その昔、レイ・ハットンはシュパンの962LMと962CRロードカーの内幕に触れる機会を得た。
【画像】筆者がプロジェクトにも関わった、シュパンポルシェの962LMと962CRロードカー(写真8点)
1980年代終盤、スーパーカー・ビジネスは新たな局面を迎えようとしていた。ジャガーXJ220、マクラーレンF1、ブガッティEB110などは、ロードカーにレーシングカーのパフォーマンスをもたらす試みといえる。これを受けて、当然ともいえるひとつの疑問が取り沙汰されることになった。「なぜ、現代のレーシングカーをベースに公道走行が可能な車を作らないのか?」
「浪費家たちの時代」ともいうべき時代
グループCカーを1台引っ張り出してきて、触媒と消音器を取り付け、エンジン・コントロール・ユニットを調整。さらに快適装備を盛りこんでナンバープレートをつければ、恐るべきパフォーマンスのロードカーが完成する。
これこそ、1991年からごく短い期間だけ花を咲かせた、シュパン -ポルシェの原点ともいえるアイデアだった。
1983年のル・マン24時間にポルシェのワークスドライバーとして参戦し、栄冠を勝ち取ったヴァーン・シュパンは、当時、高度なスキルを持つ耐久レースチームを運営しており、彼らはポルシェ962用のカーボンファイバー・シャシーを始めとするコンポーネントを自らの手で開発していた。日本企業のスポンサーシップを得てル・マン24時間にも参戦していたチーム・シュパンは日本のスポーツカーレースでも活躍していたが、彼らはホテルやゴルフ場などを手がける”Kosho”という企業からアプローチを受ける。これが1988年のことで、Koshoは「962ル・マン・カーで公道可能な車を作る構想」を携えて、シュパンのもとを訪れたという。当時、チーム・シュパンにはF1デザイナーのラルフ・ベラミーやマーティン・リード、そして直前はGMホールデンでプロトタイプ製作のトップを務めていたレイ・ボレットらが在籍していた。
こうして誕生したのがシュパン -ポルシェ962LMで、これに続いたのがショートボディ・ベースの962CRだった。この2台を製作する間に、シュパンは大規模な工場を手に入れるともに、機械工、溶接職人、メカニックなどを雇い入れて車両の乗り心地やハンドリングを改善。さらに、異なるエンジンを搭載して排ガス規制をクリアするとともに、車両型式認定を受け直したのである。シュパン自身は、こうした作業に18カ月間ほどを要すると見積もっていたようだ。
しかし、これは「呪われたプロジェクト」と化していく。6台が製作されたところで、日本のバブル経済が弾けてしまったのだ。これをきっかけとして、当初25台をオーダーしていたアート・コーポレーション(スーパースポーツカー・ディーラーであるアート・スポーツの親会社)との間に終わりのない法廷闘争が勃発する。やがて、世界でもっとも速く、もっとも高価なロードカーを作ろうとしたヴァーン・シュパンのプロジェクトは、熱心な一部のファンを例外として、世界中の人々から忘れ去られることになったのだ。
1991年4月
ヴァーンは私に「ロードカー・ビジネスに参入するので、その宣伝活動を手伝って欲しい」と連絡してきた。このとき、私は本社があるハイ・ウィカムに招かれるとともに、962LMプロトタイプを体験する機会を得た。日本では82万ポンド(当時のレートで約2億円)のLMは、その外観がすべてを物語っていた。ロングテールを備えたグループCカーの車重はわずか980kgで、フラット6の2.6リッター・ツインターボ・エンジンは8000rpmで 680bhpを生み出した。この車両は、1988年のル・マン24時間で10位完走を果たした、チーム・シュパンの962/123をモディファイして完成させたものだった。
ヴァーンと私の共通の友人であるハウデン・ガンレイは、以前、同じ場所にあったタイガ・レース・カー社を畳んだばかりで、コンサルタントとしてこのプロジェクトに関わった。ハウデンと私は、ミュルサンヌのストレートで230mph(約368km/h)を記録する車を公道で、しかも制限速度に近いスピード(?)で走らせるとどんな感覚を味わえるのか、試してみることにした。
