【平成の名力士列伝:貴乃花】「史上最強」の呼び声も高い大横綱 「父の分け身」として鬼気迫る相撲道を歩んだ

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【平成の名力士列伝:貴乃花】「史上最強」の呼び声も高い大横綱 「父の分け身」として鬼気迫る相撲道を歩んだ

11月16日(土) 7:15

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鬼気迫る姿勢で相撲道に向き合った貴乃花photo by Jiji Press

鬼気迫る姿勢で相撲道に向き合った貴乃花photo by Jiji Press





連載・平成の名力士列伝20:貴乃花

平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。

そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、常人の想像を絶する相撲道を地でいき、横綱としても「史上最強」の呼び声も高かった、貴乃花を紹介する。

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【猛稽古のなかで生まれた壮絶なエピソード】優勝回数は歴代1位となる白鵬の45回の半分にも及ばない同6位の22回ながら、「平成の大横綱」と言われた貴乃花を史上最強横綱に推す声が、好角家や関係者の間から、いまだ少なからず聞こえてくる。その強さの礎は、今や伝説となっている藤島部屋(当時)の猛稽古にあったことは言うまでもない。

新弟子時代は早朝4時前には稽古場に降り、四股、鉄砲、すり足といった相撲の基本動作をたっぷりと約1時間かけて入念に行なう。普通ならこの時点ですでに下半身がフラフラになるほどだが、そこから50番以上、多い時で100番以上の稽古に打ち込む。すでに精も根も尽き果て、まともに呼吸もできないほどだが、そんな時は上がり座敷から「まだ苦しくないぞ。ここからが本当の稽古なんだよ」と師匠(元大関・貴ノ花)の檄が飛ぶ。

やがて意識が朦朧(もうろう)とし、体力も限界を超えると不思議と「苦しい」「疲れた」という感覚が消え、頭が真っ白な状態のまま、体だけが勝手に動くようになる。いわゆる"ゾーン"に入った状態になると、人間の一挙手一投足は無駄のない素直な動きとなる−−−−。

のちに貴乃花は「相撲に必要な形は、自分で意識して身につけたのではなく、自然と体に染みついていった」と語っているが、もはや常人の想像を超えた壮絶さを物語るエピソードだ。

のちに大横綱と称される10代の青年力士には、そこまで駆り立てる強烈なモチベーションがあった。父で国民的人気を誇った大関・貴ノ花が、昭和56(1981)年1月場所中に引退。直後にテレビ放映された「さよなら大関・貴ノ花」という特別番組を見終わった息子、当時小学校2年生の花田光司少年は大泣きに泣いた。

土俵上では体重110キロそこそこの細い体ながら、自身よりはるかに大きな相手にも堂々の真っ向勝負を挑み、大関を史上最長(当時)の50場所を務めた。大関昇進当初から体はボロボロの状態で、自宅にはいくつもの医療器具が置いてあった。特に慢性的な痛みに苦しんだ首を器具で伸ばして痛みを和らげる姿を見て、大関という地位の過酷さ、一家の大黒柱としての労苦が子ども心にしっかりと刻まれた。しかし、そこまで身を削っても最高位には届かなかった。

「とうとう横綱に上がれずに辞めてしまったんだ」

子どもながらに悔しさ、悲しみを感じた光司少年は「自分が相撲界に入って、父が果たせなかった夢を実現させるんだ」と強く誓った。のちに「自分の人生は大関で土俵人生を終えた父親の分け身だと思っている」と語っている。

ただ強くなりたい一心で稽古場だけの稽古では飽き足らず、仕事や雑用以外のわずかな自由時間も徹底的に体を鍛えたが、それを気に入らない兄弟子たちから嫌がらせを受けることも当時はあった。そんな時はトイレにダンベルを持ち込んだ。少々窮屈ではあったが、誰にも邪魔されずに集中することができた。

120キロあった体重が90キロまで落ちたこともあったが、厳しい環境に慣れるにしたがって体つきも大きくなっていき、平成元(1989)年11月場所、17歳2カ月という史上最年少で関取に昇進した。

