11月6日(水) 12:00
Text:松田義人(deco)
1980年代後半、日本の若者の間で空前のバンドブームが巻き起こりました。ブームに連鎖するように多くのバンドが誕生しましたが、その多くはブーム終焉と併せて姿を消していきました。一方、この時代に結成され、以降35年間一度も活動を止めずにライブを行い作品をリリースし続けるガールズパンクバンドがロリータ18号です。一時はメジャーレーベルと契約し、お茶の間を賑わせる人気を誇り、またラモーンズのジョーイ・ラモーン、トイ・ドールズのオルガといった世界に名だたるパンクロックの大御所のプロデュースを受けたことでも知られる彼女たちですが、来たる11月24日には結成35周年を記念した日比谷野外音楽堂でのライブを間近に控えています。ここでは、結成時からのオリジナルメンバーでボーカルの石坂マサヨと、バンドにとって欠かすことができない名脇役でベースのたこちに話を聞き、35年に及ぶ変遷を辿ります。
ケンヂとクラッシュ(ギャルズ)で人生が変わった――筆者はロリータ18号の1989年の結成前後から存在を知っています。当時からすでにバンドのスタイルが確立されていたように記憶していますが、当時マサヨさんは16歳くらいでしたでしょう。その若さでバンドを始めることにした経緯は一体なんだったのでしょうか。
石坂マサヨ(以下、マサヨ)私は子供の頃からコマーシャルとか音楽が好きで。小学2年生くらいから本屋さんに行って『宝島』とか『広告批評』みたいな、今思えばカルチャーっぽい雑誌を立ち読みするような子供だったんです。親はそういうクリエイティブな仕事をしているわけでもないし、誰かに教え込まれたわけでもなく自発的にそういう雑誌を「面白そうだ」と見るような子供だったんです(笑)。そんな中で、戸川純さん、忌野清志郎さんが好きになり、後に本屋から「友&愛」っていうレンタルレコード屋さんに行く場所を移し、そこで『宝島』に出てくるようなインディーズのバンドのレコードとかも聴くようになりました。やがて中学生くらいになると、ケンヂ&ザ・トリップスの存在を知り「これは超絶ヤバいぞ」と一目惚れして。ケンヂさんの鋭角な感じというか、つり目で頭ツンツンしていて、ボーカルも曲も全部カッコ良くて。そのケンジさんからパンクロックを知り、そこからセックス・ピストルズを聴いて、もうすべてが決定しました(笑)。
――何歳くらいのことですか?
マサヨ15歳くらい。ただ同時にクラッシュにもハマった時期で。パンクバンドのクラッシュではなくて、女子プロのクラッシュギャルズ。長与千種が好きで、親友で後に一緒にロリータ18号を始めるあいちゃんっていう子と一緒に「私がライオネス飛鳥で、あいちゃんは長与千種になろう」と言い、全女(全日本女子プロレス興業)のジムにも訪ねたこともありました。でも、その練習風景を見て、あまりに過酷で「これは死ぬな」と思って、人生初の挫折(笑)。その後、死ぬのはイヤだから女子プロは諦めて、あいちゃんと「ライブやりたいね」「ケンヂのコピーバンドがやりたい」となり、ロリータ18号の前身バンドを組んで新宿JAMで初めてライブをやりました。でも、このときは全部コピーだったし「これからずっとバンドを続ける」といった気持ちはまったくなく、まして35年間もバンドを続けるなんて思ってもみませんでした。
――それでも本格的にロリータ18号を始めることにした理由はなんだったのですか?
