ビューティー・ペアは全女のリングを歌でも盛り上げた元東スポの柴田惣一が明かす不仲説の真相

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ビューティー・ペアは全女のリングを歌でも盛り上げた元東スポの柴田惣一が明かす不仲説の真相

10月29日(火) 16:55

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プロレス解説者柴田惣一の「プロレスタイムリープ」(8)

(連載7:WWE殿堂入りの「極悪同盟」ブル中野の波乱の人生「いまだ熱心なファンも多い」>>)



1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス取材を続けている柴田惣一氏。テレビ朝日のプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』では全国のプロレスファンに向けて、取材力を駆使したレスラー情報を発信した。

そんな柴田氏が、選りすぐりのプロレスエピソードを披露。連載の第8回は、クラッシュ・ギャルズ以前にリング上で歌を歌い、大人気となったビューティー・ペア。1976年2月にジャッキー佐藤とマキ上田で結成され、1978年の「日本レコード大賞」で企画賞を受賞。Netflix『極悪女王』にも登場した、世間に女子プロレスを広く認知させたふたりについて柴田氏に聞いた。

ビューティー・ペアで人気を博したジャッキー佐藤(左)とマキ上田 photo by 東京スポーツ/アフロ

ビューティー・ペアで人気を博したジャッキー佐藤(左)とマキ上田 photo by 東京スポーツ/アフロ





【対照的なふたりが大人気に】――話題のNetflix『極悪女王』では、ジャッキー佐藤さんのことも描かれていましたね。

柴田:1974年にデビューして女子人気を集めたマッハ文朱の後を受けて、1976年2月にマキ上田とビューティー・ペアを結成し、同年11月にデビューシングル『かけめぐる青春』を発売。その頃の会場にはまだ中年男性が多かったし、当初はビューティー・ペアがリング上で歌っていても「ふ~ん」という感じで"トイレタイム"にしているファンもいた。それが、だんだん会場に女子中高生が増えてきて大ブレイク。でも、ペアの定石ですが、ふたりの仲はあんまりよくなかったんですよ。

――そうだったようですね。

柴田:ジャッキーは一日中プロレスのことを考えるような人で、全日本女子プロレスに自ら入門。一匹狼的なところがあり、自ら率先して動くタイプでした。一方でマキは、お父さんに「体がでかいし、プロレスでもやれ」と勧められて、地元・鳥取の農業高校を中退して入団した。自ら「私が、私が」と前に出るタイプじゃなくて、人に合わせる感じだったから性格的に合わなかったんじゃないかな。

マキはいい意味でマイペース、「人の話をあまり聞かない」とも言われてました。練習中に先輩レスラーが技などの手本を見せる時も、あまり見ていなかったそうですよ。ビューティー・ペアのLPレコードに練習時の様子が収録されているんですが、そのなかに「見ていろ!マキ!よく見ていろ!」ってコーチの声が入っていたこともありましたね。

【ペア結成から約3年後に解散・引退】――当時のふたりの人気はいかがでしたか?

柴田:人気はジャッキーのほうが高かったんじゃないかと。会社としては「宝塚歌劇団のように」したいという戦略が大当たりで、ジャッキーが"男役"でマキが"女役"でした。ジャッキーに憧れて女子プロレスラーになった、という若い選手も多かったですよ。ボーイッシュというか、ちょっと影のあるクールな感じが格好よかった。

ただ、さっきも言いましたが『かけめぐる青春』はすぐには売れなくて、本人たちが会場で客席を回って手売りしていました。少しずつテレビの歌番組にビューティー・ペアが出演するようになってジワジワと売れ始め、徐々に女の子のファンが増えてきた。マッハ文朱がスターだった時期も会場には女の子が増えたけど、ビューティー・ペアでファン層が一気に若い女性に入れ替わりましたね。

――マッハさんも歌手デビューしましたよね。

柴田:もともと、マッハは13歳で『スター誕生!』に出場して、同大会では山口百恵と一緒だったんですよ。でもマッハはスカウトされなかったから、のちに「山口百恵に敗れたマッハ」と呼ばれていましたね。

プロレスラーになった後の1975年3月に発売した、マッハの『花を咲かそう』は約40万枚の大ヒット。それが売れたから、全女を創設した松永兄弟としては"二匹目のドジョウ"を狙ってビューティー・ペアもレコードデビューさせたんです。

――人気を誇ったビューティー・ペアですが、1979年1月の後楽園ホールで、ペアの解散と引退をかけて直接対決することになりました。

柴田:一説では、マキがアイディアを出したとも言われていますね。ただ、僕としては、松永兄弟が「ビューティー・ペアの人気もピークを過ぎた。代わりになるレスラーを育てなければいけない」と考えて「マキ上田、引退」という展開に持っていったと思っています。

――『極悪女王』でも、そのように描かれていましたね。

柴田:マキ本人も、そういう風に話しています。すでにジャッキーも松永兄弟も他界していますから確かめられないですが......。最後の直接対決はジャッキーが勝って、マキは引退しました。

