日本人初のメジャーリーガーの今。彼が続ける“一生の仕事”とは

日本人初のメジャーリーガーの今。彼が続ける“一生の仕事”とは

11月1日(金) 7:15

今年、メジャー初登板から60年という記念すべき節目を迎えた日本人初のメジャーリーガー村上雅則さんは、自身で開催するゴルフのチャリティーコンペなど通じて、国際的なスポーツ団体や国連の難民支援機関へ寄付を続ける社会貢献活動家としても広く知られている。きっかけとなったのは、伝説のメジャーリーガー、故ロベルト・クレメンテさんからかけられた何気ない一言。そのとき交わした約束は、半世紀近く経った現在でも村上さんを動かし続ける原動力となり、その心に深く刻まれているという。
ここでは村上さんの人生に大きな影響を与えたクレメンテさんとの出会いやこれまでに村上さんが取り組んできた社会貢献活動に関するお話をお聞きしながら、村上さんが社会貢献活動を続ける理由や野球選手が社会貢献活動を行う意義について深掘りしていきたい。
米球界で最も名誉ある賞の由来となった伝説のメジャーリーガー
村上雅則さんがロベルト・クレメンテにもらったサイン色紙(写真提供:スポーツネットワークジャパン)突然だが、皆さんはロベルト・クレメンテという伝説のメジャーリーガーをご存知だろうか? プエルトリコ出身で、メジャーリーグにおけるヒスパニック系選手の先駆けとしてピッツバーグ・パイレーツで活躍。持ち前の俊足・強打・好守を活かして、12回ものゴールドグラブ賞と4度の首位打者に輝き、通算3000安打の大記録を達成した名選手だ。
シーズンオフにはプエルトリコなどのラテンアメリカ諸国で野球道具や食料を寄付する社会貢献活動を熱心に行っていたことも広く知られており、1972年12月31日に起きたニカラグア大震災でも被災地に必要な物資を支援しようと、自身も飛行機に乗って現地に向かっていた。
ところが、その道中で飛行機が墜落し、38歳の若さで帰らぬ人に。この事故の一件を受けて、メジャーリーグ機構はその前年に創設していた慈善活動や社会貢献活動を行う選手へ贈る「コミッショナー賞」を「ロベルト・クレメンテ賞」に改称し、彼の栄誉を称えた。現在でもこの賞は「MVP以上の価値がある」という選手もいるほど、アメリカ球界で最も名誉のある賞となっている。
クレメンテさんから言われた忘れられない一言
そして、そんな偉大なプレイヤーからかけられた何気ない一言で、その後の人生に多大なる影響を受けた日本人投手がいる。日本人で初めてメジャーリーグの舞台に立った村上雅則さんだ。
今年80歳を迎えた村上さんは、高校野球の名門、法政二高から1963年に南海ホークスに入団し、翌年にサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1Aチーム、フレズノへ野球留学で派遣された。ホークスの関係者はまさかメジャーへ昇格することがあるなど、つゆほどにも思っていなかったというが、目覚ましい活躍を見せた村上さんは見事メジャーへの昇格を果たす。その後、同年9月にニューヨーク・メッツ戦で初登板すると、2シーズン通算で54試合に登板し、5勝1敗9セーブ。日本人初のメジャーリーガーとして確かな足跡を残した。
そんな村上さんとクレメンテさんが出会ったのは、村上さんがメジャー2年目を迎えていた1965年の夏のこと。場所は、ジャイアンツが遠征したピッツバーグの球場だった。そのときのエピソードを村上さんは次のように振り返る。
「練習終了後にロッカールームの暑さに耐えきれず、上着を脱いでバスタオル一枚でロッカールームの外で涼んでいると、突然、ひとりの男が『ヘイ、マッシー!』と声をかけてきたんです。初めて見る顔に『お前は誰だ?』と返すと、『俺はロベルト・クレメンテだ』と息巻いていました。そして、続けざまに『俺と(ジャイアンツの)ウィリー・メイズはどっちが上だ?』と聞くんです。