マサヨなんか「呼ばれてる」感じがあったんでしょうね。私にとっての初めてのライブで、知り合った人から別のライブに誘われ、「じゃあ、やってみる?」みたいな感じで、本格的にバンドを始めることになりました。最初は着物を着て変な人形を持ってステージに立ったりしてたけど(笑)、その後に正式にロリータ18号を始めることになった。これが1989年ですね。
――たこちはこのときはオリジナルメンバーではなかったんですよね。
たこちそう。マサヨと出会うのは、その2〜3年後なので、ロリータ18号の存在も全然知りませんでした。でも今思えば運命的な感じはしますね。
メンバーが固まり本格始動となった時代――ただ、さすがに35年ともなると、かなりの変遷があるので、ここからはいくつかの時代ごとに分けて話を聞いていきたいと思います。まずは「黎明期」から。
結成当時のロリータ18号(1989年頃)当初はケンヂ&ザ・トリップス、ラフィンノーズなどのコピーバンドでしたが、やがてオリジナル曲を作るように(1989年頃)高円寺LAZY WAYSなどのライブハウスを中心にバンドを活動。オリジナルメンバーは石坂マサヨとギターのあいちゃん。恰幅の良いベースの女の人などもいたが、すぐに脱退するなどメンバー構成は流動的ではあったが、オリジナル曲を作り続けるなどバンドスタイルを模索し続けた時代でもあった。他方、雪駄と学校の上履きを左右互い違いに履き始めたり、全身の服を前身頃と後ろ身頃を全部逆さまに着るなど間違えてしまったことも多く、あるライブハウスの店長からは「君たちには相応しい対バン相手がいない」といった厳しい意見もあった。
マサヨこの頃はまだ本気でバンドを続けようとは思っていなくて。バンドも好きだけど、好きな人のことで頭がいっぱいな頃(笑)。
――まだ16〜17歳だったらごく自然な。
マサヨそう。でも、やがて高校を卒業する前後に、東京の他のライブハウスにも出るようになって。下北沢屋根裏、新宿アンチノック、新宿ロフトとか。楽曲のテープ審査みたいなものを受けて、それに合格すると、まず「昼の部」からステージに立たせてもらえるっていう。ただ、バンドが本格的に固まったのはこの後なんですけどね。
当時のドラム・あかねちゃんの紹介で、大学とはまったく関係ないものの「スタジオをタダで使わせてもらえる」という理由から法政大学の音楽サークルに参加。そこで別の音楽サークルに参加していたエナゾウ(後のギター/現:エナポゥ)と石坂マサヨが出会い意気投合。やがてギターとしてエナゾウが参加。ロリータ18号が萌芽した時代だった。
一方、石坂マサヨのボーカリゼーションは、特に外国人から評価が高く、イギリス人が自国にロリータ18号のサウンドを持ち帰り、犬や猫の鳴き声と合わせてサンプリングした楽曲を発表。後に「カウス(語源は「イシザカウス」)」と名づけられたこの打ち込みの音楽は、世界中で評価され日本のパンクバンドの多くもカウスに傾倒。「あれはパンクじゃない」「いやパンクだ」など、キッズの間で物議を醸し出すことにもなった。
――同時期にマサヨさんとたこちが出会うことにもなったんですよね。
たこちそう。当時、私は下北沢の「朝日屋洋品店」っていう古着屋さんで働いていたんですけど、そこにマサヨもアルバイトで働くようになって。元々私はCOBRAが大好きでパンクロック全般大好きだったから意気投合して。ただ、この頃はまだロリータ18号のいちファンに過ぎず、応援する立場でしたけどね。
法政大学の音楽サークルに参加し、メンバーが固まった頃のロリータ18号(1991年頃)メンバーはみんな個性的である一方、どこか聡明な印象もあり、それがバンドの持ち味にもつながっていきました(1991年頃)エナゾウやたこちとの友情を深める石坂マサヨだったが、まだまだ模索中。エナゾウの豊かな感性がロリータ18号に大きな影響を与え、後に参加することになったベースのキム☆リン、ドラムのアヤ坊と合わせて1994年頃には完全にバンドが確立。大きな成長を遂げた時代でもある。BENTENレーベル(ガールズバンドを多くリリースするインディーズレーベル)でのリリース作品の中にはアメリカでのレコーディングを行ったものもあり、それに合わせてアメリカでのライブツアーを敢行。バンの荷物をすべて盗まれるといった憂き目に遭いながらも、メンバー全員ブレることなくライブを行い続けた。
マサヨキム☆リンは「朝日屋洋品店」界隈で出会った人。口調はクールなんだけど、内に秘めた熱いものがある面白い人だったので「ベース弾いてもらえない?」と頼んだら、「うーん、やったことないからなぁ」と言いながら、翌日にはすぐベースを買いに行ってくれた(笑)。ただ、このベースは電池を入れるような変な楽器で、キム☆リンも「間違えちゃった」と思ったらしく、すぐに買い替えることにもなりました。
たこちアヤ坊が入ったのはその後だよね。
マサヨそう。アヤ坊も法政大学の音楽サークルで出会ってドラムとしてメンバーになってもらったんです。
――マサヨさん、エナゾウ、キム☆リン、アヤ坊の4メンバーが固定され、完全にロリータ18号が出来上がった感じはありましたか?
