「少し期待しつつも、あきらめかけていた。指名されてうれしいです」
育成ドラフト3位で東京ヤクルトスワローズへの入団が決まり、直後の記者会見で開口一番こう語ったのは、オイシックス新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ(以下、オイシックス)の下川隼佑。中央球界では無名だが、22年に新潟に入団した1年目からNPB側から調査書が届くほどの隠れた実力者なのだ。
今年は「勝負の1年」と決めていた
地上15センチの高さから放たれる、来るのがわかっていても打てないストレートが下川の武器である。24年限りで退任する橋上秀樹監督は、「面白い存在だと思って注目していました」と下川のことを振り返り、こう続ける。
「独立リーグ時代、どのチームのバッターも下川のストレートには手こずっていました。私も実際に打席から彼の球筋を見ましたが、打者の手元でグイッと伸びてくるような感覚があるんです。初見ではそう簡単には打てないだろうなと感じていました」
22年に入団しBCリーグででは2年間で47試合に登板。15勝7敗、193回3分の2を投げて奪三振176という数字を残す。22年から2年連続でプロ球団から調査書が届いたものの、ドラフトでの指名にはいたらず。今年はオイシックスがNPBに参加することもあって、シーズン前から「勝負の1年」と決めていた。
「どこにでもいる、平凡なピッチャー」だった
下川の球歴は異色だ。2000年3月22日に神奈川県横浜市で生まれ、富岡小時代に軟式野球を始め、湘南工科大付属に進学し投手に転向。このときからアンダースローで投げ始めたが、高校3年間での最高球速は110キロに届くかどうかくらい。本人いわく「どこにでもいる、平凡なピッチャー」だった。
3年生最後の夏の神奈川大会では、1回戦で深沢と対戦し5対7で敗退。とにかく大学で野球をやりたい一心で選んだのは、神奈川工科大だった。大学野球部の強豪とは違い、授業を優先させるため、平日の練習時間は夕方から夜にかけて、限られた時間でしか行うことができない。それでも、厳しい環境をものともせずに、体力強化とピッチングの技術を磨き続けた。
筆者は今年の12月にオイシックス新潟にまつわる書籍を上梓することもあり、この1年間、密着取材を続けていた。下川も取材したうちの1人で、「球速が上がり始めたきっかけは、何かあったんですか?」と聞くと、こんな答えが返ってきた。
「大学3年の秋に、『球速を上げてくれる』という評判のインストラクターのもとで、体のメカニズムや体の使い方、トレーニング方法などを教わりました。数ヵ月間通い続けていたら、本当に球速が上がったんです」
肉体改造を経て「130キロ後半」の球が放てるように
今やメジャーリーガーとなった今永昇太や、西武に23年ドラフト1位指名され10勝を挙げた武内夏暉、同じ年に日本ハムからドラフト1位指名された細野晴希ら、プロのトップアスリートも頼るのが、「DIMENSIONING」の北川雄介トレーナー。彼との出会いが下川を変えた。1年生から3年生の秋まで大学のリーグ戦での登板が1試合もなかっただけに、彼にとってはすがる思いで北川の下でトレーニングを行うと、その効果は早い段階で見られたというのだ。
「球速を上げるための肉体改造を行ってからは、微調整の繰り返しでした。今でこそ130キロ後半まで出るようになりましたが、当時はピッチングフォームを少しずつ少しずつ、改良を加えていく段階でした」
大学を卒業し、新潟に入団して迎えた1年目の秋。ドラフト候補として下川の名前が浮上したとき、高校時代の友人から連絡が来た。
「『オマエがドラフト候補になっているって本当?』と聞かれたんです。インターネットにそうした情報があがっていたようで、僕が『本当だよ』と返すと、『高校時代は100キロ台のストレートしか投げられなかったオマエが?』と、信用してもらえなかったんですよ」
と笑いながら当時を振り返る。
1年間投げ抜き、奪三振王のタイトルを獲得
24年は、当初は先発を中心に登板する予定だったが、シーズン中盤からはリリーフもこなし、チームの勝利のために懸命に腕を振った。橋上監督に考えがあった。
「先発だとペース配分を考えてしまうせいか、失点されるシーンがたびたびあったんです。そこで、短いイニングで全力で投げて抑えきることも彼には必要だと考えていました」
その結果、下川は40試合に登板して4勝8敗、防御率3.86、112回を投げて奪三振108という成績を残し、奪三振王のタイトルを獲得。これにより、BCリーグの倍以上の試合数をこなすイースタンリーグで1年間、故障なくシーズンを乗り切ったことで、「上でもやっていける」と自信を持つことができた。
今年の6月、筆者は下川にインタビューした際、こんな質問をした。
「もし育成で指名されても、プロには行きますか?」
すると、下川は目を輝かせながら答えてくれた。
「もちろん行きます。順位なんて何位だっていいんです。たとえ育成でも12球団に指名されれば、一軍の舞台に上がるチャンスができる。わずかであるかもしれませんが、どうにか食らいついてものにしたいんです」
「第二の故郷」新潟のファンのためにも…
10月24日のドラフト当日、育成指名の3巡目に入り、ヤクルトの番になると下川の名前と所属先が読み上げられる。19時58分、ドラフトが開始されてから3時間以上が経過していた。
「指名が決まった瞬間、野間口(貴彦・オイシックスチーム強化アドバイザー兼ヘッドコーチ)さんと握手をしました」と後の会見で語った下川。指名から5分も経たないうちに、新潟日報メディアシップの1階のパブリックビューイングでドラフトの中継を見ていたオイシックスのファン80人近くが集まる場に下川が登場すると、大きな歓声が上がった。
その後、同ビルの20階で記者会見が行われた際、橋上監督はこう後押しした。
「クライマックスシリーズでは、横浜(DeNAベイスターズ)の中川投手がアンダーハンドのピッチャーとしていい投球をしていました。アンダーハンドが少なくなっているなかで使えるんじゃないかと。ヤクルトの高津監督も同じタイプなので、下川にとってはプラスの要素になるんじゃないかと思います」
6月のインタビューの最後に、下川はこう締めくくった。
「新潟は僕にとって大きく成長させてくれた場所でもあり、第二の故郷なんです。温かく見守ってくれて応援し続けてくれた新潟のファンのみなさんのためにも、この先NPBの一軍の舞台に立つことができたら、臆することなく勝負に挑みたいと思っています」
「どこにでもいる平凡なピッチャー」が、NPBの世界に入ってこの先どう飛躍していくのか。下川のサクセスストーリーはまだまだ続いていく。
<取材・文・撮影/小山宣宏>
【小山宣宏】
スポーツジャーナリスト。高校野球やプロ野球を中心とした取材が多い。雑誌や書籍のほか、「文春オンライン」など多数のネットメディアでも執筆。著書に『コロナに翻弄された甲子園』(双葉社)
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