齋藤彰俊引退インタビュー
「記憶に残る3試合」3試合目
(2試合目:三沢光晴が自分の技を受けた後に急逝 2カ月後に受け取った手紙に誓った決意>>)
11月17日に愛知・ドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)で引退試合を行なう、プロレスリング・ノアの齋藤彰俊。引退試合を前に齋藤が振り返る、記憶に残る「三番勝負」の3試合目は、今年7月13日に日本武道館で行なわれた潮崎豪戦と、そこに至るまでのふたりの物語について語った。
7月13日の試合後、握手する齋藤彰俊(左)と潮崎豪photo by 東京スポーツ/アフロ
【三沢の「追悼興行」に白装束で登場】齋藤が試合後に現役引退を表明した潮崎との一戦。この決断に至るまでには、齋藤と潮崎の15年に及ぶ物語があった。
ふたりは、三沢光晴が永遠の旅に出た広島でリング上にいた。齋藤は三沢と戦い、潮崎はパートナーとしてあの瞬間を共有した。あの日からふたりは、あのリングにいた者だけしかわからない思いを背負った"同志"となった。
潮崎は、その翌日の2009年6月14日、博多スターレーンで力皇を破り、GHCヘビー級王座を初奪取。そして、初防衛戦の相手に指名したのが齋藤だった。
「シオ(潮崎)に指名された時、始めは『自分には挑戦する資格はない』と思いました。だけど、あの広島のリングで対角線にいたシオが自分とやりたいというなら、やるしかないと覚悟を決めました」
試合は9月27日、日本武道館に決まった。大会は三沢の「追悼興行」。決戦を前にした9月12日の後楽園ホールで、齋藤は覚悟の一端を見せた。森嶋猛とのシングルマッチで、三沢に浴びせた最後の技となってから封印していた「バックドロップ」を繰り出したのだ。
そして迎えた武道館。齋藤は黒のロングコスチュームをすべて変え、白装束でリングに上がった。
「退路を断つ思いでリングに上がりました」
技だけでなく、お互いの決意をぶつけ合った激闘。潮崎が三沢の必殺技「エメラルドフロウジョン」などを炸裂させて齋藤を追い込むと、最後は「ゴーフラッシャー」で勝利した。リング上で大の字になって天井を見上げた時、齋藤の胸のなかに「俺が信じた潮崎豪だ」という思いが沸き上がったという。齋藤はこう振り返る。
「具体的な言葉はなかったですが、三沢さんがこれからのノアをシオに託していた部分が大きかったことは、三沢さんの態度から感じていました。自分が言うのはおこがましいですけど、ならば、あの試合でもし自分が思っているような潮崎豪じゃなかったら『潰すべきだ』と思っていました。それが、広島で三沢さんと戦った自分がやらなきゃいけないことだと。
潰れたら這い上がればいい。這い上がれなければ彼の責任。そんな試合ができなければ、自分は切腹するから介錯しろ、と思っていました。その意味での白装束でもありました。でも、戦いのなかでシオの覚悟と、急激な成長を感じました。あの時のシオは、デビューしてからまだ6年目。『人間の成長って月日じゃないな』と思いました。自分は負けましたから、当たり前ですが悔しかった。だけど、あの天井を見上げた時に『あぁ、俺が信じていた潮崎豪だった』と真っ先に思ったんです」
【潮崎との決戦前に決まって起きる異変】三沢のラストマッチで齋藤のパートナーだったバイソン・スミスは、2011年11月22日、心不全のため38歳で急逝した。それ以来、三沢さんのラストマッチでリングにいたのはふたりだけになった。
スミスが亡くなったこの年の年末に、齋藤はノアから所属契約を解除する通告を受けてフリーとなり、一方の潮崎は2013年夏に全日本プロレスに移籍した。それから紆余曲折を経て、2014年6月に齋藤が、2015年11月には潮崎がノアに復帰する。ふたりのプロレス人生は、常にどこかでシンクロしていた。
だからこそ、齋藤の潮崎に対する思いは特別だった。それは潮崎も同じ。それを象徴する一戦が行なわれたのは、コロナ禍であらゆるスポーツ、エンターテインメントが興行自粛に追い込まれた2020年6月14日。観客を動員できない苦境のなか、GHC王者だった潮崎の指名を受けたのが齋藤だった。三沢さんが亡くなった6月の試合で、齋藤は潮崎のエメラルドフロウジョンを受けて敗れた。
