引退の齋藤彰俊が語る「記憶に残る3試合」1試合目の小林邦昭戦で感じた本物のプロレスラーの「強さ」

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引退の齋藤彰俊が語る「記憶に残る3試合」1試合目の小林邦昭戦で感じた本物のプロレスラーの「強さ」

11月16日(土) 16:50

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齋藤彰俊引退インタビュー

「記憶に残る3試合」1試合目

プロレスリング・ノアの齋藤彰俊が、11月17日に愛知・ドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)で引退試合を行なう。

1990年のプロレスデビューから、新日本プロレスでは「平成維震軍」として活躍。2000年からノアに参戦すると、秋山準とのタッグでGHCタッグ王座を獲得するなどトップ戦線に立った。そして2009年6月13日には、リング上の事故で急逝した三沢光晴さん(享年46歳)が戦った最後の相手になるなど、約34年のプロレス人生は激動だった。

引退試合を前に、齋藤が幾多の激闘のなかから記憶に残る「三番勝負」を選んだ。1試合目は、1992年1月30日、大田区体育館での小林邦昭との異種格闘技戦を振り返った。



1992年1月30日、異種格闘技戦を行なった齋藤彰俊(上)と小林邦昭photo by 山内猛

1992年1月30日、異種格闘技戦を行なった齋藤彰俊(上)と小林邦昭photo by 山内猛





【「リミッターを外さないと俺がやられる」】32年前の小林戦で、齋藤が今も鮮明に覚えているのは、本物のプロレスラーの「強さ」だった。

「小林さんの脇腹に自分のいいパンチが入って、顔面にヒジとヒザも入って、ハイキックも手ごたえがありました。普通ならすぐに倒れているはずです。だけど、小林さんは倒れない。拳にも足にも手ごたえを感じて『今度こそどうだ!』と倒したと思っても、平然と立ち上がる。その時に『この人は半端じゃないな』と思いました」

齋藤は愛知の中京高校(現・中京大付属中京高校)時代から空手を学んだ。「誠心会館」を主宰し、「FMW」などプロレス団体にも参戦していた青柳政司との縁で、1990年12月20日に愛知・半田市民ホールで開催された剛竜馬の「パイオニア戦志」に参戦。金村ゆきひろとの試合でプロレスデビューした。

翌年には「W★ING」の旗揚げに参加して3カ月ほど同団体で戦ったが、小林はそれまで戦ったどの相手と比べても別格だった。

「学生時代に、小林さんとタイガーマスクの試合などをテレビで見ていました。ジュニアヘビー級だったので体が小さいイメージがありましたが、リングで対面するとデカいんです。体がぶ厚くて目が血走っていて、とにかく殺気がすごかった。

そんな小林さんを前にした時、自分は"レッドゾーン"といいますか、『リミッターを外さないと俺がやられる。大変なことになる』と感じて技を出し続けました。ところが倒れないんですよ」

小林の「強さ」を回想する齋藤の口調は、32年を経ても興奮し熱を帯びる。

【「収まりがつかない」友人の代わりに小林と対戦】それほどの衝撃を味わった一戦が実現したのは、ささいな出来事がきっかけだった。1991年12月8日に、後楽園ホールで「誠心会館」の自主興行が行なわれた。それに参戦した小林が、控室のドアを閉め忘れた誠心会館の道場生を注意。小林はその道場生の反応を"口答え"と判断して顔面を殴打した。制裁を加えられた道場生は、齋藤と中京高校時代からの親友だった。

「殴られた張本人から電話がかかってきて、『仕返しにいこうと思う』と聞きました。事の経緯、詳細は聞かなかったんですが、彼は興奮してとにかく『どうしても収まりがつかない』という言葉を繰り返していました」

そして8日後の12月16日、新日本の大阪府立体育会館大会で会場入りする小林を襲撃する。小林は負傷して当日の試合を欠場せざるを得ず、仕返しは成功した。ただ、ここに齋藤は加わっていなかった。

「最初はドアを閉めた、閉めないというささいな出来事だったのに、事が大きくなってしまって。ただ、彼(小林から制裁を受けた道場生)は会社員をやっていて、それ以上は踏み込めなくなってしまったんです。自分はその時、W★INGを離れていてフリーだったので、『だったら彼の代わりに自分が出ていこう』と決めました」