マサヨいや、当時はまだ成長中で全然アマチュア。この後BENTENレーベルに入って、それから少しずつ固まっていった感じですね。
インディーズブームとメジャー契約での苦悩――BENTENレーベルに参加した時代に、ちょうどHi-STANDARDに象徴される一大インディーズブームが巻き起こります。80年代のバンドブームが違うカタチになってブームになった感じに映る時代で、マサヨさんはどんな風に見ていましたか?
マサヨバンドブームが終わって数年経過して、「本当にバンドが好きな人たちが残って巻き起こした」時代だと思うけど、個人的にはほとんど意識していなかったですね。もともと私は「打ち上げでおいしいお酒が飲みたい」っていう動機でバンドをやっていたところもあるので(笑)、もしかしたらCDとかを出すことすら望んでいないところもあったので。だから、他のバンドには申し訳ないくらいに思っていました。ただ、インディーズブームのおかげでいろんなメディアに出させてもらって。その辺りから忌野清志郎さんと出会い、よく遊んでもらうことができたのはうれしかったですけどね。
ロリータ18号の名はさらに広まり続け、アメリカでのレコーディングやライブも敢行(1994年頃)1997年にはメジャーデビューを果たしますが、ただし、同時に苦悩を抱えることも(1996年頃)ライブや作品をきっかけに日本クラウンよりメジャーデビュー。ライブハウスシーンだけでなく、お茶の間にも認知され始め大きく飛躍を遂げた時代。一方、北海道から東京に戻り、名古屋のラジオレギュラーの生放送に出演し、また次の地方都市に戻るような生活を送り、当時の口癖は「家賃がもったいない」だった。このような慌ただしい日々の中でも、ジョーイ・ラモーン(ラモーンズ)、オルガ(トイ・ドールズ)といったアメリカ、イギリスの大物パンクミュージシャンのプロデュースを受けた作品を発表し、国内外のファンから大きな支持を受けた時代。
たこちロリータ18号のメジャー時代は「本当にすごいな」と思って見ていました。ずっと仲の良い関係ではあったけど、身近な友達が普通にテレビの音楽番組とかに出ていて。マサヨはもちろんだけど、エナチ(エナゾウ)、キム☆リン、アヤ坊のバンドとして固まっている楽しそうな感じがいいなと思っていました。ただ、マサヨは忙しいのがあんまり向いていないところがあって、結構大変そうにも見えたかな。
マサヨ「これ、いつ曲を書くんだろう」っていう忙しい日々で。人間ってテンパるのが極限まで行くと、周囲の迷惑とかも考えられなくなるけど、まさにそんな次元でした。
――メジャーと契約するバンドの中には「商売だからディレクターやプロデューサーが求める楽曲を作ればいいんだ」「そうすれば売れるんだから」と頭を切り替える人たちもいます。音楽をビジネスとして考えるのなら正しい姿勢ですが、おそらくロリータ18号はそういった器用な感じはなかったんじゃないかと思います。
マサヨそう。当初は私も「メジャーと契約するっていうことは、そういうことだ」「私にもできる」とマジで思っていたんです。自分の中では「うまくヤレている感」を持っているんだけど、でも全然ダメ。追い詰められるとダメだし、嘘がつけない。
――でも、その嘘をつけない感じが、ロリータ18号を支持し続ける人には一番の魅力でもあって。逆に言えば、35年も休むことなくバンドが続いたのは、その感じが理由のひとつでもあるように思います。
マサヨでも、メンバーにはだいぶ負担をかけちゃったからね。一見、エナゾウもキム☆リンもアヤ坊もぶっ飛んでいる人に見えるかもしれないけど、すごく思慮深い人たち。気を使う素振りをできるだけ見せないで、気を使うような優しい人たちだった。私も若かったと言えばそれまでだけど、メジャーでの忙しいことに加えて、気を使わせる日々だったと思うと、反省するばかりです。
インディーズバンドとしての再出発と盟友・たこちの加入――とにかく走り続けたメジャーでの3年間を経て、2001年には再びインディーズに戻ります。
