福田秀平インタビュー(後編)
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「エースキラー」とも呼ばれた男がユニホームを脱いだ。ソフトバンクやロッテで活躍し、今シーズンはウエスタン・リーグの新球団・くふうハヤテベンチャーズ静岡(以下、くふうハヤテ)でプレーした福田秀平は、今シーズン限りで現役を引退した。
ソフトバンク時代はスーパーサブとして活躍して、参考記録ながら日本新(当時)となる32回連続盗塁に成功。現在はMLBのロサンゼルス・ドジャースで活躍する大谷翔平、山本由伸の双方から複数本塁打をマークしたのは、柳田悠岐とこの福田だけで、冒頭の異名を冠することにもなった。
ロッテへの移籍以降はケガとの戦いが続き、文字どおりボロボロになるまで野球を続けた福田は、静岡でどんな最後の1年を過ごしたのだろうか。
今シーズン限りで現役引退を表明した福田秀平 photo by Sugita Jun
【くふうハヤテを選んだ理由】福田は2023年のトライアウトを経てくふうハヤテに入団した。トライアウト後は独立リーグ、社会人などから多数のオファーを受け、そのなかにくふうハヤテの名もあった。
「正直、最初はよくわかんないチームだったんで......いろいろリサーチするなかで、66年ぶりにプロ野球に参入して、その1年目に関われるって普通のことじゃないよなって思って。先輩の松田宣浩さんは社会人をすごく推して下さって、一緒に野球をやりたいと思う社会人のチームもあってすごく迷ったんですけど、ゼロから立ち上げるってなかなか経験できることではないと、最後は静岡を選びました」
「挑戦」をコンセプトとするくふうハヤテに入団して、福田にももちろん挑戦する目標があった。それはNPB復帰だ。その一歩目として、福田はNPB時代に定位置としていた外野ではなく、ファーストを本職とするようになる。
「最初は外野もやる予定だったんですけど、どの球団も外野手は飽和していますし、一番の目標をNPB復帰にしたら外野はもう無理だと。でもファーストで、たとえば外国人選手の代走として出場し、そのまま守備固めに入れる選手っていないよねって。ファーストの守備に不安はなかったし、僕の原点は足と守備なので」
すべてはNPBに返り咲くため。自身の立場や年齢、NPBのニーズを考えた時、唯一開かれている道がファーストだったのだ。
1月にキャンプインすると、福田は新たな志を胸にほかの若い選手や元NPB戦士らとともに汗を流し始めた。幸い、ロッテ時代に痛めた肩の状態も当初は良好だった。
「静岡って(冬でも)めちゃくちゃ暖かいんですよ。暑いぐらい。プレーするのに全然問題なかったです」
福田はロッテ時代「ほとんどキャンプに参加できていない」という。ケガの連続で、リハビリに費やす時間が多かったからだ。それだけに、くふうハヤテで初日からキャンプを行なえる喜びが大きかった。だが、それが再び悲劇を呼ぶことにもなってしまう。肩の痛みが再発したのだ。
「暖かくて、肩の状態も最初はよかったので、毎日頑張っていたんですよ。それが肩にけっこうきちゃいました(苦笑)。張り切りすぎちゃいましたね」
【ロッテ時代に逆戻り】リーグ戦が開幕した頃には、再び肩の痛みとの戦いが始まっていた。当初は痛み止めの注射を使っていたが、徐々にそれも限界を迎えてくる。検査を受けると右肩の骨の変形が進んでいたうえに、やがて抗炎症剤の注射も打てなくなってしまう。
それでも試合に出ないという選択肢は、福田にはなかった。
「痛みをとるには練習を抑えないといけない。目標はNPBに戻ることだから、『試合に出られません』だと意味がないじゃないですか。試合に出ることが最優先になる。コンディションを重視すると、練習はできない......」
そんな状態を福田は「ロッテ時代に逆戻り」と表現した。ロッテ時代も、バッティング練習をせずに試合に出るということがあった。練習量が減ればそれだけパフォーマンスにもメンタルにも影響が出てくる。
さらに、くふうハヤテでの立場もある。福田はベテランであり、NPB経験者だ。若手の手本になろうという思いもあったが、「若い子に自分が練習している姿を見せることもできないし、そういう葛藤もありました」と、当時の苦しい胸の内を吐露した。
バッティングフォームも変わった。「普通、肩って触れるじゃないですか」と言いながら、福田は右手を自らの左肩に伸ばす。だが、その手は左胸の前で止まった。
「触れないんですよ。ここまでしかいかないんです。スイングのほうがきつかったんですよ」
