11月17日(日) 11:00
写真に写るのは、タキシードを着た日本人男性と、純白のウェディングドレスに身を包んだ若いアフガニスタン人女性。
幸福な国際結婚の一コマだ。しかし、この半年後に訪れる悲劇を、いったい誰が想像できただろうか――。
’21年のタリバンの実権掌握で女性の権利が著しく脅かされているアフガニスタン。夫の突然の死を乗り越えて、かつての花嫁は、内戦に苦しむ同胞女性の未来を日本から照らし続ける。
■千葉県の大学の一室。日本語のテストに取り組むアフガニスタン人女性たち
「きりつ、きをつけ!」
教壇に立つ女性の号令に続き、力強い声が教室に響く。
「きょうは、9がつ28にちです。きょうは、テストです!」
千葉駅から10分ほど、京成千葉線・学園前駅で降りると緑に囲まれた校舎が目に入った。
千葉明徳学園のキャンパス内にある同短期大学の教室を借りて、土曜日の朝から行われていたのは日本語教室だ。
生徒はみんな大人の女性。室内の18人全員がマフラー状の布で頭からあごのあたりまで覆っている。
これはイスラム教の女性が着用するヒジャブと呼ばれる布。シックな色合いから、ライト・ブルーにピンクといった明るい色、格子紋様など様々あり、鮮やかである。
ここには日本語のテストにひたむきに取り組む在日アフガニスタン人女性たちの姿があった。
毎週土曜日に開催されている日本語教室「イーグル・アフガン明徳カレッジ」は11月で開校1周年。運営するNPO法人「イーグル・アフガン復興協会」の理事長を務めるのが、教室の壇上に立つ江藤セデカさん(66)だ。
「子連れのお母さんは、ベビーカーを机の隣に置いたまま授業を受けています。別室の託児ルームで一時預かりもできます」
近年のアフガニスタンの治安は極めて悪化している。
’21年に武装組織・タリバンによる支配が復活し、迫害の恐れから人々が国外に次々に亡命。現在日本には約5千600人のアフガニスタン人が暮らしているのだ。
「母国で専門知識を取得したのに、日本では就職もできない人がたくさんいます。幼い子供がいるのに、アルバイトの収入しかないと嘆いている夫婦もいます」
深く緑がかった瞳のセデカさんも、アフガニスタンで生まれ育ったイスラム教徒である。
王族の流れをくむ裕福な家庭に生まれ、勉学に励んで国立カブール大学に進学。国家公務員として働いていた“エリート”でもある。
なぜそんなセデカさんが来日して日本国籍を取得し、アフガニスタン人女性のための日本語教室を開くに至ったのだろうか。
彼女の旅路は47年前、1人の日本人男性と出会ったことで始まったというーー。
■「新聞、読めるんですか?」大学の授業の合間、わずか15分に訪れた出会い
江藤セデカさんは’58年1月22日、中東はアフガニスタンの首都・カブールで生まれた。
「王家の末裔である父は町の農場を管理していました。母は地方の村長の娘で、13歳で父と結婚。11人子供を産んで、9人育ったうちの7番目が私でした」
実家はレンガ造りの3階建ての豪邸で、敷地内に果樹園もあった。
「1年の寒暖差が激しいカブールは、真夏は気温が45度を超え、逆に真冬はマイナス25度に下がり豪雪になります。家には薪や石炭を貯蔵する地下室がありました」
曽祖父はアフガニスタンの防衛長官を務めた人で、叔父は王の秘書として仕えていた。近くには大統領宮殿があり、生活空間の安全は保たれていた。
「けれども女子は外出できませんでした。外出すれば誘拐されて身代金を要求されたり、レイプされたりする危険があったのです」
短いスカートは禁止、見知らぬ男性との会話や食事も禁止。女子だけでは、モスク(イスラム教の礼拝堂)にも行けなかった。そんな慣習のなかで両親は「進歩的な考え」を持っていたという。
「貧しい人にも丁寧に接する父は、『世の中に悪い人はいない』と話してくれました。そして娘たちにも勉強させてくれたのです」
アフガニスタンでは、児童が小学校を卒業する割合は54%だが、女子だと40%しかいない。15歳以上の識字率は43%、女性では30%だという(前田耕作・山内和也編著『アフガニスタンを知るための70章』明石書店より)。
そんななかセデカさんは倍率85倍の国立カブール大学地理学部に合格。ようやく単独行動を許されようになったが、相変わらず制限はあった。
「表を歩くときは下を向いて歩くこと。外で男性に声をかけられたら大声を出すこと。外出先で誰と話したか、何時に帰るか、といった親への報告は義務でした」
束縛が強すぎるようにも思えるが、それなりの理由も。
「アフガニスタンの習慣で、結婚するまで女性は処女でなければいけません。もしどこかの男に乱暴されたら、嫌でもその男と結婚するか、一家で別の土地に移住などしなければなりません。
男子と手をつないだだけで退学になったり、家族から虐待されたりします。男子と映画を観に行っただけで、家族に暴力をふるわれた女子もいました」
自由恋愛は許されず、親が決めた結婚を苦に自殺する女子もいた。そんな窮屈な学生時代に、セデカさんは人生を変える男性と出会う。
「私の教室の真向かいに、外国人のパシュトー語(アフガニスタンの公用語)の教室があり、そこでアジア系の青年がアフガニスタンの新聞を読んでいたのです」
思わずセデカさんが「新聞、読めるんですか?」と尋ねると、その男子留学生は「読めますよ。日本で勉強したんです」と嬉しそうに答えた。それがのちの夫となる江藤克之さんだった。
