テールパイプから炎を吹き出すシュパン・ポルシェ962CRを、ここまで徹底的に走らせたロードテストはこれまでなかったはず。サーキット生まれの”ユニコーン”でありながら公道も走行可能なマシンを、デッキー・ミーデンが操った。
【画像】公道を走る準備は万端!伝説のマシン、ポルシェ962CR(写真10点)月面を歩いた人類の数よりも、シュパン・ポルシェ962CRを本気で走らせたドライバーのほうが少ないだろう。一時的にせよ、世界でもっとも速く、そしてもっとも高価(専門家のカール・ルドヴィクセンによれば150万~190万ドル、当時のレートでおよそ1億7000万円〜2億1000万円)とされたこの車は、ハイパフォーマンスカーの常識を塗り替えた1台でもあった。異様な出で立ち、傑出した性能、そして最先端のボディ構造などは、”オリジナル”"ら拝借したヘッドライトのデザインとともに見る者の想像力を激しくかきたてたが、わずかな台数が製造されたところで、残念ながらプロジェクトは頓挫してしまった。
様々な騒動とあっけない幕切れからおよそ30年。シュパン-ポルシェ962CRは一部の熱狂的ファンの間でカルトな存在となっていた。多くのミステリーに包まれ、大量のオーダーが舞い込むチャンスを棒に振った男の物語は、大ヒット小説並みに興味深いものがある。ポルシェの元ワークスドライバーにして1983年ル・マン24時間の覇者であるオーストラリア出身のヴァーン・シュパンは、世界的な景気後退と誠実とは言いがたい出資家たちのダブルパンチにより、かつて抱いた大きな夢を打ち砕かれることになったのだ。
962CRのいま
では、彼自身の名前を掲げたスーパーカーはどうなったのか?ハイ・ウィカムのヴァーン・シュパン・リミテッド(VSL)では6台が製作されたものの、うち1台は火災で失われ、残りはコレクターの手に渡ってひと目に触れる機会は消えてなくなった。もともとこのプロジェクトは、日本のアートスポーツからの20台のオーダーをきっかけに始まったものだが、彼らは1台あたり30万ポンド(当時のレートで約5000万円)の信用状(輸入元の銀行が売り手である輸出者に支払を保証する確約書のこと)と引き換えに3台を手に入れたとされる。
ストーリーテラー、キッドストン
これが、過去何十年もの間、事情通の間で信じられてきた内容である。いっぽうで、長年にわたり多くの人々が抱いてきた疑問が「962CRは、どれくらいいい車だったのか」というものだった。しかし、クラシックカーブローカーで本物の車好きであるサイモン・キッドストンが2022年にこの1台を手に入れたことで、事態は動き始める。ほかのシュパン・ポルシェと同じように、この車も累計で数マイルしか走行していなかったが、ほかの車とは異なり、そのオーナーは公道とサーキットで”有意義な距離”を走らせるべきとの思いに至ったのである。
自動車販売業を営むキッドストンが自分の利益に関心を持っているのは当然のことだが、彼は自動車に関するストーリーテラーでもある。まだ一度も語られたことのないシュパン・ポルシェに関する物語が、恐ろしく興味をそそられるものであることは間違いない。そこで、彼は次のようなアイデアを思いつく。まず、短い動画を作成し、『The Flaming Unicorn』としてYouTubeで公開。実車が走る姿を紹介することにより、これまでの「安っぽい噂話」を「核心に迫る実話」に塗り替えようとしたのだ。
これを実現するには、多くのスーパーカーを扱ったことのあるドライバーを探さなければならない。なかでも956や962を走らせた経験が重要だ。やがて、ポルシェ・スペシャリストであるリー・マックステッド-ペイジの口から私の名前が挙がったらしい。そして、このオファーを受け入れた私は、人生でも忘れ得ない2日間を過ごしたのである。
まったくの休眠状態にあったCRは、キッドストンの働きかけにより、マックステッド -ペイジと彼の有能なポルシェ・エキスパートたちに再委託された。メカニカルな部品はすべて完璧な状態に調整され、インテリアやエンジンルームも美しく仕上げられ、ついにテストを行なう準備は整った。興味深いことに、962CRの有意義なインプレッションが語られるのは、まさにこの車が完成したばかりの頃、テレビ番組の『ビクトリー・バイ・デザイン』に出演する、故アラン・デ・キャドネが行って以来のことだという。
マックステッド-ペイジのクルーが納得いくまで作業を行なったところで、CRが”ロックン・ロール”を踊る準備は整った。謎に満ちたマシンはトレーラーに積まれ、ノース・ウェールズに運び込まれた。目的地は、アングルシー島の美しい海岸線にほど近いタイ・クロイス・サーキットだ。ここで、私の勇気の続く限りスロットルペダルを踏み込んだ後、翌日はスノードニアの美しい一般道に舞台を移し、イギリスでもっとも素晴らしいとされるドライビング・ロードでCRがどんな振る舞いを見せてくれるかをチェックするという趣向だ。
カーボンコンポジットに包まれたCRをひと目見たら、あなたはその姿が忘れられなくなるだろう。ネット上ではこれまでに何度も目にしてきたが、トレーラーからゆっくりと降ろされ、アスファルト上に降ろされたその姿態は、また格別なものだった。全高はリンボーダンス用のバーより低く、全幅が1マイルはありそうなボディは、想像していたより小振りだったものの、抜群の存在感を放っている。現代のどんなロードゴーイング・スーパーカーと比べても、決して劣らないスタビリティとグリップ力を期待させるデザインだ。