そのとき、私はこんな文章を書き残している。「車はもちろん速かったが、しかし、あまり速さを感じさせなかった。けれども、そのときの車速は実に150mph(約240km/h)に達していた…。一般道を走るスピードでハンドリングについて語ろうとしても意味をなさない。なにしろ、その車はパワーステアリングでないにも関わらず操舵力は決して重くないうえ、狙ったラインを寸分違わずトレースする能力を備えていたのだ。また、スムーズなアスファルトでの乗り心地は素晴らしかったが、コンクリートの路面に突起があると、サスペンションの反応は極めて硬くなり、車体全体を揺するような振動が伝わってきた」
「サーキットを走るポルシェを見た者にとってはお馴染みの、低くて金属質のエグゾーストノイズをその車も発していた。LMでは、搭載された3基のサイレンサーがエンジン音を効果的に抑え込んでいたものの、キャビンは、頭の直後で発せられる『ブーン』とうなるようなベルトの音やバルブ・トレインのガチャガチャとする音で満たされていた。おそらく、それらを遮音材で抑えることもできたはずだが、オーナーたちはそのサウンドを堪能するだろうとシュパンが判断したため、なんの対策もとられなかったのである」
「ハイウェイやサーキット以外の道を走らせると、962のサイズが速く走らせるうえで障害となった。なぜなら、テスタロッサよりワイドで、ディアブロより低いうえ、視界はそのどちらと比べても劣っている。というのも、これほど車両の前方にドライバーが着座する車は、キャブオーバー・バン以外には考えられないからだ。しかも、この車は右ハンドルである。といっても、ドライバーのどちら側にも大きなスペースがとられているので、実質的にセンター・シートと呼んでも差し支えないだろう」
「962LMに乗り込むなら、身体を鍛えるとともに自由な発想の持ち主であることが求められるほか、乗り込んだあとも閉所恐怖症の方にとっては辛い空間であるはず。サイドウィンドウは頭から数cmしか離れていないし、ウィンドウスクリーン上端の日よけ部分やロールケージも額との距離はやはり数cm程度しかない。ドライバーとパッセンジャーの方が触れ合うことも避けがたい。しなやかなレザーで覆われた2脚のシートが数cmほどしか離れていないためだ。ただし、ドライビングポジションは理想的で、パッドが入っていて太いスウェード巻きのステアリングや短いシフトレバーはいずれも手の届きやすいところにレイアウトされている」
「5速マニュアルギアボックスはシンクロメッシュ付きなのでスムーズにギアチェンジできる。もしも素早いシフトをするときは両手で操作するといいだろう。レーシングカーを運転した経験の持ち主であれば、ブレーキペダルの感触にも、巨大なアルコン製キャリパーを動かすのに必要な踏力についても驚かないはず。実際のところ、ブレーキペダルは不当といえるほどは重くない」
「962にはリアウィンドウがないので、ボディ後端にはビデオカメラが装着してあるものの、小さなディスプレイに表示される画像は決してクリアとはいえない。法律に従えば、ボディ側面にミラーを取り付ける必要がある。レースカーの常識でいえばパノラマ並みの画角を持つこのミラーでも、公道で車線変更をするにはおおいに気をつけなければならない。そして駐車スペースに停めるのは、悪夢以外のなにものでもない!」
ロードカーのために
このプロトタイプには、ジョン・トンプソンが手がけたアルミ・ハニカム製シャシーが用いられていたが、2台のみが作られたプロダクションモデルの962LMには、チーム・シュパンが製作したカーボンファイバー・タブが採用された。また、2.6リッターのグループCエンジンには、公道を走るためモーター駆動の冷却ファンをサイドラジエターに装着する必要があった。エンジンに行われた主なモディファイは排ガス規制への対策のみで、2基の三元触媒と特別に設定したボッシュ・モトロニックMP1.2を搭載。最新のエンジン・マネージメントを得たことで、一般道の速度域でも扱い易い特性を手に入れることができたという。
その後、製作された962CRのカーボンファイバー・シャシーも、内側が2インチ(約5cm)広がったことを除けば、962LMに用いられたものとまったく同じ。ただし、エンジンは空冷の3.3リッターに置き換えられた結果、サイドラジエターや電動ファンは不要になった。また、LMプロトタイプに装備されたシングルプレートのレーシングクラッチは、より扱い易いツインプレートのものに置き換えられていた。
