もし我が子が不登校になったとしたら、親としてどのような見守りをすればよいか。正解のない問いに頭を悩ませる人は多い。神奈川県内で英会話講師をしている難波美保子さんは、かつて長男の不登校を経験した。5年強もの間だ。その後、東京大学へ進学。どんな状況においても子どもの学ぶ意欲を折らない子育てとは――。
「勉強がしたい」と涙する長男の姿を見て…
3児の母である難波さんは、過去に留学経験もある国際感覚の持ち主だ。研究職のご主人と結婚し、長女を出産した。留学中に出会った先生が発達心理学に造詣が深かったことから、子どもたちの成長を繊細に観察することができたのだという。
「当時の日本ではまだそれほど知見が広がっていなかったのですが、今思うと子供たちが幼かった頃から彼らが繊細で高IQの持ち主ではないかと薄々察していました。実は私自身もそのような性質があったと両親から聞いたことがあったんです」
その中でも長女は特に繊細だと難波さんは思っていたが、難波さんにとって意外だったのは、そうした一面を持つ長女のみならず、長男もまた繊細な子どもだったということだ。
「正直、長男は気難しいところもなく、まったく普通だなと思っていました。長女が大学受験に受かったあたりで、小学生だった長男が市内にある中高一貫の市立の学校を受験したいと言い出したんです。でも私の仕事の都合で送り迎えができず、その旨を伝えると、ポトポトと涙を落として泣きじゃくりました。『勉強がしたいのに』と涙ながらに言うんですね。そのくらいから、繊細なところのある子なんだなと気づきました。なんとか都合を整理して、塾に通わせることに成功し、長男もまた志望校に合格することができました」
数学の才能を発揮するも、暗雲が立ち込める
難波さんは長男を普通だと思っていたと話すが、その非凡さの片鱗はすでに見えていた。
「幼稚園時代から公文式に通わせていたのですが、当時から算数/数学は好きだったと思います。小3くらいで数学の高校課程はやっていました。小6のころに公文の高校過程を終了し、最終試験を受験して満点だったと公文の先生からお電話を頂戴しました。しかし当時の私には、それがどれほどすごいことなのか、あまりぴんと来ていなかったんです」
高い学力を持ち、順風満帆かと思われた学校生活に暗雲が立ち込めたのは、入学後すぐだった。
「長男は周囲に恵まれて、いろいろな人に可愛がられるタイプの子です。ただ、昔からモノを失くしたり、忘れ物をしたりする傾向が顕著にありました。『天然なかわいい子』だと思われて、そのたびに周囲に助けられてきたんです。ちなみに中学受験の際も、塾の先生から『君はこの先、一生ケアレスミスをするだろうけど、君の才能で数学の難問を解くことができれば合格するから』と言われていました。ところが中学入学後、すべての科目において器用にこなす子たちが並ぶなかで、数学の才能のみを発揮する息子は目立つ存在になっていました。でも本人はつらかったと思います。なぜなら息子は自分の一番足りない部分にだけ目を向けていたのだから」
担当医に「高IQのひずみが現れている」と言われた
長男の“一番足りない部分”については、こんなエピソードからもわかる。
「提出物を忘れてしまったりするので、先生からも頻繁に注意を受けていて、保護者としてはハラハラしながらみていました。没頭すると他のことがわからなくなってしまう性質があり、たとえば深夜にリビングでひとり公文の宿題を書き散らしているんです。中身を見ると、大学の数学でした。没頭する彼に声をかけたら『今、何時?』と驚いていました。そんなに数学は打ち込めるのに、明日の宿題は終わっていないんです。準備さえしていない。
相談した担当医に『高IQのひずみが現れている』と言われたことを思いだします」と難波さんは言う。能力の凸凹が受け入れられる土壌があるうちはよかったが、徐々に足かせになった。
「思春期に差し掛かり、本人もきっとそうした自分の性質を疎ましく思う場面があったかもしれません。明確な身体の不調としてではなく、いろんな形でそのストレスは出てきました」
具体的な長男のSOSは、たとえばこんな形で現れた。
