11月17日(日) 11:00
【前編】アフガン女性に無料で日本語教室を開く江藤セデカさん命懸けの来日と日本人夫との短くも幸福な結婚生活より続く
NPO法人「イーグル・アフガン復興協会」理事長の江藤セデカさん(66)。19歳の頃、母国アフガニスタンの首都・カブールの大学で、後に夫となる日本人留学生の江藤克之さんと出会う。
’78年のクーデターにより帰国を余儀なくされた克之さんのプロポーズを一度は断ったが、長年の文通の末に決死の覚悟で来日し、結婚。幸福な結婚生活を送っていたが、’89年に33歳の若さにもかかわらず克之さんが白血病で亡くなってしまう。セデカさんは4歳の一人娘と日本に取り残されることになり――。
■6畳1間のアパートで日本語を独学で猛勉強。「私は絶対に死なないから」
「泣いても主人は戻ってこない。いえ、泣いている暇さえなかった」
そう振り返るセデカさんの大きな瞳が、涙で覆われていく。
克之さん亡きあと、母一人子一人の厳しい現実に向き合わざるをえなかったのだ。
「6畳1間の風呂なしアパートに移りました。月謝がかかる日本語学校はやめて独学に。毎日辞書を開いて猛勉強しつつ、仕事を探しました」
子供を預けながら働ける近所の児童館で、学童保育のアルバイトに就くことができた。
「8時45分から17時までの仕事で、昼休みは家に帰って、洗濯や掃除をしていました」
公園に連れて行くなど、娘との関わりも欠かさなかった。
「父がいない分、母の私がしっかりしなければ。娘には『私は絶対に死なないから』と誓いました」
彼女は当時のことをどのように記憶しているのだろうか。現在、長女(40歳、国際協力団体職員)はアフガニスタン系ドイツ人男性と結婚し、2児の母に。東京在住で、セデカさんとは「スープの冷めない距離」で暮らしている。
「父の記憶はほとんどありません。でも父が亡くなった後、引っ越したアパートがとても小さく、寂しかったのを覚えています。
母はすごく忙しくて一緒に過ごす時間が少なかった。だから高校生になってからは、母の在宅時間に私もいるようにして、二人で過ごせるようにしました」
セデカさんは日本語とペルシャ語が話せる人を求めていた貿易会社に雇用された。さらに裁判所の通訳の仕事も引き受けた。
「当時、イラン人の不法滞在による訴訟も多かったので、ペルシャ語が話せる私は重宝されました。そこで出会うイラン人は、事情を抱える人ばかり。母国では戦禍で家族が苦しんでおり、外国でお金を稼がなければなりません。涙を浮かべて窮状を訴えるのです」
それは“この日本で、自分が誰かの役に立てるんだ”と実感した最初の経験だった。寝る間も惜しんで仕事の準備をしたという。
「日中は貿易会社の仕事。夜から朝にかけて、裁判所からもらった本で専門用語を覚えながら翻訳し、裁判の準備をしていました」
’93年、貿易会社を辞めて自身の会社「ハリーロード」を立ち上げた。訳せば「絹の道」となる母国を流れる川の名から取った。95年にはペルシャ絨毯を輸入・販売する同名の物産店を都内に開店。
さらに’03年、NPO法人「イーグル・アフガン復興協会」を設立。
会社の設立や協会の運営は、「紛争による混乱で苦しむ同胞を助けたい」というひたむきな思いからだった。食料や衣服が足りない母国の子供たちに物資を送り、日本に逃げてきたアフガニスタン人には通訳や仕事の斡旋、そして学習環境のサポートを……。
セデカさんは愛する人の死に挫けることなく、フル回転で活動してきたのだ。
「紛争が続くアフガニスタンでは国民の多くが困窮していて、なかなか豊かになれません。すべての人が教育を受け、仕事を持てるようにと願ってきました。
空高く舞うイーグル(鷲)は、アフガニスタンでは希望の象徴です。協会が『何も怖れることなく、独立して自由に羽ばたけるように』と祈りを込めて、“イーグル・アフガン”と名付けたのです」
■難民女性のための日本語教室。「夫亡き後、ずっと夢見てきたことでした」
’21年のタリバン復権で「前進してきたはずの女性の歴史が、100年前に再び巻き戻されてしまいました」とセデカさんは憤る。
