ベテランプレーヤーの矜持
~彼らが「現役」にこだわるワケ
第8回:米倉恒貴(ジェフユナイテッド千葉)/後編
photo by J.LEAGUE/J.LEAGUE via Getty Images
ジェフユナイテッド千葉でのプロキャリアをスタートした米倉恒貴がレギュラーの座をつかみ取ったのは、プロ5年目の2011年だ。2009年にクラブ史上初のJ2降格が決まり、カテゴリーをひとつ落とした戦いも2年目に突入したなかで、米倉は自身初の開幕スタメンの座をものに。そのギラヴァンツ北九州戦でゴールを決めたのを皮切りに、サイドハーフやトップ下などで35試合に出場し7得点と存在感を示す。
さらに、大きな転機になったのは、2012年の左足腓骨骨折を乗り越えて迎えた2013年だ。この年、再び開幕スタメンに返り咲いた米倉に、サイドバック転向の話が持ち上がる。そのチャレンジは新たな活路を見出すことにつながった。
「正直、プロ5年目をすぎた頃から、トップ下やサイドハーフでのプレーに難しさを感じ始めていたというか。同じポジションの他の選手に比べて、将来的に継続して活躍するにはもうひと伸びしないと生き残れないということは、自覚していました。ただ、それを認めたくなくて、とにかく結果だ、もっと活躍しないと上にはいけないという一心で頑張っていた自分もいたんですけど。
そんな時にサイドバックにケガ人が相次いだことを受けて、鈴木淳監督がやってみろ、と。正直、当時は今の時代と違って前の選手が後ろをやるのも流行っていなかったし、11番を背負っていたので嫌だったんですけど(笑)。
でも結果的に、自分の持ち味である走力やクロスボールといった得意な部分が引き出されたというか。当時のジェフにはパサーがたくさんいて、僕が走ればボールが出てくるという状況だったことにも助けられて、ひたすらそのボールを追いかけていたら最初の試合で2アシストでき、以降もアシストのところで数字がめちゃ出せた」
その活躍が目に留まり、シーズン終了後には多数のJ1クラブからオファーが届く。「生涯・千葉」を目標にしていた彼にとっては難しい決断になったが、自身の年齢を考えて、新たなチャレンジに踏みきった。
「ずっとジェフをJ1に昇格させたいと思ってやってきたけど、毎年のようにプレーオフには進めても、最後のところでなかなか結果が出せなくて。その頃には個人的な目標も、目線が上がって日本代表になることを描き始めていたなかで、25歳という年齢を考えてもそろそろ何かを決断しなくちゃいけないなと思ったのが一番の理由です。
そのなかでガンバを選んだのは、ジェフを出るなら遠くに行きたかったから。関東圏とかじゃなくて、地元から遠く離れた場所でサッカーをやることに意味があると思い、ガンバだと。
僕のように関東で育った人間にとっての関西は、当時、外国に行くようなものだと思っていたし(笑)、ヤットさん(遠藤保仁)、加地(亮)さん、ミョウさん(明神智和)、フタさん(二川孝広)、今ちゃん(今野泰幸/南葛SC)ら、日本のトップクラスの選手とプレーできることにも魅力を感じました。そのなかに身を置けば自分ももっと巧くなれるかもしれないな、と。あと、若い頃から知っている(倉田)秋がいたのも大きかった」
結果的に5年半を過ごした初めての関西、ガンバ大阪での日々は「まさに外国でした」と振り返る。クラブの雰囲気、チームの空気感、選手それぞれが醸し出すオーラも千葉時代とは大きく違い、当初は驚きの連続だったそうだ。
「2012年に(ガンバから)ジェフに戻ってきてくれた智さん(山口/現湘南ベルマーレ監督)にいろんな話を聞いていたし、あの人が漂わせていた雰囲気やオーラを見て、相当な心構えで飛び込んだつもりでしたけど、それでも、もう全然違って。しかも、開幕してすぐに練習でシュートブロックをしたら右膝が持っていかれて靭帯を損傷し、2カ月くらい離脱ですから。おまけにチームも全然勝てなくて、成績もJ2降格圏まで落ち込んじゃうし、シーズンの序盤はめちゃめちゃビビっていました。