「登校したはずの長男から電話がかかってきて、『足が地面にくっついて、動かなくなっちゃった』というんです。急いで車で迎えに行って保健室に送り届ける、ということがたびたびありました。画一的に進んでいく学校教育の洗礼を受けて、教育現場との不協和音を感じながらの生活は、本人も辛かったと思います。結局、中学1年生から2年生にあがるころに、不登校になりました」
学校へ行くことを強要しなかった
長男が不登校でいる間、難波さんが午後に仕事を始めるまでの間は、2人きり。こんなやり取りを今でも覚えているという。
「2人で、いろんなことを話しました。長男が頭のなかで考えていることを私に全部言葉にして差し出してくれるような時間でした。学校教育について、世の中に感じる矛盾点について、などなどです。でも最後、必ず長男は『友達や先生からひどい扱いを受けて学校を休んでいるわけじゃないし、学校教育というシステムがあるのも仕方ないことだと思っている』と言っていました。そして不登校の子たちは『どうして学校に行かないの?』と聞くと分からないと答えることが多いんです。息子は彼の能力を使って言葉にしようと頑張ってくれていた期間だったと思います。そうやって折り合いをつけているようでした。
そんな日々が1~2ヶ月ほど続いたあと、長男は唐突に言ったんです。『僕って、こんなにしつこい人間だったんだね。もうこの件に関する話はやめようと思う』って。それ以降、自分のなかのドロドロとした感情を表に出すことはなくなりました。踏ん切りがついたように思えました」
家族はどのような対応を取ったのか。
「対応と呼べるようなものではないのですが、学校へ行くことを強要せず、急き立てず、傾聴することは心がけたと思います。大人という上の立場でアドバイスするのではなく、私も一緒になって悩むことにしました。実際、どんなに明晰な人でも答えが出ないと思うんです。
私がもうひとつ驚いたのは、次男が長男の不登校について何も聞いてこないことです。後年、私は次男になぜ聞かなかったのかを聞いてみて分かったのですが、『兄が家で勉強することは当たり前だと思っていた』と言っていました(笑)。そのとき、もしかすると物事をバイアスでみていたのは私のほうで、子どもたちはそうしたものから解き放たれているのではないかと感じました」
「高IQとかそういう言葉で、くくらないでほしい」と…
冒頭でも紹介したように、難波さんの長男は現在、東京大学に通い、数学科に内定している。東大を目指す原体験をこんなふうに難波さんは推測している。
「もちろん、勉強――とりわけ数学に魅了されて、日本の最高峰で学びたいという思いがあったのは事実だと思います。ただ、彼が小2のとき、長女が彼を連れて東大のオープンキャンパスに行ったことがあったんです。そこで、長男は教授を相手に質問をして、面白がられたそうです。くわえて、『君が大学生になるころ、東大で会おうね』とも。きっとそういう体験が根源にはあるのではないか、と私は考えています」
息子の不登校という現実を受け止めるのは、容易ではない。綺麗事では済まない部分もあるだろう。この点について、難波さんは非常に重要な示唆を示す。
「私自身、『不登校でもいいじゃない』と思える人間だという自負がありました。でもどこかで、いろんな検査を受けさせて『IQが高いからじゃないか』と納得できる答えを探していたような気がします。それをはっきり自覚するのは、不登校の長男から言われた一言なんです。『僕を高IQとかそういう言葉で、くくらないでほしい』と言うんですね。これまでどこかで、息子をカテゴライズしていたし、世間に不登校を認めてもらいたくて免罪符を探していたんだと思います」
「社会の規格に合わなくてもいい」ーーそう優しく、物知り顔で言う人間がいる。だが当事者は誰しも悩みの鎖に繋がれ、孤独な檻のなかでもがく。難波さんが不登校を受け入れられたのは、学校に通うことではなく、長男の学ぶ意志を尊重することを照準に定めて決してブレなかったからだろう。親から子にしてあげられることは意外と多くない。手渡せる僅かなギフトのなかに、目的を見誤らない姿勢があったことは、長男の人生にとって何よりの福音だったに違いない。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki
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