連載第23回
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
サッカー日本代表が11月15日にアウェーで対戦するインドネシア。W杯予選での対戦は少ないですが、90年前の初対戦からさまざまな因縁のある相手だと言います。
サッカー日本代表は今年1月のアジアカップでもインドネシアと対戦photo by AFLO
【日本のほうが上と考えるべき】
11月はインドネシア、中国とアウェーでの連戦となるサッカー日本代表。最終予選に入ってからずっと負傷でチームを離れている冨安健洋、伊藤洋輝に加えて、このところFWに定着していた上田綺世も負傷のために招集外。さらに、谷口彰悟も戦列を離れることになった。
とくに上田の離脱は影響が大きい。FWにどのようなタイプの選手が入るかによって、チーム全体の戦い方が変ってくるからだ。
ただ、サッカーではケガは防ぎようがない。上田の代わりには同じオランダリーグで活躍する小川航基か、約1年ぶりの代表復帰となった古橋亨梧などが代役となるのだろうが、ここはむしろ日本代表の攻撃の幅を広げるためのチャンスと考えるべきだ。
なにしろ、これまでの試合を見てもわかるように、アジアでは日本代表の戦力は対戦相手を圧倒的に上回っているのだ。それなら、新しい戦い方にチャレンジする余裕もあるはず。
もっとも、試合が近づくと「インドネシアは侮れない」という「警戒論」が声高に唱えられるようになるのだろう。どうも、日本のサッカーメディアには「とにかく『警戒論』さえ唱えておけばいい」という誤った考えが横行しているようだからだ。
インドネシアはFIFAランキングで130位と明らかに格下。「侮れない」とか「勝点を落とす危険がある」というのは、読者をミスリーディングするフェイクニュースだ。「実力差は大きい。日本完勝の可能性が濃厚」という事実を伝えるべきだろう。
「インドネシア警戒論」の根拠は、オランダ出身の選手が多い点に尽きる。招集された選手の半数以上がオランダ出身だ。だが、日本代表選手の多くはオランダリーグより格上の5大リーグに所属しているのだ。オランダ出身というだけで恐れる必要はまったくない。
また、インドネシア代表のオランダ出身選手は次々と追加招集されているようだが、逆に言えばメンバーが固定できていないことでもある。チームの完成度という意味でも、日本のほうが圧倒的に上と考えるべきだろう。
【西が丘で行なわれたW杯予選のインドネシア戦】
さて、W杯予選でインドネシアと対戦するのは久しぶりだ。
オールドファンが真っ先に思い出すのは、1989年6月11日のイタリアW杯1次予選での対戦だろう。会場は、東京の西が丘サッカー場だった。
西が丘(現、味の素フィールド西が丘)と言えば、1972年に完成した東京で初めての本格的な球技専用スタジアムだが、収容力はわずか7000人ほど。数年前までは関東大学サッカーリーグの本拠地だったが、最近はWEリーグの日テレ・東京ヴェルディベレーザのホームスタジアムとして使われている。
それにしても、W杯予選がいったいなんで収容力の少ない西が丘で行なわれたのか?当時の代表人気はそんなものだったのだ。Jリーグ開幕のたった4年前だったのだが......。
1968年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得した日本代表だったが、エースの釜本邦茂などメキシコ五輪当時の選手が抜けていくと、後継者の育成ができていなかったため弱体化が進んだ。
その結果、五輪でもW杯でもアジア予選を勝ち抜くことができず、韓国には完敗続き。東南アジアのチームとも勝ったり負けたりという状態だったので、当然、代表人気、ひいてはサッカー人気は冷えこんでいく。
1985年に行なわれたメキシコW杯予選では北朝鮮や香港を破って最終予選に駒を進め、国立競技場をほぼ満員にしたが、韓国に連敗してW杯初出場は夢に終わった。
そんな状態だったから、「インドネシアが相手では観客は集まらない」と日本サッカー協会が思ったのか、試合は小さな西が丘で行なわれることになったのだ。
実際、5月に行なわれたアウェー戦で、日本代表は香港、インドネシア相手に2試合ともスコアレスドローに終わっていた。