テークバックがほとんどないフォームは、可動域が狭くなった肩でスイングをするために生まれたものだった。
無理をしてリーグ戦に出場し続けたが、コンディションは上がらず、打率は1割台をさまよった。NPB復帰を目指して静岡まで来た福田だったが、5月頃には限界を悟った。
「絶対にオファーなんか来ないんですけど、声がかかったとしても戦力になれないっていうのはすごく実感しました」
NPBの支配下登録期限である7月31日までにオファーは届かず、翌8月1日に現役引退を表明した。この日以降、福田は6試合しか出場していない。ドラフトに向けてアピールを続ける若手に出番を譲るためだった。
例外は、涌井秀章が先発した9月8日の中日戦、古巣・ソフトバンクのタマスタ筑後での最終カードとなる9月20〜22日、そして静岡での最終カードとなった9月27、28日だ。
涌井とはプライベートを含め親しかったため、赤堀元之監督やトレーナーが気を利かせて起用したものだった。ただ、いずれの試合も1、2打席しか立っていない。これは先述したように若手に出番を譲るという目的もあったが、2打席が肉体的に限界だったからだ。
「球団からは4打席立ってほしいと言われたんですけど、『立てて2打席ですね』って話をして。1打席でもよかったんですけど、それだと初回で終わっちゃうじゃないですか。応援してくれているファンや家族、身内も来るので2打席くらいは見せてあげたいなって思って、2打席で落ち着いたってところですね」
満身創痍の福田だったが、最後は福岡のファンにも、静岡のファンにもユニホームを着て自らの声であいさつすることができた。
【伝統がないから意見がぶつかる】最後に、福田の目にはくふうハヤテがどんなチームに映ったかを聞いてみた。
「最初は手探りの状態でしたよね。チームの伝統がないなかで、監督や首脳陣も含めていろんな野球観をもった人が集まってくるから、意見がぶつかり合うんですよね。ベンチの前で声を出すとか、ミーティングで人が話している時にはサングラスを外すとか、自分にとっては当たり前のことでも、『何で声を出すんですか?』って人もいましたし」
新たにできたチームであるがゆえ、伝統や決まりごとはない。それは通常、時間とともにできあがっていくものだが、くふうハヤテの場合は「NPBに選手を送る」ことが目標だ。選手が入れ替わること自体を目標にしているため、伝統というものは根付きづらい。
「僕にとっての当たり前が当たり前じゃないってことに気づかされたのが、ハヤテでの1年でした。面白いですよね。野球だけでもいろんな人がいるんだなって」
一方で、くふうハヤテは「伸びしろしかない」チームでもある。
「課題も現実としてはありますけど、今年1年やってきた人たちは環境面も含めて必ずいい方向でやってくれると思います。そこは僕もハヤテに関わったメンバーとして応援していきたいですし、残ったメンバーたちも納得のいく決断をしてほしいですね」
くふうハヤテからは今年、西濱勇星がヤクルト育成に入り、早川太貴が阪神から育成ドラフトで指名された。福田の目から見てもピッチャー陣は意識が高く、ふたりともくふうハヤテで大きく成長したと思っている。
早川に対しては、ランナーの目線で福田からアドバイスを送ることもあった。この1年で福田がくふうハヤテに残していったものは決して少なくない。
つい1年前、トライアウト終了後、福田はロッテでケガに苦しんだ4年間を「虚しい」と表現していた。だが今の心境を尋ねると、こんな言葉が返ってきた。
「完全燃焼って感じですね。本当に野球ができない状態でやめるので。後輩には『健康な状態で終われよ』って言っています(笑)」
ケガとの戦いは最後まで続き、思いどおりにいかないことは多かった。それでもくふうハヤテで1年を過ごしたことで、福田の「虚しさ」は「完全燃焼」へと昇華された。福田の表情は、穏やかだった。
福田秀平(ふくだ・しゅうへい)
/1989年2月10日生まれ、神奈川県出身。多摩大聖ヶ丘高から、2006年の高校生ドラフトでソフトバンクから1位指名を受け入団。内外野守れるユーティリティープレーヤーとして活躍し、15年には32回連続盗塁成功の日本記録(当時)を樹立。19年オフ、FAでロッテに移籍。23年に戦力外通告を受け、24年はウエスタンリーグに新規参入した新球団「くふうハヤテベンチャーズ静岡」でプレー。58試合に出場するも、ケガに苦しみシーズン限りでの現役引退を表明した。
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