マサヨ単純に「日本クラウンとの契約が切れたから」っていうのが理由なんですけど、でも自分の中ではバンドに対する思いは何も変わりませんでした。「あの頃に戻った」と思うくらいで。メジャーでの辛さを考えれば、もしかしたらホッとしたところもあったかも。
ただ、私はバンドを続けるつもりでいたけど、メンバーみんな疲れちゃってたから、ここで一度全員で集まって話し合ったの。「メジャーとの契約が終わって、これからは自由だけど、全部自分たちでやらなくちゃいけなくなります。さあどうしますか?」って。本当にイヤな感じではなく、エナゾウとキム☆リンは「ヤメます」という答えでした。予想していた返答だったんだけど、そこで意外だったのがアヤ坊の「私は続けようと思うよ」っていう返答(笑)。「え? アヤ坊続けるの?」って逆に驚くくらいだったけど、メンバーの中では一番普通に見えるアヤ坊が、実は一番ぶっ飛んでいたということが分かったりして(笑)。それでロリータ18号を続けることになったんです。
再びインディーズとなった頃のロリータ18号(2002年頃)メジャー期からのドラム、アヤ坊は後に「鳥になりたい」と言い出し脱退メジャー期のメンバー、石坂マサヨとアヤ坊によって、まずバンドを再構築することになったロリータ18号は、自主レーベル・デストロインを立ち上げ完全なる自主制作バンドに。初期からの友人・たこちをベースに、またゴローをギターに迎えて再活動。2003年にアルバムをリリースするも、翌年2004年にはアヤ坊が脱退。その後ゴローも脱退。一時メンバーが石坂マサヨ、たこちのみとなったものの、後にドラムのTOBU、ギターのタッチャメンが加入。しばらくライブを続けることに。
たこちマサヨとは昔からずっと友達だったけど、まさか私が入るとは思いませんでした。でも、今思えばロリータ18号の再出発の時期には、私が最適だったかなと自分では思います(笑)。
マサヨゴローちゃんは唯一の男性メンバーだったからロリータに新しい風が吹いた。でも、抜けることになって。それでTOBUをドラムに、タッチャメンをギターに迎えたんだけど、TOBUはドラムの先生をやっている人だったから、バンドの技術面ではだいぶ鍛えられた。「楽しい打ち上げができればいい」とか言ってられなくなったという(笑)。
たこち特にリズム隊は千本ノック状態(笑)。私は「友達だから」って理由でベースになったから、大変だったけど、でもこんな私でもTOBUもタッチャメンもよく根気強くつき合ってくれたなって思う。音楽の道を正してくれて、自分で能動的に表現するような道を作ってくれましたからね。
TOBU、タッチャメンという新メンバーを迎えたロリータ18号(2004年頃)メンバーの入れ替わりがありながらも成熟した10年間ドラムのTOBUから千本ノックを受け技術的に向上する一方、ライブに全力を注ぎ続け、大きく成熟した時代。メンバーの加入・脱退が繰り返され、リスナーから見れば、ロリータ18号に紆余曲折があったようにうかがえるもののバンドの核となるところがしっかり固まった時代でもあった。
――TOBUのドラム時代はそこから約10年続いたものの、2016年に脱退します。ギターもタッチャメンが2007年に脱退し、ライトが加入するも2010年に脱退。キックがギターになりますが、彼女も2017年に脱退します。こう見ると、紆余曲折があった2000年代後半から2010年代いっぱいまでも、また紆余曲折の時代のように映ります。
マサヨ紆余曲折と言えばそうなんだけど、でも35年の中では一番大事な10年間だったかも。「楽しい打ち上げをやりたい」っていう動機を満たすためには、ちゃんと良いライブをしなくちゃいけない、お客さんと音楽を共有して楽しい空間を作らなくちゃいけないってことを分かり始めていた時期でもあったので。楽しいことだけを求めてバンドを始める人って、実は結構いるんだけど、ここで心が折れてヤメていく人は多いんじゃないかなと思う。年齢的なこともあるけど、一番厳しい時代だったと思う。ここで初めて「ヒット曲がない」ことを悔やむこともあったかも。
――それまでは「売れたい」というよりも「楽しいほうがいい」という感じでしたか?