メイズはジャイアンツのチームメイトで、本塁打王と盗塁王を4回も獲った選手です。その年も52本の本塁打を放ち、シーズンのMVPを獲得するほどの成績を収めていましたから、当然、『メイズの方が上だ』と答えたんです。一方、クレメンテもその年にナショナルリーグの首位打者に輝くほどのトップ打者でしたから、メイズのことをライバル視していたんでしょうね。私の返答に対して、『何をこの野郎』という表情を浮かべていました」(村上さん)
日本人初のメジャーリーガーとして活躍していた当時の村上さんのお写真(中央)。右側に写るのは、ニューヨーク・ヤンキースでワールドシリーズ5連覇を成し遂げた名監督、ケーシー・ステンゲル氏(本人提供)そして、クレメンテさんとの会話はこれだけで終わることはなかった。しばらく会話を続けるなかで、彼は次のような印象深い言葉をかけてきたという。
「彼とはロッカールームの外でしばらく話していたんですが、『お前も大きくなったら、社会貢献活動をやってくれ』ということを訴えかけてきたんです。『大きくなったら』という意味は、『歳をとって選手として一人前になったら』ということだと解釈しましたけど、日本の野球界では選手が社会貢献活動をするなんて話をあまり聞いたことがなかったので、逆に印象的でしたね。当時はそこまで気にかけてはいなかったんですが、その後もふとしたときに思い出されれるほど、心に残る一言として脳裏に焼きついていました」(村上さん)
活動のきっかけは、スペシャルオリンピックス日本への寄付
転機が訪れたのは、1995年に知的障がいのある人たちへスポーツトレーニングの機会を提供する国際的な団体「スペシャルオリンピックス」の日本組織が発足したときだ。その設立に寄与した会長の細川佳代子さん(細川護煕元首相の妻)と村上さんの妻がたまたま友人同士で、妻から「こんな団体を立ち上げるんだけど、あなたも協力してみない?」と誘いを受けたという。
「そのときは『手伝えることがあったら、サポートするよ』って答えたんですが、ふと脳裏をよぎったのは、やっぱりクレメンテの言葉でした。生活の苦しい国から来てアメリカで成功した彼は、恵まれない状況にいる人たちの大変さを身をもって知っていたからこそ、社会貢献活動の本当の大切さをきちんと理解していたんだと思います。だから、初対面の私にもそんなお願いをしたわけです。この話をもらったとき、ついに彼との約束を果たすチャンスが来たと思いました」(村上さん)
これをきっかけに社会貢献活動を始めることとなった村上さんは、自身の大好きなゴルフでチャリティーコンペを行い、集めたお金を同団体へ寄付する取り組みをスタートさせた。初めはコンペの参加費だけを寄付に充てていたそうだが、回を重ねるうちに日本のプロ野球選手やメジャーリーガーからもらったサイン入りグッズをオークションにかけたり、日本ハムや大塚製薬といったプロ野球とつながりの深い企業に協賛を募るなどし、その規模を大きくさせていったという。
「チャリティーコンペはおかげさまで毎年の恒例行事となり、現在に至るまで30年近くも続けることができました。寄付先もスペシャルオリンピックス日本だけでなく、活動11年目から国連高等難民弁務官事務所(UNHCR)にも寄付を行っています。
また、その間にもいろいろな出来事があり、2001年に起きたアメリカの同時多発テロのときには、後年東北楽天ゴールデンイーグルスの初代ゼネラルマネージャーを務めることになるマーティ・キーナートに相談して、メジャーリーグのコミッショナーを通じて寄付を行いました。2011年の東日本大震災に際しては、翌年の3月に東京ドームで開催されたメジャーリーグの開幕戦(シアトル・マリナーズ対オークランド・アスレチックス戦)に、岩手県と福島県の少年野球の子どもたちをイチローが守るライトのスタンド席へ招待するという取り組みにも挑戦しています」(村上さん)
それ以外にも2004年の新潟県中越地震や2016年の熊本地震、2020年のシリコンバレーの山火事の際にも復興に向けた寄付を行うなど、村上さんはクレメンテさんの遺志を受け継ぐ慈善活動を数多く行ってきている。