「あの時は、久々のGHC王座への挑戦でした。コロナ禍でお客さんを入れることができない状況で、しかも6月開催......。だからこそ、シオは自分を指名したんだと思っています。自分は負けましたが、苦境に打ち克つ意味合いのあった試合だったと思います」
潮崎とGHC戦では、いつも体に異変が起こるという。
「シオと選手権をやる時って、いつも直前にケガをするんです。最初の挑戦の時も前日の会見で、一度座ったら立てないぐらい腰が痛かった。筋肉の損傷で、骨を痛めたわけではなかったんですが、武道館の試合当日にブロック注射を3カ所打って、薬を飲んでリングに向かいました。あの無観客の配信マッチでの選手権では頸椎を痛めていました。でも、不思議と試合はできるんです」
今年7月、武道館での試合の時もそうだった。
「今回も実は、腰を痛めていたんです。痛み止めを多く飲んで、会場で座薬を入れました。シオとの選手権になると必ずケガをするのは、必然なのかなと思っています。もしかしたら三沢さんから、『お前、それぐらいで休むんじゃないぞ』って言われているのかもしれません」
【15年前と同じ天井を見て思ったこと】試合直前の腰の負傷も天国からの「激励」と受け止め、逆に喜びを感じて気合が高まった。試合は、齋藤が持つ「世界ヘビー級王座」に潮崎が挑戦。2009年の三沢の「追悼興行」では、同じ武道館で齋藤が潮崎に挑戦してから15年。ベルトは異なるが、今度は齋藤が潮崎を挑戦者として迎えた。
「今までGHCで2回、シオに挑戦しています。ただ、自分の思いをシオに本当に伝えるためには、彼が挑戦者であるべきと思いました」
齋藤は今年1月、潮崎が結成した「TEAMNOAH」に加入し、名実共に同志となっていた。志を同じくする両雄の試合は15年前と同じ、いや、それ以上の激闘となった。互いの技と思いをぶつけあった攻防の末、剛腕ラリアットで潮崎が勝利した。
「2009年の武道館で負けた時は、天井を見ていろいろと思うことがありました。あれから15年を経た7月の試合では、天井をシオに見せて自分が感じたことをシオに感じてもらおうと思っていました。でも、また自分が天井を見ちゃいましたね」
運命を共有してきた潮崎に再び武道館で敗れた。15年前と同じ天井を見た時、齋藤のなかにある感情が込み上げてきた。そしてリング上でマイクを持ち、「2009年6月13日、あの広島の地で心に誓ったこと、約束したこと、俺なりに果たしたのかなと思う。だから引退を決意しました」と表明した。
「あの時にふと思ったのは、武道館で意味のある試合をシオと戦って『俺は約束を守れたんじゃないかな』ということ。本当に突然、沸き上がった感情で、事前にTEAMNOAHの選手にも伝えていなかったので、全員が唖然としていましたね。でも、それこそがプロレスだと思います」
激動の約34年のレスラー人生。11月17日、愛知県体育館で引退する。ただ、運命の日を前にしても、齋藤は"ラストマッチ"と感慨に浸ってはいない。
「ノアとは何か?を伝えたいです。自分のなかでは、三沢さんが貫いた闘いが心のどこかにないといけないと思っています。三沢さんの闘いは、人間の器の大きさを見せるプロレス。あのすさまじい"受け"がその象徴です。だから自分も、ゴングが鳴るまでは『ノアとは何か?』を問いかけるために、伝えるために全力疾走します」
【プロフィール】
■齋藤彰俊(さいとう・あきとし)
1965年、宮城県仙台市生まれ。W★ING、平成維震軍を経て2000年よりノアに参戦。2002年9・23日本武道館でGHCタッグを獲得。2006年にノア所属となるが2012年から再びフリーとなり継続参戦。2014年6・13後楽園での試合後、再入団の誘いを受けて約2年半ぶりにノア所属となり、2018年7・28後楽園ではGHCタッグへ挑戦して約6年ぶりの同王座戴冠を果たした。2019年に井上雅央と「反選手会同盟」を結成。今年1月、潮崎豪が結成した「TEAMNOAH」に加入。同7月13日に日本武道館で行なわれた潮崎戦の終了後、引退することを表明した。
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