でも、戦列に復帰したタイミングで加地さんが海外に移籍したこともあって、試合に出られるようになって、チームも(ワールドカップ開催による)中断期間明けから5連勝で勢いに乗って、勝ちを重ねられて。終わってみたら"三冠"ですからね。僕にとってはプロキャリアで初めてのタイトルだったし、もう何が何だかっていう感じでした(笑)。あれは、チームの強さというか......もちろんそれもあるんですけど、なんていうか、ガンバというクラブが醸し出す雰囲気とか、積み上げてきた自信とか、いろんなものがバチッと合わさって結果につながったような感覚がありました」
また2013年にポジション転向したばかりの米倉にとって、長谷川健太監督と出会い、サイドバックとしての攻撃、守備のセオリーを本格的に学べた経験は、新たな面白さ、楽しさを見出すことにもつながったと振り返る。藤春廣輝(FC琉球)やオ・ジェソク(大田ハナシチズン)らと切磋琢磨しながらポジションを争った経験も、自信になった。
「オンとオフの切り替えの鬼、みたいな人たちばかりのなかで、その空気みたいなものも自分にすごく合っていたし、勝ちを重ねながら成長していく自分も感じられて、すごく充実していました。その流れで2015年には日本代表に選出してもらったんですけど、正直、そのレベルに行くと『まだまだ代表のレベルには達していないな』と思ったのも正直なところで......。
でもそれを実感したからこそ、もっともっとやらないと、と思えたのはよかったと思っています。あと、本職ではない左サイドバックを任せられながら、ひとつでも爪痕を残してやると思ってピッチに立ったなかで、武藤雄樹(SC相模原)のゴールをアシストできたことも。僕、なんかそういうところ、変に持っているから」
事実、その日本代表デビュー戦での初アシストに代表されるように、米倉は逆境に立たされるほど爪痕を残してきた印象がある。ガンバ時代で言えば、2015年のAFCチャンピオンズリーグ準々決勝第2戦、全北現代モータース戦の後半アディショナルタイムに決めた劇的な決勝ゴールや、同年のチャンピオンシップ準決勝、浦和レッズ戦の延長後半に、右サイドからのクロスボールで藤春の決勝点をアシストしたのも印象深い。
「うん、持っていましたね。特に全北戦は途中出場だったなかで、なぜそこに、みたいなエリアで決めましたしね。それで言えば、試合に限らず、前年までほとんどJ1でプレーしたことのなかった僕がガンバに移籍して、ケガもあったけど試合に出られて、いきなり三冠を獲れたのも持っている以外の何物でもない(笑)。でも、その持っていることって、プロとしては大事な要素というか。
選手によっていろんな節目があって、みんな頑張っていることには違いないんですけど、単に頑張っているだけでは評価されないのがプロなので。生き残るためにはやっぱり目に見える結果も必要で、そのためには自分が持っている運みたいなものをわかりやすく活かさなければいけないときもある。
僕はプレースタイルもあって、ケガもたくさんしてきたし、先にも話したとおり、決して巧くて才能豊かな選手ではなかったけど、36歳になった今もこうしてキャリアを続けられているのは、そうした持っている運も味方にできてきたからかもしれない。そう自負しているから......ジェフに戻ってきたのもあります。自分ならジェフを昇格させられるって信じているから」
その言葉どおり、2019年夏に米倉が古巣に戻る決断をしたのは、プロキャリアで積み上げてきたすべての力を、千葉に注ぐためだ。当時、30歳。戦うステージを下げてでも「今の自分ならジェフの力になれる」と自信を持って下した決断は、"あのとき"への心残りを払拭するためのチャレンジでもあった。
「これだけキャリアを積み上げてきたら、いろんな思い出があるし、ガンバ時代の節目の結果を含めて、言われてみたら蘇るシーンはいくつもあります。優勝とか、日本代表とか、自分が目指してきたものを達成できた瞬間ももちろん全部、うれしかった。
でも、自分のなかに一番色濃く残っていて、何度も思い返してきたのは、2012年のJ1昇格プレーオフ決勝の大分トリニータ戦なんです。0-0で試合が進むなか、僕は86分にピッチを退いたんですけど、その数秒後に、大分に決勝ゴールを決められてしまった。
