喪主を務められることになりましたので、三笠宮家の祭祀を担われる実質的な当主といえます」

宮家の継承について法律上の規定はないが、「皇室経済法」には“独立の生計を営む親王妃”“独立の生計を営む女王”という規定もある。そのため山下さんによれば、お三方が一つの宮家に入るのではなく、それぞれ独立した家をかまえられる可能性もあるという。

「皇室経済法の規定で、彬子女王殿下や瑶子女王殿下も、それぞれ“独立の生計を営む女王”として当主になることは可能です。

現在の三笠宮家が“寬仁親王(妃)家”“三笠宮家(または彬子女王家)”“瑶子女王家”といった3つの宮家になる可能性もあります。お三方と宮内庁が納得し、天皇陛下のご了承を得た後、皇室経済会議で議決されれば実現します」

しかしこのケースは一つの問題を抱えている。

「現在、信子さまは旧宮内庁長官公邸で生活されており、13億円かけて改修工事が行われることが発表されています。

瑶子さまは三笠宮東邸(旧寬仁親王邸)で今後も生活されることになるでしょうが、彬子さまの東京での新しい邸宅も必要となります。三笠宮邸に入られるとして、母娘三人が、それぞれ邸宅を持たれることになる可能性もあります。

邸宅の維持にも公費である宮内庁関係予算が充てられるため、お三方の家族問題について、国民から説明を求められる状況にもなりかねないのです」(前出・宮内庁関係者)

百合子さまの薨去によって噴出するご家族の問題は、今後どういった収束をむかえるのか。

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