「タリバン政権下では女子の教育が小学校までとされ、10歳未満で結婚させられる子も多くいます。そのため、いまアフガニスタンではメンタルが不調の女子も多く、精神科医が足りない状況です」
タリバンは教育から生活、服装まで女性の権利を著しく制限した。違反したら、鞭打ち、逮捕。死刑や公開処刑された例もある。また、各国大使館に勤務する人を諸外国への協力者と断じた。
そうした環境に耐えかねて、ここ数年、他国へ避難する人が激増している。
UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)によれば、世界の難民は’23年末で約1億2千万人、そのうちアフガニスタン難民は約640万人と最多になっている。
日本には同年6月時点で約5千600人のアフガニスタン人がいて、そのうち約2千300人が千葉県に暮らす。
「ところが多くのアフガニスタン人が就職できていません。高学歴の女性も含めてです。
日本語の読み書きができないのがその理由です。書類も書けず、不安だけが膨らんで、一歩も先に進めなくなってしまう」
こうした状況にセデカさんは立ち上がった。今日の同胞女性たちが直面している困難は、夫を亡くした40年前に自分自身が味わっていたものだったからだ。
’23年11月4日に千葉市で開校した、アフガニスタン女性が対象の日本語教室「イーグル・アフガン明徳カレッジ」には現在150人が登録しており、難民認定された人もいる。
受講する40代の女性が言う。
「来日して4年、仕事がしたいけど、どこも雇ってくれず、不安を抱えていました。日本語は難しいですが、日本語教室で字が少し書けるようになりました」
講師を務めるロキアさん(36)はアフガニスタンで産婦人科医をしていた2児の母で、夫(49)も心臓医。22年に一家で来日した。
「母国でタリバンに暴行された夫には後遺症の脊椎損傷があります。そのため定職には就けず、アルバイト勤務です。私は製品工場の作業員をしています。
難民支援が整った国では最初の1年を政府の援助で学べて、2年目から仕事ができます。でも日本では自費で勉強しながら、仕事もしないと生活できません」
この教室に場所と託児サービスを提供している千葉明徳学園の福中儀明理事長はこう話す。
「セデカさんに『日本語教室を開きたい』と相談され、『ぜひやってほしい』と即答しました。私自身も、母国を追われる難民の姿に心を痛めていたのです。
いまは、女性の日本語習得だけでなく、そのお子さんたちの小学校教育の補習もしています」
そのとき日本語のテストの採点を終えたセデカさんが、驚きの声を上げた。
「4人が満点でした! 日本語能力試験にも2人合格したんです」
教室では日本の生活で悩む人たちの人生相談も受ける。
「『家賃が払えない』というものからDVの相談まで。こうした声を反映させるために、今後は仕事の紹介や、日本語キーボード修得もサポートしたい。奨学金制度の設立も働きかけていきたいです」
夢は尽きない。その原動力は何かと、あらためて尋ねた。
「近年、日本でアフガニスタン人の少年による事件も起きていて心を痛めています。でも母親が日本語を理解できなければ、学校での子供の状況さえ把握できません。
子供の教育は、母親が担うところが大きい。だから、アフガニスタン女性に日本語を教えなければいけない。それは、夫亡き後、私がずっと夢見てきたことでした。その第一歩が、ここでやっと踏み出せたのです」
最後の「ここで」に力強いアクセントを置いた彼女は、夫を失った後もここ日本に住み続け、独学で日本語を学びながら女手一つで子育てを続けてきた。
その苦難から得たやさしさは、今度は戦渦で母国を追われた人々の心を労わっていく。
ふと、セデカさんの長女が語った一言が思い起こされた。
「アフガニスタン人支援は、母のライフワークそのものです」
母国を流れる「絹の道」という川のように、セデカさんの情熱は絶えることなく、同胞らの乾いた心を潤し続ける。
(取材・文:鈴木利宗)