当時セデカさんは19歳、克之さんは22歳。大学の休憩時間、わずか15分での出会いである。
しかし結婚前に男女が1対1で会うことは御法度。男女2対2で話すなどして二人の仲は深まっていった。
■命懸けの来日、異国の結婚生活、娘の出産。だが病魔は刻一刻と迫っており――
アフガニスタンは共和制が’73年にスタートしたばかりだったが、政情が不安定で、’78年にクーデターが勃発すると人民民主党政権が成立した。
「この新体制に反政府運動が起きて国内の治安は最悪でした。反政府的なことを言っただけで、逮捕されるか殺されてしまうのです。無論、外国人の彼は帰国を余儀なくされました」
「最後に会えませんか?」と願う克之さんに、友人に同伴してもらって会いに行った。その友人に5mほど離れて耳を塞ぐように頼んだ後、克之さんはセデカさんを見つめて言った。
「あなたが好きだ。日本に来て、僕と結婚してくれませんか」
彼に惹かれる気持ちはあった。だが結婚前の恋愛は許されておらず、最悪の場合、女性は殺されかねないのだ。
「ごめんなさい、外国人との結婚なんて許されるわけないの」
しかし克之さんの思いは帰国後、彼が石油会社に就職しても依然として変わらない。日本から手紙が何十通と送られてくる。
《いつもあなたのことを心配しています。日本に来てくれませんか》
文通は2年にも及んだ。セデカさんが国家公務員として通産省に就職すると、手紙は勤務先にも送られてきた。理解者である姉にだけ打ち明けると――。
「アフガニスタンの男はお金があれば2人目の奥さんを持つでしょう。それに比べて、克之さんほど一途な男性はいない。私は結婚すればいいと思う」
だが両親に言えるわけがない。周囲に漏れれば、身内ごと命の危険にさらされる恐れもあった。
半年後、「鼻炎の治療」という名目で、セデカさんは知人がいるインドに渡航する。克之さんとそこで落ち合う算段を立てたのだ。
「アフガニスタンでは克之さんと結婚できない。手紙でお互いの所在を確認しながらインドで合流し日本へという計画です。二度と戻らない、命懸けの覚悟でした」
ところがインドに着いて2週間が過ぎても、彼から1度も手紙が届かない。滞在期間を引き延ばすうちに3カ月、4カ月と経ってしまった。
「命がけでお嫁さんになろうと来たのに『なぜ?』と。ついには父から『戻ってこい』と連絡が来てしまったのです」
泣く泣く帰国する寸前、克之さんから国際電話が。
「セデカ、なぜ手紙をくれなかった?すごく心配していたんだ」
あとでわかったことだが、結婚に猛反対だった克之さんの母親が、セデカさんからの手紙をすべて破り捨てていたのだった。
バンコク、マニラと経由して、克之さんが待つ成田空港へ。
「到着ロビーに着くと、花束をもって待ってくれている彼が。夢にまで見たやさしい笑顔でした」
’83年3月24日、婚姻届を提出。
「結婚まで彼は私の純潔を守ってくれました。『家族を捨ててまで日本に来てくれた。君の涙は僕の涙。親より君が大事だ』と」
あどけない新婚生活が始まった。
「『かつゆき』は発音しにくいので『かつおさん』と呼んでいました。主人は『それ、魚の名前なんだけどね』と笑っていました」
日本での生活は母国とはまるで違った。夜中に暴走族が乗り回すバイクのエンジン音を聞いたときは「戦闘が始まった!」と反射的に飛び起きたことも。
「アフガニスタンで夜に爆音が鳴るのは政府とムジャヒディン(聖戦士)との戦闘でしたから」
成績優秀だが、お嬢さま育ち。家事・炊事はからっきしだった。
「アフガニスタンでも料理は女性がするものでした。でも私は一切したことがなく、いつも焦がしてばかりでした」
初めて作るみそ汁にワカメを長いまま切らずに入れてしまっても、克之さんは目を細めて労わってくれる。
「ご近所で料理のやり方を聞いて回っていると、『セデカ、苦労して料理することはないよ』と。『手が荒れるから、お皿を洗ってはダメ』と言って、主人が皿洗いをしてくれたのです」
’84年10月に長女を出産。専業主婦として家事と育児をし、日本語学校にも通った。しかし、そんな幸せな時間は無情にも急に断ち切られた。
「長女が生後5カ月のとき、彼は白血病と診断されていたのです。でも私には一切教えてくれず『貧血気味なんだ』と。私を心配させたくなかったのでしょう」
貧血対策にレバーや干しブドウなどを食材にしたが、病魔は着々と克之さんをむしばんでいく。
「亡くなる半年前、ハワイに旅行しました。私たちは結婚式を挙げていませんでしたので、“せめて写真だけでも”と、私は純白のウェディングドレス、彼はタキシードを着て撮影しました。
彼は手も足も、ものすごく痛かったはずです。旅行中、苦しそうな顔を頻繁に見せていたのを覚えています」
帰国後は即入院。「セデカ、ごめん」と謝る夫に「大丈夫、必ず元気になるから」と励まし続けた。
あるときには「僕が死んだら、どうする?」と問われ、こんなジョークで返してもいた。
「私、パーティやる。好きなものを好きなだけ食べる!」
微笑んでくれた克之さんだが、やがて寂しげな顔に戻って、こう言った。
「どうか再婚しないでほしい……。相手が日本人でも、アフガニスタン人でも……」
亡くなる1週間ほど前、4歳の娘にペンで書いたメッセージが、克之さんの最後の言葉になった。
《おかあさんを、こまらせないで。あいしてる》
’89年6月28日、夫・克之さんは33歳の短い生涯を閉じた。
(取材・文/鈴木利宗)