サッカー人生であんなにも泣いたのは初めてでした。あの時の悔しさ......なんて言葉では言い表わせない感情を知っているのは、今のジェフの選手では僕だけですけど、これまでジェフでプレーしたいろんな選手がここに戻って成し遂げようとして、できなかった昇格を、選手としてしっかりチームの力になりながら成し遂げたい。そう思っての、30歳でのジェフ復帰だったので。
結果的にここまでの5シーズンはそれを実現できていないけど、最初に話したとおり、今年は何がなんでもやり遂げたいし、このチームならやり遂げられると信じています。ケガもあってピッチに立てていない今は、自分が昇格させるというより、みんなに昇格させてもらうって感じになっちゃうけど」
もちろんそのためには、自身も残り少なくなったシーズンを、全力で戦いきる覚悟でいる。痛めている右足首のリハビリには日々、懸命に取り組んでいるものの、それが今年中の戦列復帰につながるのかはわからない。米倉がベテランの最たる仕事だと考えている「ピッチのプレーで示し、引っ張る」という役割も、この最終盤で叶うのかも不透明だ。
だが、それでもサッカーと向き合う姿に変わりはない。長いキャリアで貫いてきたモットーのもと、最後まで。
「僕のプレースタイルは、走るとか、いいクロスボールを入れるとか、ではなく、全力でやりきること。練習でも、試合でも、リハビリだったとしても、100%を注ぎきって、戦い抜くこと。
最年長の僕がその姿を示すことで『俺らもやるしかないよな』ってチームメイトに思わせるのが役割だし、チャンスが来たときにその姿を示すために今の時間があると思っています。歳のせいか、まぁ、治りが遅くて自分に腹が立つけど(笑)、それでも、練習に戻って、100%でプレーできる自分なら、絶対に試合でも力になれる自信はあるので。
残りのシーズンはとにかく、それを信じてやりきることで、このチームの一員であり続けたい。残念ながら僕にはJ1昇格の経験値がなくて、自分が今、最高だと思っているこの雰囲気が、昇格に見合うものかは正直、わかりません。でも、僕は自分が最高だと信じているこのジェフで、勝ちたいと思っています」
11月10日に戦う最終節を前にした千葉の順位は6位。自動昇格が可能な"2位以内"は実現できなかったが、J1昇格プレーオフ進出圏(3〜6位)は死守している状況にある。その最終節の相手は勝点2差で上をいくモンテディオ山形。千葉と同じ立場にあるチームだと考えれば、かつ、4位のファジアーノ岡山から7位のベガルタ仙台まで、J1昇格プレーオフ進出枠を僅差で競っている状況を踏まえても、難しい戦いになるのは必至だ。
だが、見方を変えれば、最後まで勝ち続けることさえできれば、J1昇格の切符は自分たちの手でつかみ取れる。
「みんなであと3つ。勝ちきります」
あの日、流した悔し涙を、うれし涙で塗り替えるために――。
千葉在籍、13シーズン目。チーム最年長プレーヤーは、そのための戦いを淡々と続けている。
(おわり)
米倉恒貴(よねくら・こうき)
1988年5月17日生まれ。千葉県出身。ジェフユナイテッド千葉所属。八千代高卒業後、2007年に千葉入り。当初は中盤でプレーし、5年目にレギュラーとして定着。2013年からサイドバックに転向。正確なクロスでチームの攻撃をけん引した。2014年にガンバ大阪へ完全移籍。三冠獲得に貢献し、2015年には日本代表にも選出された。そして2019年夏、古巣の千葉へ復帰。チームのJ1復帰のために力を尽くしている。
【関連記事】
ルフィ宇野昌磨、ビビ本田真凜、ナミ望結、ゾロ田中刑事...『ワンピース・オン・アイス』2024・フォトギャラリー
国立競技場が世界一のスタジアムである理由 神宮外苑地区の樹木伐採はその価値を貶める
高木豊がパ・リーグのドラフトを総括 清原正吾が指名漏れの理由も分析した
サッカー日本代表メンバー発表 やっと古橋亨梧を招集しても攻撃の理想形は見えてこない
國學院大・平林清澄「駅伝に勝って勝負に負けた」の真意 エースの背中が導く三冠への道