マサヨいや、「売れたらいいな」とは思ってた。特にメジャーの頃は、関わる人たちのことも考えれば、そうあるべきとも思っていました。でも、どうも私は無理ができないし、「無理してまでバンドを売っていくのは絶対イヤだ」とも思っていて。ただ、この時代は初めてロリータ18号にヒット曲がない辛さを味わったかも。1曲でもヒット曲があれば、その曲がバンドを引っ張っていってくれるところがあるけど、ないと、ずっと挑戦し続けなくちゃいけなくなるからね。
――やがて、ドラムにちーちゃんが加入し、サウンドが骨太になります。ここでメンバーの変遷を振り返ってみると、加入・脱退を繰り返したのは、マサヨさんが「まず、その人が面白いかどうか」を基準にメンバーを選んでいたからではないかということです。
マサヨそれは絶対そう。「面白いかどうか」が大事だから、結果的に個性的な人が集まって、出たり入ったりすることにもなるんだけど、でもそれがロリータ18号だとも思っていたので。「なんでマーちゃん(マサヨ)は不思議な人ばかりメンバーにするの?」「なんの磁石なの、それ」みたいに言われることも多いけど、でもしょうがないんだ、たぶん私の頭がおかしいから(笑)。
――ただ、2010年代の後期になると、ラフィンノーズのレーベル、AAレコードからアルバムをリリースしたり、パンクバンドとしては中堅バンドとして認知されるようにもなりました。
マサヨたこちも私もラフィンノーズ、COBRAは大好きだったし、これは本当にうれしいことでした。私はずっと「自分からパンクバンドです」と言ったことはなかったんです。どうしてかと言うと、パンクロックが本当に好きで、こだわりが強くて憧れがあるから。客観的に見て「ロリータ18号はパンクです」って言われたら、たぶん私ならムカつく。「いやお前なんかパンクじゃねぇだろ」とか思っちゃいそうで。それでパンクバンドと名乗ることはなく、実は今も自分から「パンクバンドです」って言うのが結構苦手。そんな中でも日本のパンクの草分けでもあるAAレコードからのリリースは本当にうれしかったです。なんか、認められた気がした。ラフィンノーズがいなかったら日本のパンクロックはここまで広まっていなかったはずですしね。
メンバー全員解雇? リスタートを目指した時代――着実にバンドとしての評価を得て行きながらも、2018年にはたこち、ちーちゃん、キックをマサヨさんが全員「解雇」します。濃厚な10年を経て、何か心境の変化があったのでしょうか。
マサヨ解雇じゃないんですけどね(笑)。「楽しい打ち上げがしたい」っていうのは変わらないけど、でも、そのために良いライブをすることにこだわり過ぎてピリピリし始めて。それで、いったん私ひとりになりたいと思うようになって、メンバー一人ひとりと話して。
2017年、石坂マサヨがそれまでのメンバーを全員「解雇」。以降、サポートベーシストにヒロティ、サポートドラムにまつだっっを迎えしばし活動。後にドラムに吉村由加といった経験値の高いプレイヤーをメンバーに迎えた一方、若手のもりみをギターに迎え、さらなるバンドの飛躍を目指すことに。2021年にベーシストに中西智子が加入するも2021年に脱退。後に盟友・たこちが再加入する一方、もうひとりのドラマーとして中野良子もメンバーに加わり、「ドラムがふたりいる」という前代未聞のバンド編成に。
そんな中で、結成35周年を迎える2024年に日比谷野外大音楽堂の公演を決定。パンクシーンはもちろん、メジャー期にお茶の間を賑わした際のファンの間で、大いに話題になった。
たこち一度ロリータ18号を抜けるときは完全に「終わった感」があったけど、それからgyouninvenというバンドにベースで参加して、客観的にロリータ18号を考えると、「大変だけど良いバンドだな」と改めて思って見ていました。サポートベースのヒロティや中西智子さんもカッコ良かったし、「彼女たちのほうが良いな」と思っていたんだけど、脱退から数年経って改めてマサヨと会ったら、やっぱり言葉では言い表せない、マサヨと私だけに分かるツボみたいなところがあって。それで再度意気投合して、gyouninvenと並行してロリータ18号に再加入することになりました。
マサヨ一度離れたたこちには申し訳なかったけど、でもあそこでいったんリセットしたからこそ、お互いの思いを冷静に感じられるようになったのは確か。結果的に、リセットせずにあのまま続けていたら、今のロリータ18号の状況は作れていなかったとも思うし、まして「野音でやる」みたいな発想にはならなかったと思う。
たこち今はすごくバンドが良い状態で、具体的なバンドの活動がない日も、毎日が楽しく過ごせているからいいよね。この感じで野音のライブができればいいなと思っています。
――ドラムがふたりもいるという理由は?
