私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第28回
サプライズ選出された男が見た「史上最強」と呼ばれた代表の実態(1)
「僕はもともと、日本代表にもW杯にも興味がなかったんです」
巻誠一郎は現役時代を振り返り、そう言った。
2002年日韓W杯は日本国内で未曽有の盛り上がりを見せたが、駒澤大学4年生だった巻は「ほとんど試合は見なかった」という。
駒大卒業後、2003年にジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)に入団。1年目は崔龍洙の、2年目はマルキーニョスの控えといった位置づけだったが、3年目にはレギュラーに定着し、コンスタントに結果を出していた。それでも「日本代表でプレーしたい」と思うことはなかった。
「2005シーズンがスタートした頃は、プレーしていてもまだいっぱいいっぱいな感じで、余裕なんかまったくなかったんです。(イビチャ・)オシムさんのサッカーに徐々に慣れてきたとはいえ、『さらに上を目指します』とか言えるような状態じゃなかった。だから、W杯にも日本代表にも興味がなかったんです」
そんな巻に代表入りの機会が訪れたのは、2005年の夏だった。国内組を中心に編成されたチームだったが、東アジア選手権に臨む日本代表に選出された。
「その時(初めて)代表に呼ばれましたけど、僕は追加の、追加招集だったんです。ヤナギさん(柳沢敦)がケガをして、(鈴木)隆行さんが呼ばれたんですけど、大会直前の試合でケガをして。それで、代わりに追加で呼ばれたんです。
大会直前に急に呼ばれたので、初の日本代表という感慨もありませんでした。チームのやり方とかも何も整理できないまま、現地(韓国)に飛びました」
その東アジア選手権の初戦、北朝鮮戦で途中出場して代表デビュー。2戦目の中国戦、3戦目の韓国戦ではスタメン出場を果たした。翌年のドイツW杯出場をすでに決めていた日本代表の指揮官・ジーコの、巻への期待の大きさがうかがえた。
だが、巻自身は「バタバタしたまま(大会が)終わり、手応えはまったくなかった」という。一度代表を経験すると「次も」と意欲が高まるものだが、巻の代表への興味が深まることはなかった。
「こう言うと語弊があるかもしれませんが、チームのクオリティをはじめ、代表での練習や強度とか、すべて(所属する)ジェフのほうが高くて、キツかった。だから、代表で初めて練習したとき、『すげぇ~ラクだな』『これは休めるな』と思いました。
ただ、試合では『うまくいかないなぁ』って思っていました。ジェフでやっているときの強度や質も、ほとんど出せなかった。ジーコさんに呼ばれて結果を残したいと思いましたけど、全然でした」
その年、再び巻が日本代表に呼ばれることはなかったが、ジェフでは攻撃の中心選手として活躍。12得点を挙げて、キャリアハイの結果を残した。
2006年のW杯イヤー、注目は日本代表のFWの人選に注がれていた。メンバー入りが有力視されていた久保竜彦のコンディションが、負傷などの影響などもあって一向に上がってこなかったからだ。
そこで、注目されたのが、巻と当時サンフレッチェ広島でゴールを量産していた佐藤寿人だった。それぞれJリーグで結果を出し続け、ふたりともコンスタントに日本代表に招集されるようになった。メンバー発表前、Jリーグが中断される5月初旬まで、巻は12試合出場6得点、佐藤は12試合出場7得点と互角の勝負を見せていた。
「周囲がざわざわしてくれたので、その流れに乗って(メディアなどに対しては)『代表に入れたらいい』とか話をしていましたけど、自分では『(W杯メンバー入りは)ないな』と思っていました。
(年明けの)アメリカ遠征とかにも呼ばれましたけど、FWにはタカさん(高原直泰)さん、ヤナギさん、大黒(将志)、玉田(圭司)とそろっていましたから。さすがに(FW枠で)5枚はないだろうと思っていたので、まったく期待していなかったです」
迎えた2006年5月15日、ジーコが23名のW杯メンバーを読み上げた。
「タマダ......、マキ」
巻の名前が呼ばれた。その瞬間、記者会見場がざわついた。
巻はそのシーンをメディアの人たちと一緒に見ていた。
「名前が読み上げられた瞬間は、うれしかったです。『ええっ、自分が!?』って思いましたけど。
選ばれたからにはチームを助けるプレーをしたい。チームのために一生懸命に走るのが自分のスタイルだったので、それを見せていきたいと思っていました」
2006年ドイツW杯の日本代表メンバーにサプライズ選出された巻誠一郎photo by Kyodo News
ドイツW杯を戦う23名のメンバーのなかには、「初めまして」という選手が何人かいた。巻はそういった選手たちに挨拶しに行って、「自分はこういうプレーが得意です」と説明して回った。練習で理解してもらおうと思ったが、戦術的な練習が少なく、自分のよさを理解してもらうチャンスがほとんどなかったからだ。