ただ、無名だった齋藤がトップレスラーの小林と対戦することは、新日本側にはなんのメリットもなかった。斎藤のもとに、新日本のフロントから電話がかかってきたという。

「その時、『6万人の前で挑戦状を読むぐらいの根性があるなら、挑戦を受けてやってもいいぞ』と言われました」

新日本が指定したのは1992年1月4日の東京ドーム大会での挑戦表明だった。齋藤は「わかりました」と即答。迎えた大会当日、6万人の大観衆が埋め尽くした東京ドームのリングに上がり、自らしたためた挑戦状を読み上げて小林戦が電撃的に決定した。リングに上がった時には、新日本ファンからのすさまじいブーイングを浴びた。

「ブーイングを浴びながらドームのリングに上がったんですが、その時は同級生の敵討ちの思いと怒りに満ちていたので、『6万人全員が俺の敵だ』と感じました。あのブーイングで『この試合は冷静にやったら戦えない』と覚悟しました」

【激闘の後に長州からかけられた言葉】無名の齋藤と小林が対戦することに、新日本の内部では多くのレスラーが猛反対したという。そこでこの試合は「番外マッチ」という扱いになり、すべての試合が終了した後に行なわれることになった。入場のテーマソングもなく、プロレスではなく「プロレスvs空手」の異種格闘技戦となったが、実際は「果し合い」「道場破り」という色が濃かった。

「殴りこみのつもりで行きました。新日本からは事前に『とりあえずレフェリーだけはつけるから』としか言われませんでしたね。会場に入ってからは、ずっと興奮状態でした。入場からリングに入った時は"一線を越えて"いました」

ゴングが鳴ると無我夢中でパンチと蹴りを叩き込んだ。

「プロレスをやるつもりはなかったです。小林さんもそうだと思ったので、『このままいってやれ』と思ってとにかく技を出し続けました」

全力の打撃を小林に入れ、流血に追い込んだ。それを受け続ける小林に、本物のプロレスラーの姿を見た。

「小林さんの頭突きも、張り手もすごかったです。あと、自分が倒れた時には頭を踏まれました。空手にはルールがありますが、この時は、昔に自分が街でやっていたようなケンカをリング上でやられました。とんでもないパワーでしたね」

倒れない小林に恐怖を覚え、さらに強烈な蹴りを叩き込んだ。そしておびただしい流血にレフェリーが試合を止めた。齋藤が勝ったのだ。

「勝ちましたが、あの試合は自分がちゃんと呼吸をしていたかも記憶にないんです。プロレスでも格闘技でも、打撃を連打するとどこかで"間"ができますが、あの試合ではそれがありませんでした」

この試合で、「齋藤彰俊」の名前は一気に広まり、新日本もその存在を認めた。試合からしばらく経った後、マッチメイクを担当していた長州力からこう言われたのだ。

「普通のレスラーが10年かかるところを、お前は1試合でやった」

この言葉に、齋藤は今も恐縮するが「そこまでおっしゃっていただけたのは、対戦相手が小林さんだったからです。小林さんの強さに無我夢中でぶつかったからこそ、あの試合になったんだと思っています」

小林とは再戦で敗れたが、「反選手会同盟」から「平成維震軍」で行動を共にし、「すごく優しくて思いやりのある方でした」と感謝する。

今年9月9日、小林は膵臓がんで68年間の生涯を閉じた。都内の斎場で営まれた葬儀。祭壇には、数々の激闘のパネルが飾られたが、ひときわ大きい一枚が齋藤との一戦だった。そして、小林の娘から依頼され齋藤は告別式での弔辞を読み上げた。齋藤にとってはもちろん、小林にとっても齋藤はレスラー人生を語る上で忘れられない相手だったのだ。

「弔辞でも『もう一度お会いできると思います。その時にお話しさせていただきたいとと思います』とお伝えしたんですが、いつか向こうの世界で小林さんとお会いした時にゆっくり自分の思いをお伝えしたいと思っています」

(2試合目:三沢光晴が自分の技を受けた後に急逝 2カ月後に受け取った手紙に誓った決意>>)

【プロフィール】

■齋藤彰俊(さいとう・あきとし)

1965年、宮城県仙台市生まれ。W★ING、平成維震軍を経て2000年よりノアに参戦。2002年9・23日本武道館でGHCタッグを獲得。2006年にノア所属となるが2012年から再びフリーとなり継続参戦。2014年6・13後楽園での試合後、再入団の誘いを受けて約2年半ぶりにノア所属となり、2018年7・28後楽園ではGHCタッグへ挑戦して約6年ぶりの同王座戴冠を果たした。2019年に井上雅央と「反選手会同盟」を結成。今年1月、潮崎豪が結成した「TEAMNOAH」に加入。同7月13日に日本武道館で行なわれた潮崎戦の終了後、引退することを表明した。

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