マサヨ「どっちか選べない」という単純な理由なんですけど(笑)、でも以前の私なら、そんな曖昧なメンバー構成は絶対に許せなかった。「バンドはこうあるべき」みたいなものを強く持っていたからね。でも、あの「全員脱退」を経て、「そんなに気張らなくても、自由にやっていいんじゃないか」とも思うようになって。ここまで続けてきたのだから、もう「ヤメる」とか「ヤメない」とかもないし、本当の意味でバンドを楽しめるようになったと思っています。
前代未聞のドラムふたり体制となったロリータ18号(2024年)35年間の活動を経て、最も余裕がある良い状態に「35年前の16歳が52歳になったステージを楽しんで欲しい」野音公演を「冥土の土産にしたい」と石坂マサヨ――そんな変遷を経て、あと数日で日比谷野外大音楽堂での公演を迎えるわけですが、これはどうしてですか?
マサヨ元々「お客さんの動員を増やしたい」「いつか武道館のステージに立ちたい」といった野望みたいなものはまったくなかったんですけど、でも野音だけは別なんです。さまざまな伝説のある会場であるだけでなく、リアルタイムでCOBRA、KENZI & THE TRIPSといったバンドをよく観に行った思い入れの深い場所なので。
たこちその思い入れがクジを引き当てたっていう(笑)。
マサヨそう。野音って公営だから、いくらお金を積んでも貸してもらえない場所で、抽選会に行ってクジを引いて当たった人が使わせてもらえるんです。それでまさかの当選を獲得してロリータ18号のライブをすることになりました。ここまで話をしてきた通り、いろんな経緯があって今に至るロリータ18号だけど、お客さんたちから「“35周年おめでとう”と言って欲しい」というワガママを唯一お願いしたいんです(笑)。
――当初は「他人には迷惑をかけたくない」という思いが強かったマサヨさんが、そんな風に思えるようになったのも、ある意味達観した感じがありますね。
たこちそれもそうだけど、「楽しむ」「打ち上げで良いお酒を飲みたい」っていうことを突き詰めた結果が、野音に至った経緯だとも私は思っているので。
マサヨそうだね。35年を振り返ってみると、「三つ子の魂百まで」じゃないけど、基本的な考えは何も変わっていない。でも、それを突き詰め続けてきたロリータ18号の集大成が野音になると良いなと思っています。
「“三つ子の魂百まで”として35年前の16歳が52歳になったステージを楽しんでほしい」――客観的にロリータ18号の35年を振り返ると、「自由を突き詰めた35年」だったようにも感じます。「自由」であるためには、責任や苦労が伴い、なんの導きもない中でアレコレと模索し続けなければいけませんが、そのアナログ的に成長した感じは、一見「なんでも分かる」ように思える今の時代ではかなり貴重だとも思います。
マサヨそんな自覚はないけどね(笑)。でも、あと数日の野音が35年間の集大成的なステージになることは確か。ここまで大きな夢と大きな会場のロリータ18号は、今度の野音が最後かもしれない。そう考えると、私にとっては「冥土の土産」です。
たこち別に死なないし、バンドも続けるけどね(笑)。
マサヨうん。でも、「16歳が52歳になったステージ」にはなるはず。ぜひ多くの人に楽しみに来てもらえたらうれしいです。
<ライブ情報>
『ロリータ18号結成35周年記念日比谷野音ワンマンショウ「ロリータ35年」』
11月24日(日) 東京・日比谷野外大音楽堂
開場16:00 / 開演17:00
【チケット】
指定席:5,500円(税込)
https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventBundleCd=b2455357
ロリータ18号 公式サイト:
https://lolita18.net/