連載怪物・江川卓伝〜「江川キラー」として生きた豊田誠佑の野球人生(前編)
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「江川キラー」
豊田誠佑(せいすけ)が明治大時代につけられた異名であり、そこからずっとついている冠だ。
1978年に明治大からドラフト外で入団した豊田誠佑photo by Nikkan sports
【江川卓から8打数7安打】豊田は日大三高から明治大に進学し、2年秋から試合に出るようになった。その頃の東京六大学は、豊田の1つ上の江川卓率いる法政大が、1976年春のリーグ戦から4連覇を達成するなど黄金期を築いていた。そんな江川を中心とした「花の49年組」が活躍する法政大に唯一対抗できるのが明治大だった。
その76年春のリーグ戦、3年生になった江川は6勝1敗(6完投2完封)、防御率0.56の活躍で優勝に導く。つづく秋のリーグ戦でも8勝2敗(8完投3完封)、防御率0.74で連覇を達成。この時、江川は投手でありながら規定打席に達し、打率.342(2位)、本塁打2本(2位)、打点10(1位)と、あと少しで三冠王という"二刀流"の活躍を見せるなど、神宮でも怪物ぶりを発揮していた。
年度が変わり、3年生となった豊田は、春のリーグ戦から「2番・レフト」で常時スタメン出場するようになる。明治大は鹿取義隆(元巨人)と高橋三千丈(元中日)の二本柱が絶好調で、開幕から4カード連続勝ち点を挙げていた。
一方、法政大も江川が相変わらず完璧なピッチングを披露し、明治大と同様、4カード連続勝ち点を奪取。1977年5月21日からの法政大対明治大が、優勝決定戦となった。
豊田の名が知られるようになったのは、この時である。第1戦で江川から4打数4安打の猛打賞。1勝1敗で迎えた第3戦で再び対戦すると、4打数3安打。アウトコースはライトへ流し、インコースはレフトに引っ張る。ボールに逆らわない理想的な広角打法で、怪物・江川から2試合で8打数7安打。
豊田はこの3年春のリーグ戦で打率.444を残し、首位打者を獲得。一方、江川は8試合すべて完投して8勝、防御率0.50。超人的な活躍で、明治大を下し3連覇を達成。
ちなみに、大学時代の江川との通算対戦績は14打数8安打(打率.571)。ここからプロに入り、現役を引退するまで「江川キラー」の異名をとった。
「江川さんの1つ下だけど、高校の時は一度も対戦していないんですよ。もちろん江川さんのことは知っていました。すごいピッチャーだと。大学3年になって完全にレギュラーポジションを奪い、春のシーズンで首位打者を獲った時は、江川さんから8打数7安打。たまたま打っただけだけど、そこから"江川キラー"と呼ばれるようになったんだよね。それがきっかけで、36年もの長い間プロの世界に身を置くことができたわけですから......感謝しています、江川さんに」
【ドラフト外で中日に入団】大学卒業後、豊田はドラフト外で中日に入団。そこから現役10年、コーチ10年、スカウト10年、寮長6年の計36年、一度も離れずに中日ドラゴンズ一筋。超一流選手であっても、36年間ずっと同じ球団に在籍するのはそうあることではない。それだけでも豊田という人物が現場、フロントにいかに必要な人材だったかがわかる。
「入団した時に、明治の先輩である一枝(修平)さんが二軍守備コーチで寮に住んでいました。それで毎日バッティング練習につき合ってくれて、いろいろ教わりました。(高木)守道さんが80年に引退され、当初は大島(康徳)さんがサードをやっていたんですけど、あまりの下手くそ加減に近藤(貞雄)監督が『おまえ、レフトに行け。豊田にサードをやらせるから』と。それでコーチに就任した守道さんにキャンプ中、内野ノックばかりやらされました。最初は『セカンドでやれ』って言われて、田野倉(利男)とセカンド争いをさせてくれました」
1年目(79年)はファームでみっちり鍛えられ、2年目から頭角を現し103試合に出場。3年目にはサード、ライトで114試合に出場し、規定打席には届かなかったものの打率.292の成績を残す。翌年からレギュラーとして飛躍するはずだった。
「82年のオープン戦でケガしちゃったんだな。鴨池球場でのロッテとのオープン戦で三宅宗源から左手首にデッドボールを食らってしまった。それで終わり。でも、このケガがなかったら天狗になっていて、こんなに素直じゃなかったかもしれないね(笑)。だから、36年もドラゴンズに置いてもらえたんだと思う」
レギュラーを獲るかと思われたが、ケガにより控えに回った。実力だけでなく、運とタイミングが計られるのがプロ野球の世界である。
【代打として生きることを覚悟】それでも豊田は、勝負強いバッティングでチームに貢献。勢いに乗ると手がつけられず、自ら「お調子者」と言うくらい、意気に感じてプレーするタイプであり、プライベートでも分け隔てなくやさしく接し、誰からも愛されるキャラクターだった。
「(平野)謙さんがレギュラーを獲り、チームもリーグ優勝。もうレギュラー奪取は無理だなと思った。デッドボールで手首を痛めたからといって休めないし、それをかばっているうちに肩も痛めてしまって......」
いつも元気な豊田が、少しだけセンチな気持ちを見せた。
レギュラー奪取はあきらめたが、野球人生は続く。豊田はなんとか気持ちを切り替えて、代打として生きる覚悟を決めた。
「代打は30歳を過ぎないとダメだね。若いうちは割り切りがうまくできず、なんでも打とうとしてしまう。それでは結果が出ません。『ここは三振でもいいから、真っすぐ以外は手を出さない』とか、代打はそれくらいの割り切りが必要になる。若い子は結果を出すことしか考えないから、代打は厳しいよね。僕も最初はそうだった。
いつ呼ばれるかわからないから、とにかく準備だけはしておく。代えられそうなヤツの内容を見て、『こりゃ全然合ってないから、あるかもしれない』とバットを振る。そうするとコーチから『いくぞ』って言われます。ただ江川さんが先発の時は、よくスタメンで使われました。だって、"江川キラー"だからね(笑)」
豊田はプロで生き抜く道を見つけ、"江川キラー"の冠を堂々と掲げ、怪物と対峙してくのだった。
(文中敬称略)
後編につづく>>
江川卓(えがわ・すぐる)
/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している
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