旗手怜央の欧州フットボール日記第30回
セルティックでの今シーズン、ゴール前での得点やアシストが目立っている旗手怜央。これはかつてFWとしてプレーしていた大学時代の4年間が生きているという。「自分がずっとFWだったと錯覚するほど強烈だった」という順天堂大学時代を振り返ってもらった。
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旗手怜央は大学の4年間FWでプレーしたphoto by JUFA/Iijima Reiko
【大学4年間、自分はFWだった】
今季のリーグで、たとえば8月25日のセント・ミレン戦(第3節)の33分に決めたゴールや、10月19日のアバディーン戦(第8節)で24分に決めたゴールは、かつて自分がFWとしてプレーした経験が生きている。
セント・ミレン戦は、味方のポストプレーに対して咄嗟に走り込み、左足を振り抜いた。アバディーン戦も(古橋)亨梧くんからのクロスに合わせて走り、DFの前に出るとGKの逆を突いた。いずれもワンタッチで決めたゴールだった。
セルティックで4シーズン目を迎え、今ではインサイドハーフでのプレーがしっくりきているが、以前の自分はFWというポジションに強いこだわりを持っていた。川崎フロンターレにもFWとして加入したように、ストライカーとして評価されて、プロへの道をこじ開けた過程にも起因していただろう。
だが、ふと思い返してみると、FWとしてプレーしたのは、大学の4年間だけだった。
高校時代はもっぱら左サイドハーフやトップ下が主戦場で、FWとしてプレーする機会はなかった。フロンターレに加入してからもウイングや2列目が多く、小林悠さんやレアンドロ・ダミアンが前線に名を連ねた当時のチームで、自分が1トップを務める機会は皆無に等しかった。
ただ、プロになってからしばらくFWという自負が拭えなかったのは、それだけ大学時代の成功体験が大きかったように思う。
静岡学園高校から順天堂大学への進学を決めたのは、そこがプロへの近道だと考えたからだ。当時は、フロンターレでもチームメートだった長谷川竜也さん(北海道コンサドーレ札幌)、名古新太郎さん(鹿島アントラーズ)、米田隼也さん(V・ファーレン長崎)といった先輩たちが、静岡学園高から順天堂大に進んで活躍していた。高卒でプロになれなかった自分も、尊敬する先輩たちと一緒にプレーすることで、プロへの道を切り開きたいと思っていた。
【1年生のある日、MFからFWへ】
大学に入学した当初は、2つ年上の米田さんが左サイドハーフのレギュラーとして活躍していた。そのため、自分に出場機会が巡ってくるのは、米田さんが卒業したあとの大学3年になってからという心づもりもあった。そこからの2年間で、しっかりとアピールして、どこかJリーグのチームに加入することができればと、自分のキャリアに思いを巡らせていたものだ。
ところが努力の甲斐もあって、大学1年だった2016年の関東1部リーグ開幕戦にメンバー入りした。そして途中出場する幸運にも恵まれたのだが、当時の登録はMFだったように、ポジションはサイドハーフだった。
大学時代の出来事のため、明確な時期や経緯は覚えていないが、MFとして徐々に先発する機会が増えていたある日、FWへと抜擢された。
これが自分のキャリアを大きく左右する転機になった。
それまでは名古さんがFWとしてプレーしていたが、名古さんは逆に1列下がり、自分がセカンドトップのような役割を任された。同級生の浮田健誠(AC長野パルセイロ)と2トップを組むことになったのだ。
FWという自覚が芽生えたのは、夏に行なわれた総理大臣杯・全日本大学サッカートーナメントだった。1回戦で2得点したのを皮切りに、準決勝まですべての試合でゴールを奪い、4試合で5ゴールを記録した。決勝で明治大学に0−1で敗れ、準優勝に終わったのは自分が得点できなかったからだと思っている。
【オフ・ザ・ボールとワンタッチゴール】