「W杯前までに、僕と主力選手がお互いの特徴をわかり合う、という時間はなかったです。ジーコさんからは『ボックス内で勝負してほしい』と言われていました。でも、僕はそういう選手じゃなくて、守備にも攻撃にもアグレッシブにいってよさが出るタイプ。求められることはわかるけど、それでは自分のよさを出すのは難しいと思っていました」
所属のジェフで巻が輝いていたのは、攻守にアグレッシブに動き続け、チャンスになれば前に突っ込んでいく、そうした泥臭く、献身的なプレーを見せていたからだ。そういった巻のプレーを、オシムも「(ジネディーヌ・)ジダンになれないが、ジダンにないものを持っている」と言って評価していた。
だが、ジーコはストライカーとしてボックス内にとどまって攻撃の起点となり、得点を決めきることを望んでいた。日本のFW陣には、クロスやセットプレーで勝負できる高さのある選手が巻しかいなかったからだ。
「ドイツに入ってからも『ボックス内』と言われたけど、『動いちゃダメなのかぁ』とか考えながら、手探り状態でプレーしていました」
いろいろと考え、悩む巻に、アドバイスをしてくれるだけでなく、積極的に声をかけてきてくれたのは、中田英寿だった。
「代表では、ヒデさん(中田英)と一番よく話をしていました。最初に『ジーコには"ボックス内で待っていろ"って要求されたんですけど、僕はこういうプレーが得意なんです』という話をヒデさんにしたんです。そうしたら、『1回、ボックスの外で起点を作らないと中に入っていけないよね』とか、いろいろとアドバイスしてくれたんです。
それから、よく話をするようになって、『一緒にトレーニングやろうぜ』とか、声をかけてくれたりして。ヒデさん、めちゃいい人だなって思っていました」
大会が進むにつれ、中田英はチーム内で孤立を深めていくが、巻は別の見方をしていた。
「僕のことも"チームのために"って思って、話をしてくれたんだと思います。僕はヒデさんが一番チームのことを考えていたんじゃないかな、と思いますね」
W杯開幕を目前にして、チームは親善試合のドイツ戦で互角の戦いを演じ、"日本、強し"を印象づけた。その試合をベンチから見守っていた巻も「これなら」と本番への期待が大きく膨らんだ。
「(ドイツ戦は)僕は一度もウォーミングアップすることなく、ベンチから試合を見ていたんですけど、日本は『すごいチームだな』『これはW杯でもいいところまでいくな』って思いました。そのくらいの強さと勢いが日本にはありました」
しかしその勢いは、本番前最後の試合となったマルタ戦で萎んでいくことになる。巻は後半24分から途中出場。日本は1ー0で勝利したが、試合後のチームの雰囲気はあまりよくなかった。
「大会本番前の最後の試合なのに、なんかひとつになれないというか、みんなで"行こうぜ!"みたいな雰囲気にはなっていなかったです」
巻は自分のチームながら「大丈夫か?」と不安に思った。そんな微妙な雰囲気のまま、W杯の高揚感などほとんど感じることなく、大会を迎えた。
2006年6月12日。ドイツW杯の初戦で日本はオーストラリアと対戦した。
それまでは寒い日が続いていたが、この日は直射日光が射すように眩しく、気温も32度まで上がった。
グループリーグ突破のためには、この初戦は絶対に落とせない試合だった。クロアチア、ブラジルとの戦いが待っている状況にあって、オーストラリアは一番くみしやすい相手であり、勝ち点3が最も計算できる相手だったからだ。
はたして、試合は中村俊輔のゴールで日本が先制した。
「先制点を奪うことができて、オーストラリアの攻撃もそれほど脅威を感じなかった。どこかで追加点を取れれば、『このままいくな』と思っていました」
巻は、ピッチ上で勇ましく戦う選手たちが頼もしく見えた。
しかし、オーストラリアは後半8分、決定力のあるティム・ケーヒルを投入。一方で、日本は3バックの一角を担う坪井慶介が暑さと疲労で足がつり、11分に茂庭照幸と交代。そこから、徐々にオーストラリアへと流れが傾いていった。
さらに16分、オーストラリアは長身FWのジョシュア・ケネディを入れ、前線にロングボールを早めに入れてきた。暑さのなか、その攻撃に体力を奪われていった日本DF陣は、だんだんロングボールを跳ね返す力が鈍くなり、押し込まれる時間が増えていった。
「こういう状況でこそ、僕は生きる。『ここで出してくれ』って思っていました」
ベンチで試合を見つめていた巻は、そう思っていた。
だが、ジーコが交代選手に選んだのは、巻ではなかった。
(文中敬称略/つづく)
巻誠一郎(まき・せいいちろう)
1980年8月7日生まれ。熊本県出身。大津高、駒澤大を経て、2003年にジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)入り。イビチャ・オシム監督のもと、着実に力をつけてプロ3年目にはレギュラーの座をつかむ。そして2006年、ドイツW杯の日本代表メンバーに選出される。その後、ロシアのアムカル・ペルミをはじめ、東京ヴェルディ、地元のロアッソ熊本でプレー。2018年に現役を引退した。現在はNPO法人『ユアアクション』の理事長として、復興支援活動に奔走している。
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