巻誠一郎にとってのサプライズ選出「W杯後の僕のストーリーで言えば、むしろ代表に選ばれないほうがよかった」

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巻誠一郎にとってのサプライズ選出「W杯後の僕のストーリーで言えば、むしろ代表に選ばれないほうがよかった」

11月5日(火) 7:10

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私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第28回

サプライズ選出された男が見た「史上最強」と呼ばれた代表の実態(4)

◆(1)ドイツW杯にサプライズ選出された巻誠一郎の困惑>>

◆(2)巻誠一郎が見たドイツW杯の舞台裏「ギクシャクした空気が表面化」>>

2006年ドイツW杯後、ジェフユナイテッド千葉の監督だったイビチャ・オシムが日本代表監督に就任した。日本のファン、サポーターの多くは大いに歓迎したが、ジェフのサポーターや関係者からは、オシムを無条件に引き抜かれてしまったクラブに対して批判の声が挙がった。

巻誠一郎も複雑な気持ちを抱えていた。

「ドイツW杯でひとつも勝てなかった日本のサッカーに足りないものを、オシムさんなら補って克服し、さらに強い日本代表をつくってくれるんだろうな、という期待はすごく大きかったです。

でもその反面、ジェフにはオシムさんがいて、毎日練習するなかで(チームも、自分も)うまくなっていくのが実感できていた。これからオシムさんがいないなか、自分が成長していけるのか。もしかすると、自分の成長が止まってしまうんじゃないか。そう考えると、すごく不安でした」

巻はドイツW杯で見えた自分の足りないものを、オシムが指導する練習のなかでレベルアップしていきたいと考えていた。それこそが、プロ入りしてからの巻の成長のルーティンになっていたからだ。

ドイツW杯後、巻誠一郎はオシムジャパンでも奮闘していたが...photo by AP/AFLO

ドイツW杯後、巻誠一郎はオシムジャパンでも奮闘していたが...photo by AP/AFLO



だが、オシム不在を嘆いてばかりはいられない。巻はすぐに気持ちを切り替えた。オシムから学びを得るには、代表に入らなくてはいけない。巻はそれまでとは異なる思いを、代表に抱き始めた。

「ジーコさんの時は、ジェフで一生懸命やっていることの延長戦という感覚で、『日本代表に入りたい』とかなかったですし、代表への意識も特別なものがなかった。でも、(代表監督が)オシムさんになってからは、『代表でも教えてもらいたい』『オシムさんと一緒にサッカーをやりたい』という気持ちがすごく強くなって、代表への意識がすごく変わりました」

オシムが日本代表を立ち上げた際には、「オシムチルドレン」と言われるジェフの選手たちが多数代表入り。練習メニューでは、彼らが見本となってチームの先頭に立っていた。巻も主力のひとりとして、オシムのチーム作りに大きな役割を果たしていた。

一方、所属のジェフはオシムの息子であるアマル・オシムが引き継ぐも、なかなか結果を出せずにいた。巻はチームに戻ると、オシムがいたときにはなかった感覚が生まれていた。

「自分のなかで、余裕ができたんです。それは、代表での経験とか、自分のレベルがひとつステップアップしたこともあったんですけど、ジェフの練習の強度が明らかに落ちていたことが大きいですね。オシムさんがいたときは、練習からギリギリのところで戦っていたんですけど、それがなくなった。それが、自分にとっても、チームにとっても、よくなかった」

オシムがジェフを率いていたとき、巻のプレーはとにかくがむしゃらだった。余計なことを考えずに前線から守備をこなし、味方がボールを奪うと勢いよくスプリントしてゴール前へと突っ込んでいった。当時、「利き足はヘディング」と言われた巻。相手DFやGKとの衝突や交錯も厭わない勇気あふれるプレーが、彼の真骨頂だった。

「自分は(余裕が生まれて)いろんなモノが見えすぎてしまうと、よくないなと思いました。オシムさんがいた頃は、シンプルに一生懸命に走って、守備をして、ゴールを狙うだけだった。

それが(オシムさんが)いないなかでプレーしたとき、『ここは自分がキープして、時間をつくったほうがいい』『ここで一生懸命(前から)追うよりも、時間帯的に(前から行くよりも)待ったほうがチームは助かるんじゃないか』とか、いろいろと考えるようになったんです。

考えることは大事なことですけど、そうなると、今までやってきたことをやらなくなって、今までできていたことができなくなる。自分のスタイルが出せなくなる。プレーに迷いが生じて、苦しむようになりました」

結局、2006シーズンのジェフは、W杯前までは5位だった順位を徐々に下げていって最終的に11位。翌2007シーズンは、さらに順位を下げて13位と落ち込んだ。巻も34試合出場で5得点と不本意な成績に終わった。

思わぬ事態が起こったのは、2007シーズンの終盤だった。

オシムが脳梗塞で倒れたのである。

「オシムさんが倒れたのは、本当にショックでした。僕にとってオシムさんは、一監督以上の存在で、おじいちゃんみたいな感じだったんです。プレーはもちろん、プロとして、人間として、いろんなことを学ぶことができましたし、スタッフや家族を守ってくれる大きな存在でした。オシムさんと一緒にサッカーができなくなると、学びを失うことになり、僕にとっては影響が大きかったです」