幅広いトレッド、長いホイールベース、そして実質的にゼロといって差し支えのない前後のオーバーハングは極めて異例だが、CRの容姿をていねいに眺めていくと、実によく練られた造形であることに気づく。それもそのはず、このスタイリングを描きだしたのは、現在、GMのシニア・バイスプレジデントとして同社のグローバルデザインを統括しているマイク・シムコーその人だ。これは、レーシングカーを改造しただけの完成度の低いスポーツカーではなく、”正しく”作られたロードゴーイングカーをシュパンが世に送り出そうとしていた事実を物語っている。
CRのボディワークやシャシーはカーボンファイバーで製作された。カーボンタブの開発、そして最初の5台分の生産はアドバンスド・コンポジット・テクノロジー(ACT)の手に委ねられたが、その後はレイナードが製作を請け負った。いまではめずらしくないボディ構造だが、1990年代初頭としては極めて革新的で、最先端のマシンを作り上げようとするシュパンの意気込みが感じられるものだ。
トム・ウォーキンショウが史上初のフルカーボン・ロードカーであるジャガーXJR-15を1990年に作り上げたとき、世界中が騒然となったが、その直後にはシュパン962CRとマクラーレンF1のデビューが控えていた。これら3台のうち、シュパンとジャガーの2台がグループCレースで実績を積んだハードウェアをベースにしていたという点において、マクラーレンF1とは一線を画していた。
そのマクラーレンが、もともとレースに参戦する計画をまったく想定していなかったにもかかわらず、純粋なロードカーとしてル・マン24時間を制した最後の例となったことは偶然でもなんでもない。いっぽう、ほかの2台に比べると、F1の生産台数は合計106台(このうち64台がロードカー)と圧倒的に多かった。ちなみにXJR-15は計50台が生産されたが、そのうちの16台は、注目度抜群で賞金も破格なワンメイクレースのために製作された。
シュパンのプロジェクトも、日本からのオーダーだけで50台の生産が見込まれていた。ところが、最初のプロダクションカーが納品されたところでバブル景気が弾けてしまう。日本にいたシュパンの支援者はオーダー数に関する前言を撤回。それでも当初は20台と主張していたが、やがて10台へと落ち込み、最終的には3台のみ購入することが決まる。いっぽうのシュパンは、20台の販売契約を盾に戦ったものの、とうとう日本側は2台目と3台目の代金を払えないとまで言い出した。しかも、問題の2台目と3台目は、すでに完成していただけでなく、東京へと向かうブリティッシュ・エアウェイズのボーイング747に積み込まれていたのだ。
弁護士が様々な手を打っている間にも2台のCRは飛び続け、ついには成田空港に着陸。しかし、日本の支援者たちはそれらを受け取ることなく、数カ月間にわたって”押収”された格好となる。それでもシュパンは、最終的にCR04(今回の試乗車だ)を取り戻すことに成功。やがて車両はアメリカのバイヤーが買い取ったものの、そのままイギリスに留まり、一度も走行する機会はなかったという。
この頃には、シュパン自身も非常に難しい立場に追い込まれてしまい、結果的には、すべてを投げ打って高等法院で法廷闘争を繰り広げることとなる。しかも最終的にこの裁判に敗れた彼は、なにもかも失い、破産に追い込まれてしまう。それは残酷で過酷な幕切れだった。
CR04
それも、いまや昔話。ありがたいことに、その後のシュパンは次第に幸運に恵まれるようになる。それはCR04も同じことで、キッドストンがオーナーになると長い休眠状態から目覚め、それは前述のとおり、ショートムービーの収録とこの記事でクライマックスを迎えたのである。
一般的なスーパーカーのつもりでCRに乗り込むのは難しく、これがレーシングカーだと思い込まなければならない。唯一、一般的なレーシングカーと異なるのは、美しい生地が貼られたシートに土足で踏み入れる代わりに、まずは左足でサイドシルを跨ぎ、続いてシートと脱着式ステアリングホイールの間に身体を滑り込ませる格好になることだ(いざというときのために、これは覚えておいたほうがいい)。
具体的には、最初に身体を支えるポイントを見つけ、続いてルーフにもたれかかってからサイドポッドに体重を預けた後、右足を大きく上げてからコクピットのなかに収め、最後は固定式シートに向けてむずむずと身体を移動させていくことになる。シートバックは強く寝ているので、冷や汗をかくこともなければマウスウォッシュの匂いも嗅ぐこともないまま、歯科医の診療用椅子に座っているような気分が味わえる。しかし、ひとたびコクピットに収まれば、自分がまるでデレック・ベルになったような錯覚に襲われることだろう。もしくはヴァーン・シュパンになったような思いを…。
・・・
【後編】に続く。
編集翻訳:大谷達也Transcreation:Tatsuya OTANI
Words:Dickie MeadenPhotography:Aston Parrott
THANKS TO Kidston SA
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