迎えた試合当日、雨が降り続けて西が丘のピッチは泥沼と化していた。当時、日本のサッカー場はまだ芝生の育成がよくなく、この時は芝生がはげてしまっていたのだ。
ぬかるみのなかの試合で、日本はなんとか5対0で勝利したが、インドネシアのモハメド・バスリ監督は「こんなグラウンドで試合をしたことがない」と酷評される始末。結局、北朝鮮、インドネシア、香港と戦った1次予選で、日本は2勝3分1敗という成績であっけなく敗退してしまった(イタリアW杯には韓国とUAEが出場)。
試合には勝利したものの、西が丘の泥沼のようなピッチで行なわれたインドネシア戦は日本サッカーの長い低迷期のなかでも、最悪の"黒歴史"のひとつだ(そのせいか、その試合を記憶している人は多くないようだ)。
【1938年W杯に出場しているインドネシア】
インドネシアにオランダ生まれ、オランダ育ちの選手が多いのは、インドネシアがかつてオランダの植民地だったので、オランダに多くのインドネシア系住民が住んでいるからだ。オランダの総人口は1700万人ほどだが、一説によるとインドネシア系は37万人にのぼるという。
東南アジアの島嶼部やマレー半島には多くの民族が共存しており、かつては小さな国に分かれていた。ところが、17世紀に香辛料を求めて欧州列強が進出。最大勢力だった英国とオランダの東インド会社(貿易会社だが、外交権や軍事力も持つ)が、地元の人たちの意向は無視して一方的に境界線を引いてしまった。
こうして英国支配下に入った地域が現在のマレーシアとなり、オランダ領が現在のインドネシアとなった。
そのため、現在のインドネシアは第2次世界大戦前には「オランダ領東インド」(蘭印)と呼ばれており、1938年のフランスW杯にも出場している(1回戦でハンガリーに0対6と大敗)。
この、フランスW杯予選には実は日本も参加を申し込んでいた。アジアからエントリーしたのは日本と「蘭印」だけだったから、予選で「蘭印」に勝ちさえすれば日本は1998年ではなく、その60年前に行なわれたフランスW杯に出場できたはずだったのだ。
1934年に行なわれた極東選手権大会(日本、フィリピン、中国が参加する総合競技大会。「蘭印」は1934年大会に初参加)で、日本は「蘭印」と初めて対戦して1対7で大敗を喫してしまった。
監督の竹腰重丸が大日本体育協会の仕事のために指導できなかったので準備不足だったうえ、開催地マニラの暑さで多くの選手がコンディションを崩してしまっていた。また、「蘭印」ではオランダ系の選手がプレーしており、彼らのフィジカルに対応できなかったようだ。
だが、同大会で「蘭印」は中国、フィリピンには敗れており、それほど強いわけではなかったようだ。
日本は、1936年のベルリン五輪では強豪スウェーデンに逆転勝ちして世界を驚かせていた。そして、1940年には東京での五輪開催が決まっていたため、国家予算を使って強化が続けられるはずだった。実際、当時、日本の同盟国だったドイツやイタリアとの親善試合の計画もあった。
そんな日本が予選で「蘭印」を破って1938年のW杯に出場して経験を積むことができていたら、日本代表の強化は大幅に進んでいたはず。1940年の東京五輪で上位進出を果たすことも不可能ではなかっただろう。
だが、1937年に中国・北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で日中両軍が衝突する事件が起こって、両国は全面戦争に突入。大日本蹴球協会はW杯予選出場を取りやめざるを得なくなってしまった。そして翌年、日本政府も東京五輪開催返上を決定。日本代表の強化もストップしてしまう。
【さまざまな因縁のある相手】
W杯予選での対戦経験は少ないが、インドネシアは実はさまざまな因縁のある相手なのである。
ところで、1989年当時は日本代表が弱かったので観客が集まらないと思われ、インドネシア戦は小さな西が丘で行なわれた。それから35年が経過して、2026年W杯最終予選では日本が圧倒的な強さで独走状態にある。2025年6月10日にはインドネシアとの最終戦が予定されているが、これは当然「消化試合」となっているはず......。
「観客は集まるのだろうか」と心配になってしまう。今度は、日本が強すぎるのが原因だ。
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