巨大な事典のような「慰霊帳」には、アルファベットで日系人の名前がずらりと記されていた。名前の下には青い丸印が押されているが、押印されていない名前もたくさんあり、そのうちの一つに、私は印をつけた。
「家族や友人が名前を確認しに来て、印を押すのですが、中には押されていない人もいます。押印することで元収容者に敬意を表するのです」
米ロサンゼルスの中心部にある全米日系人博物館で、渉外担当ディレクターの三木昌子さんがそう説明してくれた。
慰霊帳に記されているのは、第2次世界大戦で強制収容された日系人の名前である。その数は12万5千人を超える。
日本から米国へ渡った移民の歴史は1800年代後半に遡(さかのぼ)る。日本が明治維新の頃だ。主には「出稼ぎ」が目的で、ハワイやカリフォルニアを中心に農園などで働いた。1882年に中国人排斥法が成立し、中国人が米国へ入国できなくなると、日本人に対する安価な労働力としての需要が高まり、米国への移住が本格化した。
ところが日本人も差別の対象にされ、米国への帰化や選挙権、そして土地の購入を認められなかった。博物館内にも当時の様子を示す写真が展示されていた。
〈JAPSKEEPMOVING〉(ジャップは立ち止まるな)
そんなバナーが民家の軒先に掲げられ、白人女性が指をさしているモノクロ写真である。日本人に対する差別が露骨な時代があったのだ。やがて第2次世界大戦が始まり、米国から「敵性外国人」とみなされた日系人たちは全米75カ所の収容施設へ送り込まれた。施設といっても隙間だらけのバラックで、米軍に監視され、中には気温マイナス30度という極寒の地でも生き延びなければならなかった。三木さんが力説する。
「生活環境の問題以上に、人種だけを理由に自由や人権を奪ったこと自体が問題なのです。戦時下であっても、いや戦時下だからこそ人権は守られなければならないと思います」
1944年からは徴兵も始まり、自分たちを収容所へ追いやった米国のために戦い、戦死する日系人も相次いだ。私が押印した慰霊帳は、そうした苦難の歴史を歩んできた日系人たちの貴重な記録なのだ。
日系人の強制収容問題については戦後に名誉回復の機運が高まり、88年に市民の自由法(強制収容補償法)が成立し、米政府は公式な謝罪を表明した。
しかし、米社会におけるアジア人差別がこれでなくなったわけではない。新型コロナ禍では、ヘイトクライムが起きた。アジア系住民への暴行や嫌がらせが相次ぎ、殺害にも発展した。米大統領候補のトランプ前大統領は10月半ば、2021年に議会を襲撃した事件の受刑者と強制収容された日系人を同列に扱う発言を行い、物議を醸した。
人種差別の問題は根深い。米大統領選を直前に控え、あらためて思った。
【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No.46からの転載】
水谷竹秀(みずたに・たけひで)/ノンフィクションライター。1975年生まれ。上智大学外国語学部卒。2011年、「日本を捨てた男たち」で第9回開高健ノンフィクション賞を受賞。10年超のフィリピン滞在歴をもとに「アジアと日本人」について、また事件を含めた現代の世相に関しても幅広く取材。
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