3.3リッター・エンジンは、アメリカのアンディアル・コーポレーションがIMSA用に開発したものだ。その最高出力は「7000rpmでおおよそ600bhp」と表記されていたが、シュパンがここにマニュアルの過給圧コントロール・ノブを追加したことで、理論上は800bhpまで絞り出せると考えられた。もっとも、962CRがLMと根本的に異なっていたのは、その滑らかで優雅な曲線を備えたボディパネルであろう。これはアート・スポーツが、ロングテールのレーシングカーよりもGTカーに似たデザインを望んだことから生まれたものだった。これを受けて、シュパンは同郷でホールデンのデザインチームで働いていたマイク・シムコーを招聘すると、すでに完成していたシャシーに合うボディ・デザインを依頼したのである。彼の仕事が出色の出来映えだったことは多くが認めるところで、とりわけ911を想起させる丸形のヘッドライトや959風のリアウィングは秀逸だった。シムコーが、後にGMのグローバル・デザインを担当するシニア・バイスプレジデントに就任したことを知る向きは少なくないだろう。
CRはインテリアもLMとは大きく異なっていて、よりロードゴーイングカーらしい仕上げとされた。なかでも重要なのはステアリングギアボックスのギア比をスローにして、神経質なキャラクターを緩和したことだろう。また、イギリスの規制にあわせて車高も少しだけ上げられたほか、SVA(Single VehicleApprovalの頭文字。直訳すれば「1台のみの車両認証」となる)もクリアしている。Koshoとの間に結んだ25台の販売契約に続き、アート・スポーツはヴァーン・シュパン・リミテッド(VSL)に対し、世界中で50台の962CRを販売する計画に関する交渉を開始。生産されたCRは、まず日本に納品され、続いてアメリカやヨーロッパにデリバリーされる計画だった。VSLがハイ・ウィカムへの移転を決めたのはこれがきっかけで、オーダーは最終的に60台を超えたとされる。
バブル経済の後始末
最初に完成した2台の962CRが日本に送られたところで、風向きが怪しくなり始めた。日本の景気が悪化した関係で、アート・コーポレーションは「1台売れたごとに代金を支払う」と宣言。さらに景気の低迷により顧客はほんのわずかしかいないと説明した。これが訴訟問題に発展。そもそも従業員に給料を支払わなければいけないうえ、在庫してあるエンジンやシャシーを始めとして、シュパンは数多くのサプライヤーとの交渉を行なう必要に迫られる。やがて、日本市場に大きく依存していたビジネスは立ちゆかなくなったのである。
この頃、最後に生産されたシュパン -ポルシェである962CR06が写真に収められた。LMとCRの生産にすべて関わったトレヴァー・クリスプ(VSLを退職後、同じくル・マンに参戦するADAエンジニアリングで職を得た)は、係争が始まってからもシュパンは「契約があるので、もう1台作らなければならない」とクリスプに命じたという。
シュパンのロードカー・ビジネスが清算されたとき、2番目と最後に生産された962CRは、シュパンの元ファクトリーに移転してきたPSVグラス&グレイジングのポール・アンドリュースに所有権が引き渡された。このうち、シャシーナンバー06は、その後、15年間にわたって地下の倉庫にしまわれたままとなり、この間、誰も走らせることはなかったが、エンジンのみは定期的に始動され、新車同様のコンディションに保たれていた。
計画の当初、LMもしくはCRのオーナーのなかにはサーキット走行を希望する者がいるかもしれないと考えたヴァーンは、スリックタイヤやレース用ブレーキパッド、強化サスペンション・スプリングなどを用意するつもりだったが、生産されたLMもしくはCRでレースを戦ったマシンは1台もなかったという。これは、ロードゴーイングカーとして生産されたダウアー・ポルシェ962が、ちょっとした手違いから1994年のル・マン24時間に参戦し、優勝してしまったこととは好対照を成す出来事といえる。
ヴァーンは間違いなく先駆者だったが、彼にできることといえば、自分たちのプロジェクトがどんな結果を導くことができたか、もしくは、どんな結果を導くべきだったかについて夢想すること以外にないだろう。
編集翻訳:大谷達也Transcreation: Tatsuya OTANI
Words: Ray Hutton
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