当然ながらそうした活動は一人ではできないので、多くの人たちに協力をお願いする大変さもあると語るが、「私の寄付を通じて、障がいのある子どもたちが楽しそうにスポーツに興じ、その姿を見た親御さんたちからも笑顔がこぼれるような場面を見ると、『あぁ、やってよかったなぁ』と支援者冥利に尽きる喜びを味わうことができます。私の活動のエネルギーはここにあると思いますね」とこれまでを振り返る。
野球選手が社会貢献活動を行う意義
こうした長年の貢献が称えられ、昨年の10月にはスポーツ界から初めて、日米の交流に深く貢献した人に贈られる「マーシャル・グリーン賞」を受賞。また、今年の1月にも「第14回日本スポーツ学会大賞」を受賞するなど、社会貢献活動家として高い評価を得る村上さんだが、今後の展望について尋ねると、「日本でももっと社会貢献活動が広まってほしい」と選手や球界へ対する期待の言葉が返ってきた。
「やっぱり、野球選手はファンあっての存在だし、逆にファンの人たちにとってみれば、野球選手は憧れの存在。その関係性を上手く生かせば、野球選手たちは自分の活動次第で社会に良い影響を与えることだってできます。例えば、ファンの子どもたちが好きな選手が社会貢献活動をやっている姿を見たら、『自分も大きくなったらやってみたい』と思ってくれるかもしれない。別に高額である必要はないんだから、無理のない範囲で寄付をしてみるなど、ファンや社会に恩返しをする気持ちをもつ選手が増えてくれたら、嬉しいですね」(村上さん)
第14回日本スポーツ学会大賞の授賞式で、元阪神タイガースの投手で公認会計士の奥村武博さん(右)から賞金の目録を贈呈される村上さん(写真提供:スポーツネットワークジャパン)それでも近年は、大谷翔平選手が全国の小学校へ贈った6万個ものグローブやダルビッシュ有投手が寄付した能登半島地震への義援金が大きなニュースになるなど、昔に比べると日本でも社会貢献活動が広まりつつあるように感じる。しかし、ドネーション文化が根づくアメリカと日本の野球界を比較すると、アメリカでは社会貢献活動が組織的に行われているのに対し、日本では活動が選手の個人的なものに留まりがちだと村上さんは指摘する。
「日本の野球界で社会貢献活動を広めるカギは、プロ野球全体でもっと組織的な活動を行っていくことにあると思うんです。社会貢献活動といわれるものは、みんなが自然と参加したくなるくらいの気負わない感じでやるのが長続きの秘訣ですから」(村上さん)
クレメンテさんからかけられた何気ない一言をきっかけに社会貢献活動を始めた村上さんは、自身がそうだったように、みんなが自然とやりたいと思ってもらえるような形で次世代へと引き継ぎたいと考えているようだ。80歳となった現在でもそのように人や社会のために貢献しようと奮闘する姿は、日本人選手の先陣を切ってメジャーのグラウンドで投げていた頃と同じように輝いて見えた。

PROFILE村上雅則(むらかみ・まさのり) 1944年山梨県生まれ。1963年に名門法政二高から南海に入団し、翌年にサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1Aチーム、フレスノへ野球留学。5月に大リーグに昇格し、日本人初の大リーガーとなる。1965年には主にリリーフとして4勝1敗8Sという輝かしい成績を残した。1966年に日本のプロ野球に復帰し、1982年まで南海、阪神、日本ハムでプレー。1968年には18勝4敗で最高勝率のタイトルを獲得した。
引退後は解説者や評論家、日本ハム、ダイエー、西武の投手コーチ、サンフランシスコ・ジャイアンツの極東スカウトなどを歴任し、日本初の硬式野球全日本女子チーム「チームエネルゲン」の初代監督も務めた。長年の社会貢献活動が認められ、2023年に「マーシャル・グリーン賞」を、2024年に「第14回日本スポーツ学会大賞」を受賞。

text by Jun Takayanagi(Parasapo Lab)photo by Yoshio Yoshida
写真提供:スポーツネットワークジャパン

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