10月31日(木) 16:00
「かつては毎年、信心深いピーコさんはこちらに墓参に訪れていましたよ。実家を継いでいたのでしょう」(菩提寺近くの生花店店員)
10月19日、敗血症による多臓器不全のため亡くなったピーコさん(享年79)の納骨式が神奈川県横須賀市内にある菩提寺でとりおこなわれた。元マネージャーら数人が参列したが、そこに唯一の存命の身内、弟・おすぎ(79)の姿はなかった。2人の知人は言う。
「『おすぎとピーコ』として精力的に活動をしてきた2人でしたが、福岡に活動拠点を移したおすぎさんに’21年ごろから認知症の症状が出るようになりました。おすぎさんの独居生活が困難になり、2人の姉はすでに他界していたことから、ピーコさんは同年末、神奈川県内の自宅マンションにおすぎさんを呼び寄せ、同居するようになったそうです。
しかし、“老老介護”生活を始めて間もなくピーコさんにも認知症の症状が現れるように……。喧嘩が絶えず、3カ月もたたないうちに同居を解消したのです。おすぎさんは神奈川県内の介護施設に入所し、ピーコさんは再び一人暮らしとなりました」
スポーツ紙記者は言う。
「その後、一時は行方不明報道も出るなど、関係者らを心配させていたピーコさんでしたが、結局、昨夏、神奈川県内の介護施設に入所。本人の希望でおすぎさんとは別の施設でした」
横浜市出身のピーコさんは高校卒業後に横浜トヨペットに入社し、サンヨーレインコートに転職した。26歳でドラマ衣装の製作依頼を受けたのを機に芸能界へ。
「ワイドショー『3時にあいましょう』(TBS系)で始まった“ファッションチェック”は、ピーコさんの代名詞になりました。同性愛者であることを公言し、手厳しくも温かい特有のおネエ口調で親しまれました。そんなピーコさんの人生を大きく変えたのは’89年、44歳のとき診断された悪性黒色腫との闘病生活でした」(前出・スポーツ紙記者)
「30万人に1人」といわれる眼球内の発症だった。左目を摘出する手術を受け、抗がん剤の副作用による脱毛で命を絶つ選択肢も考えたというピーコさんだったが、思わぬサプライズが待っていた。かつてのインタビューで、当時をこう振り返っていた。
《義眼って1つ作るのに30万円くらいかかる。おまけに最初のうちは年に20個くらい付け替える必要があるから大きな出費だった。そしたら永六輔さんや黒柳徹子さんたちが私に義眼をプレゼントする会を結成してくださったの。1口1万円で300人の方が寄付してくれたのよ。
その会の中に私が嫌っていた人の名前を見つけた時に、いかに自分が多くの人に支えられて生きてきたのかを思い知らされた。そこから他人に優しい性格になれたの。闘病は人を変えるのね》(『週刊ポスト』’17年2月24日号)
片目を失ったことで、むしろ視野が広くなったと語っていたピーコさん。人生観も大きく変化したようだ。前出の知人は言う。
「“欲がなくなって、お金もダイヤも毛皮も何もほしくなくなった”とよく言っていましたね」
そんなピーコさんが近年、仕事のモチベーションにしていたことが―。テレビ局関係者は言う。
「ピーコさんの訃報を受け、公私ともに親しかった桂南光さんが21日、関西ローカルのテレビ番組で生前の思い出を語りました。南光さんはかつてピーコさんに、“なぜ大阪のレギュラー番組を受けたのか”と聞いたら“好きな人が大阪にいて一緒にご飯を食べているから”と答えたそうなんです」
好きな人に会って癒されるため、仕事に励む。それがピーコさんの流儀だったようだ。“好きな人”について、かつてこう語っていた。
《私の場合、好きになる相手はいつも、ゲイの方ではなくて、女性を恋愛対象とするストレートの男性です。だから基本的に、結ばれることはないのね。だけど、こちらが本当に好きで、相手のことを一所懸命に考えてあげれば、嫌がる人はいないものですよ》(『婦人公論』’16年4月12日号)
菩提寺のお墓の後ろには、真新しい卒塔婆が1本だけ立っていた。日付は納骨日の10月19日。施主は「杉浦孝昭」、おすぎの本名だった。参列者が設置したのだろう。
■「金曜の夕食はよくおすぎさんと3人で」
記者が菩提寺を取材していると一人でそのお墓に献花し、お線香をあげている50歳前後の男性が。
「旧知の彼のマネージャーと連絡を取って、初めてこの寺に来ました。彼女も喧嘩別れしたような感じだったのに、身元引受人が誰もいなかったとかで納骨されたようです」
墓の前で故人を思い出すかのように、長い時間動かなかった。聞くと、テレビ局関係者だという。
「晩年は、名古屋や大阪のテレビによく出演していたんです。名古屋ではおすぎさんともよく合流していて、金曜の夜には、決まったようにおすぎさんと私の3人で、食事に行ったり、その後は名古屋の駅ビルの上階のバーで彼はシャンパンをよく飲んでいましたね。
番組では、ぶっきらぼうな話し方をしますが、実に面倒見のいい人で、優しかったですよ。東京では、当時青山に事務所があって、近くのバーに行ったときには、ウイスキーを飲んでいたかな」
最後に会ったのは4年ほど前だったという。
「コロナ禍中もメールのやり取りはしていましたけれど、2年前くらいからは、音信不通でした。だから、どうしているのかなあと思っていましたが、突然でした。あとは弟のおすぎさんが、ここに入るのでしょうが、その後は、誰も継ぐ人がいないようですね。
時間がたった後に、自然に墓じまいになるのでしょうか……」
無念の表情だった。ピーコさんはお墓参りを大事にしていた。インタビューでもこう語っている。
《毎年お墓参りは欠かしません。年頭、命日、お彼岸、それに夏休みで時間がとれるときには必ず行ってますね》(『産経新聞』1998年8月11日付)
晩年は孤独だったと報じられたピーコさん。だが、“最愛の人”が墓を守ってくれるかもしれない。