大会前も、いくつかゴールを決めていたが、ミドルレンジからのゴールが多く、ラストパスにワンタッチで合わせるといった、いわゆるFWらしいゴールは少なかった。
静岡学園で技術を磨き、ボールを持ったときのプレーに自信はあったが、FWとしてプレーするようになり、学び、変わったのは、オフ・ザ・ボールの動きだった。監督やコーチからボールがないところでの動きを教わり、それまでセカンドトップを担っていた名古さんの動きも見て、自分に取り入れていった。
何よりFWとしてプレーするようになって感じたのは、MFと比べてオフ・ザ・ボールの時間が長くなることだった。これは、後ろから前にポジションが行くにつれて増していく。
パスを引き出す。相手の背後に走り込む。DFとの駆け引きに勝つ。いずれも自分がボールを持っていない時に求められるFWの動きであり、質だった。
「FWで生き残っていきたいのなら、FWはワンタッチでのゴールが多いから、そこを磨かないといけないよ」
大学時代の監督である堀池巧さんやコーチ陣から言われた言葉は、今でも覚えている。
その後、自ら持ち運んでのゴールだけでなく、ワンタッチでゴールを奪えるようになった自分は、大学1年にしてリーグ戦でチーム最多となる9得点をマークした。そのゴール数は2年生で14得点、3年生で12得点と二桁に届いた。
関東大学リーグでは、筑波大学の中野誠也さん(アスルクラロ沼津)、流通経済大学のジャーメイン良さん(ジュビロ磐田)、そして法政大学の上田綺世(フェイエノールト)といった錚々たるストライカーと、得点ランキングを争ったことも刺激と励みになった。
FWとしてプレーした大学4年間のその経験は、今も生きている。冒頭で記した得点シーンで、とっさに身体が動き、走り込めたのは、まさにそのおかげだからだ。
長くFWでプレーしている選手は、理論的に考え、動いている人もいることだろう。しかし今、自分が最後の最後で自然に身体が動き、ゴール前に顔を出せるのは、FWとしてプレーした4年間があったからだ。とっさに足が出る、とっさに動き出している。その瞬間で、素早く反応できるのは、身体に染みついているところが大きい。
【今はFWの気持ちがわかるのも強み】
インサイドハーフが主戦場となった今は、FWの気持ちがわかることも強みになっている。オフ・ザ・ボールの時間が長いFWは、脚光を浴びないところで何度も駆け引きをし、動き直してもいる。
走るたびにパスが出てこなければ、彼らも人間だから走るのを躊躇してしまったり、走るタイミングが遅れてしまったりする場合もあるだろう。だから、中盤でプレーする今は、仮に五分五分、もしくは成功率が難しくても、前線にパスを出すことがある。動き出していたFWに対して、「見ているよ」「わかっているよ」というメッセージを込めて。
クロスも、きっとこのタイミングでは合わないだろうと思っていても上げるのは、次への布石にするためだ。その瞬間で見れば、パスが合わなかった、クロスが合わなかったという結果に見えるが、90分を考えると、FWはあのタイミングで出してくれたから、「次も来る」と信じて走ってくれる。それが次のチャンスでのゴールにつながるし、その試合だけにとどまらず、さらに次の試合でのゴールにもつながっていく。
FWはボールのないところで、1回、1回、相手や状況を見て考えて動き続けている。動き出しているところに合わせられないのは、パスの出し手の責任。だから、彼らの動きを見逃さずに、欲しいタイミングで適した場所にパスを出せる選手になりたいと思っている。
インサイドハーフでプレーする今、ゴールやアシストといった結果に目を向け、そこを自分が求められているのも、FWとしてプレーした4年間があったからだ。
自分自身も振り返ってみて、「わずか4年間だったのか」と驚いたが、自分がずっとFWだったと錯覚するほど大学時代は強烈で、今の自分にとって確かな財産になっている。
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