オシムが倒れたあと、日本サッカー協会はオシムの早期の現場復帰は困難と判断。南アフリカW杯アジア予選を控えていたこともあり、岡田武史を後任監督に据えた。岡田は当初、オシムの遺産を引き継いだが、2008年3月のW杯アジア3次予選、アウェーのバーレーン戦に敗れると、一気に方針転換。自らのカラーを全面に押し出して、オシム色を消していった。

それでも、巻は代表の一員にい続けたが、2009シーズン、所属のジェフが下降線をたどっていくと同時に、代表に招集されなくなっていった。

「2006年ドイツW杯で代表入りできたのは、パフォーマンスがよくて選ばれたと思うんです。でも、代表に呼ばれなくなった頃は、代表に値するパフォーマンスじゃなかった。選ばれないのは、当然でした。

ただ、自分の調子が今ひとつなだけで、岡田さんが求めるサッカーに、自分はハマるタイプだと思っていました。前からプレスをかけて、ボールを奪って素早く攻める――運動量が求められる泥臭いサッカーじゃないですか。代表に入れば役立つ選手になれたと思うんですけど、そこまで自分を上げられなかった」

2009シーズン、最終的にジェフはJ1最下位となってJ2に降格した。巻自身も精彩を欠いて、代表復帰を果たすことはなかった。

2010シーズン、巻はチームでも先発から外れることが多くなった。そんななか、南アフリカW杯に挑む日本代表には、岡崎慎司、玉田圭司、大久保嘉人、森本貴幸、矢野貴章の5名がFWで選出され、巻の名前は23名のなかにはなかった。

「落選の悔しさは、あまりなかったです。ふつうに納得していました。オシムさんが日本代表の監督になってから、ジェフがかなり苦しんで、そのまま低迷してしまった。正直、代表よりもクラブをなんとかしないといけないという思いが強かったです。自分のパフォーマンスがよくなくて、J2に落ちてしまった。チームに対する責任やファンやサポーターにも申し訳ないという気持ちでいっぱいでした」

南アフリカW杯イヤーの7月、巻はジェフからロシアのアムカル・ペルミに移籍した。その後、中国の深圳紅鑽を経て、東京ヴェルディ、ロアッソ熊本でプレー。2018シーズンを最後に、現役を引退した。

W杯はドイツW杯の一度きりの出場となったが、ブラジル戦で60分間出場した経験は、巻のサッカー人生に何か影響を与えたのだろうか。

「影響は、あまりなかったです。W杯後の僕のストーリーで言えば、むしろ(W杯メンバーに)選ばれないほうがよかったと思っていました」

なぜ、選ばれないほうがよかったと思ったのだろうか。

「ドイツW杯以降、自分なりに一生懸命プレーしていても、代表復帰しないと終わりみたいに思われて......。僕は、代表やW杯が一番ではなかったですし、もともと興味がなかったんですが、『元日本代表』という肩書がついてしまって、それからは常に代表目線で評価されてしまうし、それがついて回るのがすごくイヤだった」

「ただ......」と巻が続ける。

「引退してからは、ドイツW杯のときにサプライズで選んでくれたことから、多くの人が僕のことを知ってくれていましたし、熊本地震の復興支援活動をしたときにも、みんなが自分の名前を覚えていてくれた。そういう部分では、よかったなぁと。最近ようやく、"元代表"という肩書を受け止められるようになってきました」

巻は今、熊本でNPO法人『ユアアクション』の理事長として、2016年に起きた熊本地震の復興支援活動を継続。また、どこかで災害が起これば、ボランティアとして必要な物資を運んだり、スポーツで子どもたちが楽しめる場を提供するなどの活動している。

「今は、これをやりたいと思うものはないんですけど、その時々で興味のあるもの、ワクワクすることをやっていきたい。ある意味、サッカーと同じですね。僕は一生懸命にプレーして、勝って、喜びをファンと共有するところに、やりがいやワクワクを感じていたんです。これからも自分を軸に、ワクワクできることに取り組んでいきたいです」

現役時代はサッカーの試合をほとんど見ることがなく、オシムから「サッカーの試合を見ろ」と、よく叱られていた。引退してからは、サッカーの試合をよく見るようになった。日本代表や古巣のチームの試合もよく見ているという。

「ジェフは、もっと頑張ってほしい(苦笑)。サッカーがオーソドックスというか、カラーがない。選手の能力に偏ったサッカーなので、それじゃ勝ち続けるのは難しい。選手の質が高いので、そこに監督の個性というエッセンスが加われば、もう少し変わっていくと思うんです。

サッカーは、特に日本の場合は監督の力が70%ぐらい占めている。僕はオシムさんを見て、そう思いましたし、今もその考えは変わりません。いい監督が来れば選手を育てることができるし、チームも強くなっていく。それをオシムさんのもとで経験できたことは、僕には代表やW杯よりもはるかに価値のあることでした」

(文中敬称略/おわり)

巻誠一郎(まき・せいいちろう)

1980年8月7日生まれ。熊本県出身。大津高、駒澤大を経て、2003年にジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)入り。イビチャ・オシム監督のもと、着実に力をつけてプロ3年目にはレギュラーの座をつかむ。そして2006年、ドイツW杯の日本代表メンバーに選出される。その後、ロシアのアムカル・ペルミをはじめ、東京ヴェルディ、地元のロアッソ熊本でプレー。2018年に現役を引退した。現在はNPO法人『ユアアクション』の理事長として、復興支援活動に奔走している。

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