【"最期"まで貫いた鬼気迫る横綱道】 2001年1月場所で武蔵丸を破り、14場所ぶり21回目の優勝も多くの人の記憶に刻み込まれているphoto by Jiji Press

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もっとも、15日間という長丁場の戦いは思った以上に過酷だった。十両2場所目には座骨神経痛に悩まされ、土俵上でかがんで塩を取ろうとするだけで腰に激痛が走った。休場も頭をよぎったが、懇意にしている人から「腰が痛いのなら、腰がないものと思って稽古をしなさい」と助言され、危機を乗りきり十両は3場所で通過。17歳8カ月というこれまた史上最年少入幕を果たしたが、試練はまだ続いた。

場所前の稽古で右足親指を負傷。指の付け根がパックリと裂け「骨が見えた」という。新入幕場所初日は患部をギプスで固定して出場したが、師匠から「そんなものをはめて出るくらいなら休場しろ」と一喝され、翌日からテーピングだけで土俵に上がった。激痛が走ったが、師匠は相撲を取るうえで最も重要な足の親指をギプスで固定すれば、土俵の砂を「噛む」感覚に支障をきたしかねないと敢えて厳しく接したのだった。

幕内デビュー場所は4勝11敗の大敗に沈み、1場所で十両へ。平成2(1990)年11月場所で再入幕を果たし、前頭13枚目で迎えた平成3(1991)年3月場所は初日から11連勝。快進撃はここから始まり、数々の年少記録を打ち立て、番付を駆け上がっていった。

綱取りは不当な見送りもあり、横綱昇進は史上4位の若さとなる22歳3カ月。

「親父が果たせなかった夢を実現することができた」

父子で掴んだ綱に達成感でいっぱいになったが、同時に「横綱としてやれても6年だろう。28歳で引退だな」と限界も悟っていた。ライバルの曙や武蔵丸ら、200キロを超えるハワイ勢の巨漢と毎場所やり合わなくてはならない。体に受ける衝撃や負担を考えれば、おぼろげながら"最期"も見えていた。

平成8(1996)年3月場所から4連覇。双葉山の再来とまで言われたこの時期が貴乃花の全盛期だったが、連覇を全勝で締めくくった翌場所の11月場所は急性細菌性胃腸炎により、入門以来初の休場となる全休。場所前の秋巡業は腰を痛めて途中離脱するなど、入門以来、がむしゃらに走り続けてきて体は、悲鳴をあげていた。

平成9(1997)年は3度の優勝を果たすが、翌年以降は休場が目立つようになった。平成10(1998)年9月場所で20回目の賜杯を抱いたあたりから「土俵に上がるのが怖くなった」と言う。その後は右肩甲骨骨折、左手薬指脱臼、左上腕二頭筋損傷とケガが重なり、2年以上も優勝から遠ざかった。その間に年齢は28歳になっていた。

平成13(2001)年5月場所、場所中に負った右ヒザの重傷に耐えながら、22度目の優勝を成し遂げると翌場所から7場所連続全休。長期休場明けの平成14(2002)年9月場所は武蔵丸との楽日相星決戦に敗れたが、進退問題を吹き飛ばす12勝をマーク。完全復活を印象づけたが、貴乃花自身の感覚は違っていた。翌11月場所はまたも全休。年が明けた1月場所は左肩亜脱臼により、3日目から休場すると5日目から再出場。しっかり休めば体力は回復できたはずだが、気力がもう続かなかった。無謀にも見えた強行出場は「どこかで"死に場所"を探していた」という"旅路"の最終行程だった。

同場所8日目、新鋭の安美錦に力なく送り出されると"平成の大横綱"は、30歳で土俵を降りた。

【Profile】貴乃花光司(たかのはな・こうじ)/昭和47(1972)年8月12日生まれ、東京都中野区出身/本名:花田光司/しこ名履歴:貴花田→貴ノ花→貴乃花/所属:藤島部屋→二子山部屋/初土俵:昭和63(1988)年3月場所/引退場所:平成15 (2003)年1月場所/最高位:横綱(第65代)

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