――マキさんは引退後、スーパー戦隊ヒーロー『バトルフィーバーJ』に悪役・サロメ役で出演。現在は飲食関係の仕事をしていますね。

柴田:ファンの方と結婚して、浅草で釜めし屋をやっていますね。幸せそうでよかったです。

【解散後のジャガーと、全女にもたらした影響】――1981年2月、WWWA世界シングル王者だったジャッキーさんは、ジャガー横田(当時:横田利美)さんに敗れて王座から転落し、同年5月に全女を引退。その後はスポーツジムやブティックを経営していましたが、1986年8月、秋元康さんがアドバイザーとなった「ジャパン女子プロレス」で現役復帰しました。

柴田:最初からジャパン女子はアイドル路線でした。全女がクラッシュ・ギャルズで大成功したから"プロレス版おニャン子クラブ"をコンセプトとして後楽園ホールで旗揚げ。旗揚げ戦では、本田美奈子や少女隊がリング上で歌を歌い、アントニオ猪木さんも来場していた。ただ、長くは続かなかったですね。ジャッキーも1987年7月に神取忍(当時:神取しのぶ)と一騎打ちをしてギブアップ負けし、翌年3月に現役を引退しています。

――ジャパン女子は、1992年1月の熊本大会で解散しました。

柴田:ジャパン女子もいろいろと頑張りましたけど、全女には太刀打ちできなかったのかな......。実際、身体の作り方ひとつとっても、全女のノウハウはすごかったです。今でも全女のOBのなかには現役で戦い続けている人もいる。全女最後のWWWAシングル王者、高橋奈七永もそうですよね。他の団体の選手と体の鍛え方も違うし、体格もガッチリして基礎もできていますよ。

――人気選手に憧れて入門した人が多い分、活躍する選手が育つ確率も高くなりますからね。

柴田:そうですね。「ジャッキーになりたい」と全女に入ってきたなかでの代表的な選手は、ミミ萩原やジャガー横田、大森ゆかりでしょうか。

――ミミさんは1972年にアイドル活動を開始し、1978年に女子プロレスラーに転身しました。

柴田:1978年2月に横田戦でデビュー後、連戦連敗で87連敗。1981年までまったく芽が出なかったですね。ただ、ジャッキーとは仲がよかった。1981年2月にジャッキーが横田に敗れてWWWAシングル王座を奪われた日、ミミはヒールユニット「ブラック・ペア」の池下ユミを破ってオールパシフィック王座を奪取しました。

「ブラック・ペア」といえば、池下と阿蘇しのぶによるビューティー・ペアのライバルチーム。このふたりはチーム名が「ブラック」だから、「普段から黒い服を着ろ」と会社から言われ、上から下まですべて黒の衣装でしたね。

当時は「推し」なんて言葉はありませんでしたが、徹底的に応援する風潮があって。ブラック・ペアも、ビューティー・ペアほどじゃないけどファンが多くて、ファンは自分たちも黒ずくめの服を着るという"掟"があった。ただ、ビューティー・ペアのファンから"攻撃"されていたようですけど。その後は、ヒール役をデビル雅美が受け継いで、ビューティー・ペアが去った後の全女をジャガー、ミミ、デビルの3人が支えました

――『極悪女王』では、新人時代のクラッシュ・ギャルズ、ダンプさん、クレーン・ユウさん、大森さんの「55年組」が集まっている部屋に、いきなりジャッキーさんが現れるシーンがありますね。

柴田:ジャッキーは後輩にも慕われていましたからね。イジメもなかったと聞きます。ちなみに、ダンプと大森は1988年に電撃引退を発表して、ふたりで「桃色豚隊(ピンクトントン)」というユニットを組んで、シングル『赤いウインナー逃げた』でCDデビューしました。作詞を担当したのが、ジャパン女子プロレスのアドバイザーだった秋元康というのも、運命を感じますね。

――ビューティー・ペアは女子プロレス人気を高め、解散・引退の後の影響も大きかったんですね。

柴田:クラッシュ・ギャルズのファンも熱かったけど、ビューティー・ペアのファンの熱狂ぶりもすごかったですからね。耳をつんざく黄色い大声援で、放送席の実況アナや解説者は声を張り上げないといけなかった。ファンは勝てば飛び上がっての大喜びで、負ければ大泣き。感情むき出しの応援で、試合後はクタクタに疲れ果てて動けなくなる人もいました。

ジャッキーが会場を去る時などは、近寄ろうとする新しいファンを古参のファンが制して、お見送りの道を作っていました。新規ファンは「ジャッキーさん」、古参のファンは「佐藤さん」と呼ぶなど、ファンの上下関係も厳しかったですね。

【プロフィール】

柴田惣一(しばた・そういち)

1958年、愛知県岡崎市出身。学習院大学法学部卒業後、1982年に東京スポーツ新聞社に入社。以降プロレス取材に携わり、第二運動部長、東スポWEB編集長などを歴任。2015年に退社後は、ウェブサイト『プロレスTIME』『プロレスTODAY』の編集長に就任。現在はプロレス解説者として『夕刊フジ』などで連載中。テレビ朝日『ワールドプロレスリング』で四半世紀を超えて解説を務める。ネクタイ評論家としても知られる。カツラ疑惑があり、自ら「大人のファンタジー」として話題を振りまいている。

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