連載怪物・江川卓伝〜高木豊が振り返る衝撃の初対面(後編)
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高木豊のプロ初スタメン試合は、苦々しいものだった。
1980年にドラフト3位で大洋(現・DeNA)に指名され、1年目から88試合に出場。おもに代打や代走で起用されていた高木の初スタメンは、1981年5月10日の横浜スタジアムでの巨人戦で、「2番・セカンド」として出場した。その時の巨人の先発が江川卓だった。
江川自身「81年夏場の11連勝よりも、春先のほうが絶好調だった」と言うように、まさに全盛期のど真ん中にいる江川との対戦だったのだ。
引退後、解説者となった江川卓(写真右)から取材を受けるコーチ時代の高木豊photo by Sankei Visual
【強い巨人がうらやましかった】「3打席連続三振ですよね。江川さんが全盛期の頃で、まったく相手にされなかった。その試合、江川さんは14奪三振で、そのうち3つは僕。たしか江川さんは自己最多奪三振じゃないかな。その試合後、ミーティングがあったことは覚えています。あまりに屈辱的な結果ということで集められ、説教されたのかな」
江川は4安打1失点の完投。8回までに14三振を奪い、最終回は三振記録を樹立させないためか、大洋が早打ちしたため三振はひとつも奪えずに終わった。ストレートは今のスピードガンだと150キロ後半は出ていたと言われ、スピンが尋常なく効いているためバットの上を通過してしまう。大洋打線はなすすべもなく、三振の山を築いていった。
「80年代前半の巨人って、ほんとに強かった。なんといってもピッチャー陣がよかったですからね。江川さん、西本(聖)さん、定岡(正二)さんの三本柱に、加藤初さんがいて、抑えに角盈男さん。いろいろなタイプのピッチャーがいて、端から見て『いいな』と思っていましたよ。ウチのピッチャーと比べたら、スピードは10キロくらい違いますからね。ウチなんかは遠藤一彦さん、齊藤明雄さんにつなぐしか勝ち目がなかったみたいな......そんな感じだったんですよね」
80年代の大洋のAクラスは、1983年の3位のみ。それも首位から11ゲーム差の3位だ。そもそも大洋は1960年の三原修監督による優勝以来、ずっと低迷していた。ちなみに優勝後から90年までの30年間、優勝なし、Aクラス9回、5位が8回、最下位が6回という成績で、セ・リーグでもっとも優勝からかけ離れていたチームだった。
「あの時の大洋というのは、入団する前から惨憺たる状況だったんですよね。『なんで優勝できないんだ』とか、『なんで勝てないんだ』とかが悩みになってこない。それが当然だっていうような感じで飲み込まれていくんです。やっぱり『優勝したい』といった意識が芽生えたのは、90年以降じゃないですかね。
そもそも意識が変わったのは、(監督の)古葉竹識さんの3年契約が終わる89年頃だったでしょうか。それまで優勝なんて口先だけで、フロントの人たちもどうやったら優勝できるかなんて、これっぽっちも考えていなかった。シーズンが始まる前でも、優勝どころかAクラスも目標にできなかった。だって、メンバーが絶対的に足りないんですよ。たとえば、おいしいものを食べるにしても、調味料も大切ですけど、素材がやっぱり大事じゃないですか。調味料でごまかしは効きますよ。でも最終的に素材の味を生かしてやる料理が一番おいいじゃないですか。そういう素材が揃っていなかったということですよね」
高木は92年に契約交渉が難航し年俸調停を申し立てているが、お金の問題だけで揉めたわけではない。球団の姿勢についても言及し、企業努力もせずに他球団の選手の成績の良し悪しを比較して年俸を決めることに苛立ちを感じ、調停まで持ち込んだのだ。そういう点でいうと、80年代の江川率いる巨人は優勝か、できなくても優勝争いに絡んでいた。そんな状況を、高木は心底うらやましく思っていた。
【江川卓とのトークショー】3歳違いの江川と高木は、他球団でありながらも仲がよかった。
「自分はすごく人懐っこかったので、江川さんにもホイホイ話しかけていました。当時、江川さんをいじる人なんていなかったのですが、僕は平気だった。敵チームですから、今ほど交流があるわけじゃなく、あいさつからの延長で『あの時の配球を教えてくださいよ』『いや、教えられないよ』といったたわいのない会話ですよ。
引退してからは、原(辰徳)の親父さんが亡くなった時に、葬式というかお別れ会に出たんですよね。うしろのほうで江川さんとふたりで立っている時に、何気なく『江川さんって講演とかしないんですか?』って聞いたら、『講演は苦手なんだよ』と答えるから、『じゃあトークショーは?』と聞くと、『トークショーかぁ。おまえとだったらやってもいいと』と。それで『じゃあ一緒にやりましょう』となって、何回かやったことはあります。でもうれしかったですよ。『おまえとだったらやってもいいよ』と言われた時は」
入団時の経緯から、球界内外で腫れ物扱いを受けていた江川だったが、本来の性格を知ると周りに人が集まってきた。それでも江川と本当の意味で親しくなったのは、ごく限られた人だけだった。
「江川さんって、入団の経緯があったから、めったに心を開かない感じなんだと思います。でも江川さんって、本来は面白くて明るい人なんですよ。だけど、周りの大人がよくなくて、多分しがらみとかあって、排除できなかったんでしょうね。あれだけの素材を独り占めしたいっていう大人たちが、高校時代からたくさんいたんだと思います。
やっぱり巨人に入ることがステータスを保つ一番の方法であり、高校時代からつくり上げてきた江川卓のブランド力を下げないためにも、巨人入団という大人たちの勝手な見解があったんでしょうね。江川さんはそんな大人たちに巻き込まれというか......江川さん自身、己の才能を一度は恨んだんじゃないかなって思っています」
高木だからこそ、江川の深奥に眠る気持ちを代弁してくれた気がする。江川の心の内は誰もわからない。ただこれだけは言える。才能が大きすぎるゆえに振り回されてしまったのは、江川卓本人だと。
(文中敬称略)
江川卓(えがわ・すぐる)
/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している
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